ブログ・エッセイ
北方圏学会役員2 大間知篤三
大間知篤三の事績
大間知篤三は康徳2(1935)年建国大学講師として渡満した。のち助教授・教授。ここでは大間知の履歴を略記し、『民間伝承』の大間知篤三追悼号などにより建国大学時代のことを中心に書いておく。
大間知は明治33年富山市の生まれ。第四高等学校文科乙類から東京帝国大学文学部独文科に進む。新人会で活動し幹事長。また学生社会科学連合会(学連)の指導も行ない勞働農民党本部書記。卒業後の昭和3年3月一年志願兵として金沢連隊に入営したが治安維持法違反で逮捕され3年間の刑で服役。減刑されて出所し大宅荘一主宰の翻訳団に入りドイツ文学作品の翻訳などに当たった。柳田門下に入り郷土生活研究所の同人となり民俗学研究に専念、各地の民族調査に出かける。昭和10年4月皆川治広主宰の大孝塾研究所(のち国民思想研究所)の研究員となる。昭和14(1939)年2月、国民思想研究所を辞し建国大学講師として渡満。これは金沢連隊入隊時の上官で当時関東軍参謀だった辻正信の推薦によるものであった。建国大学では前期(予科)でドイツ語を、後期(学部)では民俗学を講じた。助教授・教授と昇進。康徳9(1942)年5月の満洲民族学会設立に尽力し、第一分科「民族伝承」の主査。石斛同人と称した。石斛は大間知が愛してやまない植物であった。麻雀もまたよく打った(「大間知篤三略年譜」『大間知篤三著作集 第6巻』未来社 1982年、浅野晃「大間知篤三君追悼」『民間伝承 289』1970年7月)。
大間知篤三の渡満
大間知は昭和14年2月に建国大学講師として渡満する。まずは大連港に上陸、ここで新人会の時代から親しかった石堂清倫の臥龍台の代用社宅で二泊した。石堂も大間知と同様、昭和3年に検挙され、保釈後は日本評論社に勤めて出版部長だったのだが、編集事情が警視庁に報告されていると知って退社、満鉄調査部に移った。外国経済係主任であった(『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』の石堂清倫の項)。ここで大間知は石堂に、大連図書館の資料、なかでもシロコゴーロフの資料を借りたいと言い借り出してもらったという。大連図書館は、満鉄の社業の参考図書館でもあり満鉄本社の向かいに位置していた。つまり満鉄調査部勤務の石堂にとってはこうした本を借り出すのは容易なことであった。
その後大間知は新京の建国大学に赴任する。大間知は出張で上海などに向かう時、帰路には必ず石堂の家に立ち寄った。上海の古書店でシロコゴロフの『満洲族の社会組織』を 購入することができた時には大変にうれしそうであったという。石堂は、「前にも後にもあれくらい幸福そうな大間知はみたことがない」と回想する(石堂清倫「新人会の名幹事長」、前掲『民間伝承 289』)。
ちなみにこの本を大間知は戸田茂喜と共訳で訳書を刊行している(刀光書院 1967年)。その「はしがき」や「訳者序文」に本書刊行のいきさつが書かれる。それによると大間知は昭和17年の冬に広島文理科大学教員だった戸田の元を訪ね、戸田がすでに半分近くを訳出していた本書を共訳で刊行することとしたのである。戸田はその後の昭和18年5月15日に満洲国立中央図書館籌備処の司書官として着任している。本書の「はしがき」には奉天図書館とあるが、これは満鉄の奉天図書館ではなく、新京にあった満洲国立中央図書館籌備処の管理下にあった旧記整理処・奉天図書館である(岡村敬二『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』の「戸田茂喜」の項)。なお戸田は満洲国奉天図書館から応召となり、長期のシベリア抑留を経て帰国するも体調を崩して帰国後すぐに亡くなった。
本書の口絵には写真が掲載されている。昭和19年12月末の日付を持つ大間知の「はしがき」によれば、これは昭和18年に黒龍江省から老齢のアンバ・サマンを招いた時のもので、写っているのは三枝朝四郎(満日文化協会)・黒松巌(建国大学経済学部)・江頭恒治(建国大学経済学部)・井辺房雄・大間知篤三・大森志朗(建国大学および中央図書館籌備処司書官兼任)・宮川善造(建国大学)・大間知千代(大間知篤三夫人)、それに建国大学の学生たちである。三枝朝四郎は写真を得意としていた。大間知も仕事の写真をたくさん撮影したが、それらは引き揚げのどさくさで行方不明となってしまったのだが、どういうわけかこの写真だけが残っていたのだという。
