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北方圏学会の役員たち 3. 千葉胤成

北方圏学会の役員たち 3. 千葉胤成
千葉胤成は明治17年、宮城県登米郡石越村に六代続く医家の5男として生まれた。宮城県尋常中学(のちの県立第一中学)に入学。学友会誌の委員のち主任。仙台の第二高等学校に進むが、在学中、日露戦争に従軍した医師の長兄が満洲で病を得て帰国し仙台の病院で亡くなってしまった。敬愛していた長兄の死を体験した千葉は落胆し、この経験から仏教に傾倒、「たましいの実相」といった宗教的な問いを胸底に沈殿させてその後の人生を歩んでいく。明治38年9月、京都帝国大学文科大学に入学、心理学科を専攻。京都帝大には松本亦太郎が迎えられ実験心理学の講座がもたれていた。松本はその後東京帝大に転出し野上俊夫が教授となったが、野上は講演会などで研究室を空けることが多く西田幾太郎が代講することもあった。明治42年千葉は大学院に進学、臨済宗大学(のちの花園大学)の講師も務めた。大正2年京都帝大講師、大正6年には助教授に昇進、大正9年にドイツへ留学する。この留学中に東北帝国大学に新設される法文学部の教授就任を打診されそれを受諾している。また留学中にヴントの旧蔵書が売りに出されたことからそれを赴任先の東北帝大に入れたいと考え、他大学との競争に勝ってその購入に成功した。この購入には斎藤報恩会の資金援助があった。東北帝大では心理学研究室の開設とその運営に力を尽くした。

昭和15(1940)年10月、千葉は突然東北帝国大学を辞して渡満し建国大学教授に就任する。「大学内部のお家騒動」があったようである。壮行会も送別会もなく、蔵書をまとめ犬まで連れての満洲行きであった(児玉斉二「千葉胤成」、古賀行義編著『現代心理学の群像 人とその業績』協同出版社 1974年)。建国大学への就任は建国大学作田荘一副総長の招請といい、固辞したが民族に関する心理学的研究を懇請されて就任した。そして、康徳9(1942)年4月には満洲心理学会を結成し会長に就いている。日本心理学会は満洲支部の結成を要請したのだがそれを断り満洲国に独立した満洲心理学会を発足させたのであった。満洲国での民族ごとの心理学研究を行ないたいと強く考えたからであろう。実際、建国大学では研究院が中心となり、共同研究「在満諸民族の心理学的研究」を行なっている(「Ⅶ 歓喜嶺」『千葉胤成著作集 4』 千葉胤成著作集刊行会編 協同出版 1972年)。

昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍が南下、そして15日終戦を迎える。当時の建国大学副総長は尾高亀蔵中将であったが、戦犯として捕まるのを避けて逃走してしまったことから、千葉が副総長代行として事に当たらなければならなくなった。尾高も北方圏学会の役員であった。そして千葉が引き揚げることのできたのは昭和21年8月のことであった。 2025年8月23日 記