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北方圏学会の役員たち 4. 竹村茂昭
北方圏学会の役員たち 4. 竹村茂昭
履歴
竹村茂昭は明治42年、福岡税務署長の七男として福岡市橋口に生まれた。五男の兄に柔道家の茂孝と六男茂成がいる。天神に移り、大正5年福岡市立大名小学校に入学するも父の転任で鹿児島に転居して鹿児島市立大滝小学校に転校。大正7年には母多美の実家の大阪に転居し大阪市立今宮小学校、父親が税務署長を退任したことから福岡市に戻り簀子(すのこ)小学校。大正11年中学修猷館に入学。福岡高等学校文科甲類を経て昭和4年に東京帝大法学部政治学科に入学。柔道部に入部した。3年で高等文官試験に合格し昭和7年卒業。
卒業後の昭和7年5月、福岡高校で二年上だった柔道の先輩瀬崎清に誘われて渡満を決意する。建国して間もない満洲国で「理想国家の建設にかかわりたいとの思い」に駆られてのことであった。渡満前に瀬崎先輩とは別ルートの自治訓練所の体格検査を受けてみたら合格、しかしながら瀬崎の勧めを優先して満洲では瀬崎に任せることとした。大連港に着いて兄茂孝の五高時代の後輩で満鉄人事主任をしていた古賀叶宅に泊まった。瀬崎を頼って渡満したと話すと、満洲には会社はいくつもある、おれが世話をしてやると言われたが、それを固辞して新京に。竹村にもどんな仕事が待っているかわからなかった。
渡満
昭和7年5月5日新京に到着、駅頭には瀬崎のほかに福岡高校同期で柔道部そして九州帝大電気科を卒業した石橋観一も出迎えていた。旧制高校の同期や柔道部のつながりが強く働いて渡満後の仕事にも大きく反映したことがわかる。また古賀叶の言でもわかるように、満洲・満洲国では就職には事欠かないという状況であった。
満洲国では瀬崎の世話で実業部商務科に配属となった。竹村の言では、「青年の身で建国間もない満洲」に出向いたからには、「砲煙弾雨の中で泥まみれになって働くものだと覚悟」をしていたのに、内地のサラリーマンの生活と差がないのでいささか物足りない気持ちを持っていた。そんなことから柔道を再開し、5人で満洲国チームをつくって出場してみたところ優勝した。優勝候補の筆頭は大同学院であった。大同学院と言えば満洲国の官僚養成のための機関で前身は自治訓練所である。つまり渡満前たまたま竹村が体格検査を受けて合格した自治訓練所であった。もしこの訓練所に進んでいたら、大同学院からの柔道大会出場ということになっていたのかもしれない。
大同2(1933)年2月熱河省行政指導員、正式には熱河省朝暘政治工作班凌源県指導員として凌源県に赴任し凌源県参事官。11月には岸要五郎参事官から興安西省林西県行きを勧められ康徳元(1934)年1月林西県副参事官。「ここが骨を埋める土地になるかも知れない」との覚悟の赴任であった。『林西県事情』 を作成する。「ここで骨を埋める」覚悟の赴任であったが、岸要五郎からの懇請で康徳2(1935)年9月には、不本意ながら民政部警務司司法科付に転じる。
竹村は、渡満して地方の参事官に就任することについては、笠木良明の地方組織論、つまり県ごとの自治指導員(のちに参事官)による地方・村落の自治的な経営を重視する自治指導部体制に強く共感していた。「満人」の県長の下で補佐する参事官として働きたいと考えていたのである。渡満前に大同学院の前身の自治訓練所の体格検査を受けたというのもこうした理由からであった。
ところが、満洲国が成立した後、国家機構が順次整備されるに従い、地方自治に基礎を置く笠木の組織論も二重権力とみなされ後退させられる。参事官の権限は縮小され中央集権的に整備された法治主義の体制が強まっていくのであった。大同元(1932)年7月には資政局が廃止となり自治制度の領袖笠木良明は局長を解任、その影響下にあった参事官も馘首されることとなる。資政局の廃止と合わせて官吏養成のため自治訓練所を再編して大同学院が創設されている。こうした時期に竹村は渡満したわけである。それでも竹村は、地方行政参事官として満洲国の地方・村落で民衆のために働きたいとの志向を変わらず持続させていた。