大間知篤三の交友
建国大学教員で南嶺の社宅に住んでいた大間知のもとには多くの友人が訪れている。民俗学者で医師でもあった澤田四郎作は軍医として応召し渡満したが、昭和17年8月に勤労奉国隊の輸送について新京に赴いたとき、澤田はまず駅前の満鉄調査室に守随一を訪ねた。しかしながら守随は奉天に転属したとのことで、建国大学の大間知を訪ねようとも思ったが、駅前から南嶺の建国大学まではいささか遠くこの時は断念した。
昭和18年12月になり、澤田は哈爾浜に博物館の福島館長を訪ね、その後南下して新京に向かった。新京では予約したはずの駅近の富士屋ホテルが手違いでとれておらず、やむなく大間知に電話をし、南嶺近くの宿舎まで路面電車で向かい泊めてもらった。翌日には「隣家の山本守氏」が来て三人で話し込んだ。山本守は建国大学教員で北方圏学界の役員であった。その山本と大間知は社宅では隣どおしだったのである。澤田が訪問したとき、大間知はダホール族やオロチョン族など多くの民族についてのノートを何冊も示しながら話をしたのだという(前掲『民間伝承』)。これらの詳細な調査研究ノートは民俗学研究にあっては「命」でもあったわけだが、写真同様引き揚げ時に持ち帰ることはかなわなかった。
金沢出身の眼科医で民俗学者の長岡博男も大間知を訪問している。眼鏡の蒐集家で研究者でもあった長岡の所蔵資料は石川県立郷土資料館にあり、『長岡博男文庫蔵書目録』も刊行されている(1975年)。そんな長岡は、昭和16年夏に牡丹江へ派遣となり、その後新京西南の孟家屯に移動した。近くに住んだことから長岡は新京の大間知をよく訪問した。訪ねた時には建国大学の校医であった小原医師も交えて談笑した。当時シャーマンに関心を持っていた大間知は、満日文化協会の三枝朝四郎の撮影した写真などを見せてよく議論もした。大間知は長岡や守随一と連れ立ってヤマトホテル周辺の屋台を飲み歩いたという(前掲『民間伝承』「満洲時代の大間知さん」)。
なおこの長岡の回想には、「(大間知は)建大の二、三の教授と協力して「北方圏」という雑誌を出しておられた。北方の民族と民俗に関する論説、報告が中心であったが、私も大間知さんに依頼されて「雪眼鏡」という小文を投稿した。しかしタイミングがわるく、終戦と共に消滅したのであった」と出ている。この長岡の論考は、第5号までには掲載されていない。第6号以降に掲載の予定だったのであろうが、戦況の悪化とソ連軍の南下によりそれもかなわなくなった。
長岡はここで、大間知が「建大の二、三の教授と協力して「北方圏」という雑誌を出しておられた」と書いているが、北方圏学会の役員の顔ぶれをみると、それは「建大の二、三の教授」によるものというよりもう少し大掛かりな学会誌であった。いずれにしても建大 が中心であったし大間知も中心メンバーのひとりではあった。
建国大学教授で経済史の研究家江頭恒治の回想「大間知さんの追憶」(前掲『民間伝承』)によれば、江頭は満洲時代に大間知の写っている写真を二葉もっているという。一枚は康徳8(1941)年6月15日のもので、建国大学の学生と出かけた高懐玉城子での現地調査の写真である。ここに写っているのは、教員側の参加者は、宮川善造・黒松巌・黄道淵・江頭恒治と大間知であった。もう一枚は康徳10(1943)年3月のもので、大間知らが建築を進めていた民俗博物館を背景にしたものである。おそらく先述の『満洲族の社会組織』に掲げてある写真と同じ時のものと思われるが、この江頭の回想によれば、黒龍江畔の大紅旗営子屯から招聘した満洲旗の老シャーマン、太鼓を持つ助手、17人の建大 学生、それに大間知夫妻・宮川善造・大森志朗・黒松巌・井辺房雄・江頭恒治・三枝朝四郎の面々であった。
坂東勇太郎の「建国大学教授大間知篤三先生」(前掲『民間伝承』)にも大間知の写った写真が掲出されている。昭和18年春の山東徂徠山麓での写真で、前日に宿泊させてもらった陸軍守備隊の防壁が背景に写っている。「若くて勇ましい格好の若者たち」は建大文教学科の「北支旅行隊曲阜班」の学生である。坂東は建大の大間知のことにも触れているのだが、建大 には出席の確認などはなく、友人が大間知のドイツ語の授業をさぼったその日に、その友人が大間知の家に将棋を差しに出かけたりしたのだという。大間知は、「よお、よお、上がれよ」と歓待してくれ、その友人は将棋を指した上に食事までご馳走になった。坂東は、五族協和の建国大学というイメージからはちょっと想像できないことだが、と書いたうえでそんな大間知のエピソードを紹介しているのである。また坂東はこの旅行の時、済南の新民会で「支那料理」の接待を受けた。最後に出てきた白くて輝くばかりの饅頭(まんとう)をみて学生一同が目を見張っているとき、大間知は、「サトウキョウゲン」とポツリと言った。学生たちは一瞬わからずきょとんとしていたが、すぐに気づいて一同大爆笑となった。「サトウキョウゲン」は建国大学の漢学教授「佐藤匡玄」で、佐藤教授の頭は見事に禿げ上がっていたのであった。佐藤匡玄も、北方圏学界の役員の一人である。
小熊勢記「満洲時代の大間知先生」には大間知のこんな一面も書かれてある。建大教授には、「日本の自由主義的な大学教育」に批判的な、そして「教育的熱意」に満ち満ちた教員が多かったのだが、大間知はそんな教員に対して「いくらか皮肉な眼でみておられた」。大間知はといえば、学生とは「これという話」をするでもなく「ただ何気ない雑談をされることが」多く、それが「何となく楽しかった」のであると。それが大間知の生来のものであるのか、はたまた東京帝大時代に新人会などの活動で捕らえられ、その後民俗学の学徒になったことへの、なんと言うか、影のようなものを心の奥底に持っていたのか、それはわからない。大間知には、熱狂的な「取り巻き学生」などいないのだけれども、熱狂的で教育的なことなどは「何にも教えようとされなかった」のである。そんなことから大間知を慕う学生も多かった。この小熊も、大間知から、案外多くのものを学んだような気がすると回想する。小熊自身、大間知のドイツ語の講義も民俗学の講義も受けていない学生であったのである。
こうした大間知の、新人会時代に治安維持法違反で下獄した経験や、その後に民俗学の研究に向かう「転向」体験が、建国大学での五族協和スローガンの熱狂性や感奮に対して、斜に構えた姿勢、またそれを相対化するすべを大間知は持ち合わせていたということなのであろう。
新人会時代、大間知が検挙され軍法会議に附されて服役をしたという体験を大間知がやはり気にかけていたということが宮本常一「クサイ飯 大間知篤三追悼」(前掲『民間伝承』)に示される。民間伝承の会ができたころというから昭和10年ごろであろうか、世話人会で話をして盛り上がった時、「私が何か気にさわることを話したら、ねころんでいた大間知さんがむっくりおきなおって、「君らクサイ飯をくった経験がないから甘いことを言ってられるだ」ときめつけられたこと」があったと書いている。出所して数年後のことであり、大間知にとっては、いろいろなことに対して、忸怩たる思いがないまぜになっていたのであろう。建国大学での先の学生のエピソードは、それから十数年後のことであり、大間知も思い定めての渡満であったであろうから、自身の気持ちも随分整理され相対化の度合いも大きく変貌していたことであろうと思われる。大間知の心の内面がうかがわれる興味深いエピソードである。
ここまで大間知篤三の追悼集から建国大学時代のエピソードを書き出してみた。帝大時代に新人会や労農党の書記として活動したこと、3年の刑を申し渡されその後は民俗学の研究者として活動したこと、そんな大間知の体験が、建国大学という国策に沿ったエリート大学の気風を、なにがしか相対化したと言ってよいかもしれない。民俗学の授業も、もちろんその学問領域に拠っていることではあるが、座学よりも現地調査・実地探索に重きが置かれていたということをみても、なにかそんな大間知の影というか斜に構えた姿勢が垣間見える、そんな気がしている。
最後にこの『民間伝承』の大間知篤三追悼特集に文章を寄せている千代夫人の回想文「白き花咲き君を待てど」 の冒頭にある歌を書き抜いて終えたいと思う。
せっこくの 白き花咲き 君待てど 愛でにし主は かえりきまさず
帰り給へかし いま一度 せっこく山荘 花さかりなり 2025年8月15日