その後地方行政ではさらに県に所属している警察隊を満洲国軍に統一しようという動きも出てきた。県ごとの警察隊を回収して軍に組み入れ、中央集権体制を確立しようしたわけである。これに対して地方に基盤をおいて地方行政を展開しようという竹村ら参事官は反対運動を展開する。結局竹村は、警務司時代の上司に誘われて天津松岡公館情報主任に就く。ところがここで天津事件に遭ってしまい、次に北京臨時政府財政総監理処顧問に転じる。
満洲国では、先の警察隊と国軍の統合問題は結局うまく運ばず分離のままとなっていた。そんなことから康徳5(1938)年になり、満洲国に戻ったらどうかとの要請があり3月に満洲国へともどる。満洲国の蒙古に対する地方行政については、蒙古の興安各省の旗制をもとにした蒙政部から、康徳4(1937)年7月には国務院管轄の興安局となっていた。満洲国にもどった竹村は、興安局で興安省の蒙古土地調査に取り掛かった。康徳6(1939)年5月に創刊された『蒙古研究』では、竹村が発行人として名前をあげて多くの論考を寄せている。
康徳7(1940)年4月には総務庁地方処参事官兼興安局参事官、そして翌年に内地留学をすませ、満洲国にもどって総務庁地方処に復帰する。康徳10(1943)年10月には興安総省・東満総省を発足させ興安総省総務科長兼参事官に就任した。ここでは行政文書が、「満文」(中国文)と日本文だけであったものを、蒙古文も加えた。
この少し前だが、康徳6(1939、昭和14年)2月、竹村は長尾須美子と結婚している。新婚旅行には福岡や東京を巡ったのだったが、下関に入港したとたん特高に呼び止められた。竹村の回想では、「私が反軍思想の要注意人物」として全国に回状が回っていたのだという。特高とは広島まで同道となった。特高がついたのも、県所属の警察隊を満洲国軍に統一しようとした満洲国の改編に反対したという理由によるものであったのだろう。
終戦と引き揚げ
終戦の年の康徳12(1945)年3月には、ソ連の南下とそれに対する総省の戦時態勢と引き揚げ援護の「興蒙対策」を制定し、ソ連の侵入への対策の緊急性を説いた。しかしながら周囲では、関東軍が後ろ盾になっているから大丈夫とか、ソ連に対して神経質になりすぎているという意見もあり、あまり切迫感はない様子であった。この「対策」で竹村はソ連の侵攻を8月中旬と想定していた。
8月になり竹村は6日に新京へ戻り、すぐさま赤峰に向かった。そして9日には想定より早くにソ連の進駐に遭ってしまった。その後苦労して赤峰から通遼・白城子を経て15日新京に到着、新京駅で終戦の玉音放送を聴くこととなった。ここで竹村は兄の茂孝と偶然に再会する。
とはいえ頼みの関東軍は早や撤退を決め込んでいてあてにはならない。軍の後ろ盾もなく竹村は16日東科後旗にいる同胞の救援に向かった。しかしながら22日には法庫でソ連軍により武装解除を受け鉄嶺に移送されて解放される。9月9日には、苦難の末に避難して新京までたどり着いた妻子と駅で再会。新京の茂孝兄のつながりで満洲炭礦の社宅に身を寄せることができた。
茂昭一家が引き揚げることができたのは翌昭和21年8月のことである。15日に葫蘆島から乗船して浦賀に着岸した。そして17日にはようやく福岡に戻ることができたのである。
戦後
戦後は兄茂成が経営する岩崎建設で働いた。昭和23(1948)年5月には博多の聖福寺で満蒙慰霊祭を開催した(興安会)。平成元(1989)年兄の茂成の後を受けて福岡県柔道協会会長に就任している。
柔道三兄弟といわれた五男の茂孝は修猷館から五高、京都帝大法学部に進み、住友銀行に就職した。その後筑豊の住友忠隈炭礦に移り、昭和8年渡満して満洲炭鉱(北票炭礦)に勤務、満炭阜新炭礦次長、琿春炭礦常務を務めた。昭和20年になり東満総省協和会副本部長に任命されている。しかしながらソ連軍の南下で赴任することはなかった。ただこの3か月の協和会役員の履歴によりソ連の官憲に追われる身となる。それを哈爾浜学院出身でロシア語のできる江川警務科長が奔走して証明書を発行してもらい、精神科医に身をやつして赤十字の腕章を腕に巻いて大連に逃れることができた。ちなみに山口重次は『満洲建国の歴史 満洲国協和会史』(栄光出版社 1973年)のなかで、満洲国建国後の北満地域での戦闘において、共産党が協和党(昭和7年7月15日協和会と改称、25日発会)の従軍宣撫工作に敗れたことを「余程怨におもっていたと見えて」、終戦時の満洲侵攻のときには、「軍人よりも官吏よりも、協和会員を目の敵にして苛酷に処罰している」と書いている。「軍人よりも」かどうかは別にして、戦前期に協和会に関与しているとわかると厳しく追及されたのは確かなようである。
六男は茂成。修猷館に入学するも父親の転勤に合わせて鹿児島一中、天王寺中学と転校。五高から京都帝大法学部に進む。岩崎家の養子となり岩崎建設の社長となった。満洲から引き揚げた茂昭はここに勤めたわけであった(以上は、武富一彦『激流 満州に生き、柔道に生きて 九州柔道協会会長竹村茂昭聞書』西日本新聞社 1999)。
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補記1 北方圏学会役員としての竹村茂昭
北方圏学会の役員だった竹村茂昭の渡満および満洲での事績を中心に、『竹村茂昭聞書』に拠りながら書いてきた。この『聞書』を読んでみて、竹村が 北方圏学会の役員に入っている意味もよく了解できた。北方圏学会および『北方圏』は、地方からの調査報告を重視し、それを誌面に反映させようとしていたからである。 彼は参事官という行政マンであったが、興安省など満蒙の土地調査の専門家であり、調査報告書も刊行し、論文もいくつか書いている。こうした人材を北方圏学会は必要としていたのであった。
竹村は東京帝大を卒業して渡満したわけだが、それは満洲国建国後の笠木良明らの大雄峯会の唱えた地方自治制度に大きく影響を受けてのものであった。その直接的なつな がりが、福岡高校の先輩や柔道部のそれであったとしても、その根底には、満蒙の地域で参事官として働き、民衆のために働き、その地で骨を埋めようと考えていた。そうしたことがこの『聞書』を読んでよく理解できた。
そして竹村茂昭に限ったことではないが、その運命の岐路というか、決断の分かれ道が随所に存在していたのだということも実感できた。満洲の地で亡くなった人も、終戦を迎えたあと引き揚げをする迄の間に無念の死を迎えた人も数多く存在した。そんななかで竹村はこうして家族ともども引き揚げを果たすことができた。それも、なにか偶然の積み重ねでありいわば奇跡であったというような気がしきりにするのである。
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補記2 蒙古研究会『蒙古研究』発行者としての竹村茂昭
満洲国政府は大同元(1932)年に 興安局を置いてその統治を行なったが、興安局はその職員に対し、「蒙古の特殊性を研究し蒙古事情の精通者たれ」とその調査研究を推進した。それを実体化させるため蒙古研究会を結成し、康徳6(1939)年5月に『蒙古研究』を創刊した(白濱晴澄「創刊の辞」)。編集人は児玉信久、発行人は竹村茂昭、発行所は順天路国務院興安局協和会分会内であった。
康徳5(1938)年3月に満洲国へともどった竹村は、興安局で興安省の蒙古土地調査に取り掛かっているが、その研究成果の多くがこの『蒙古研究』に発表された。天理図書館に所蔵の『蒙古研究』を見た限りであるが、掲載論文は以下のとおりである。
「中間報告に代えて 興安各省実態調査」創刊号 1巻1号 康徳6年
「ハラトクチン通信 十家長百家長制度を―」 1巻2号 康徳6年1
「特輯―錦熱蒙地奉上解説」橋本重雄と共著 1巻4号 康徳6年
「阿魯科爾泌旗に於ける土地に関する諸慣行及び権利関係」2巻1号 康徳7年
「奈曼旗に於ける土地に関する権利関係の諸様相」2巻2号 康徳7年
「蒙地のはなし」2巻3号 康徳7年
「郭爾羅斯旗に於ける驛站」3巻1号 康徳8年
「莫力達瓦旗地方土地沿革」3巻2号 康徳8年
「瓦房屯状況」5巻2号(通巻22号) 康徳10年
「地区及び地区行署の運営に就いて」6巻1号(通巻25号)康徳11年
なお、この「地区及び地区行署の運営に就いて」の竹村の寄稿に対して、編輯後記では、「着任早々」の忙しい時期に寄稿されたと謝意を述べている。これは竹村が康徳10月興安総省総務科長兼参事官に就任したことをについて述べたものである。いずれにしても竹村がこの『蒙古研究』の多くの論文や報告文を書いていることに驚く。これも竹村が、若い時期から蒙古の地方・村落の自治的な経営に関心を寄せ、「満人」の県長の下で補佐する参事官として地方自治のために働きたいと考えていた、その志が持続していたということをよく示している。
2025年9月1日記、2025年10月4日補記
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