ブログ・エッセイ
けが、不注意、段ボール、資源ごみ、接着剤、新幹線工事、暮らし、感情、技術、思想、図書館、自動書庫、書庫の並べ方、ロボット
お花をもらった。段ボールに入っていてきれいな蘭の花である。ありがたいことだ。日当たりの良いところで大事に育てている。
一か月ほどして、この段ボールとほかの段ボールをまとめて解体した。資源ごみに出すためである。
ところで、段ボールを四角い箱にする方法にはいろいろあるようだ。たとえば菓子箱や小さな電化製品など、実に見事に組み上げている。糊も接着テープも使わない。解体して展開図の形にすると、そのち密さと周到さがよくわかり、感服する。
果物などのいわゆるミカン箱。これは段ボールホッチキスで留めてある。外すのにラジオペンチがいる。カッターやホッチキスのお尻の部分で外そうとしてもなかなかうまくいかず、怪我をしそうだ。
ほかにガムテープを貼って四角く箱にしたものももちろんある。
今回の宅配お花プレゼントの段ボール、これはどうも糊付けのようだった。しかしながら、この糊付けは強力接着剤のようで、手ではなかなか外せない。やむなくカッターで切れ目を入れるが、なかなか手ごわく、はずれようとしない。カッターで切れ目を入れて手で外すという作業の繰り返し。そしてとうとう怪我をした。段ボールの端っこが爪に入って少し血が出た。
いやだいやだ、どうしてこんなに強力で外れにくい、がんじょうな接着剤があるんだろう。資源ごみとして解体する善良で良識的な老人の身にもなってくれ。
いやだいやだ、どうしてこんなに強力で外れにくい、がんじょうな接着剤があるんだろう。資源ごみとして解体する善良で良識的な老人の身にもなってくれ。
怪我をするわたしが悪いのであろう。それはわかっている。そこでわたしは考えたのだった。これは科学技術の進歩の結果である。この強力接着剤を開発した技術者の成果であり功績でもあり誉れでもあろう。だが、それを解体する老人のことに少しは思いを致してくれているだろうか。これは手ごわく時間がかかる作業を強いてくる。これはどういうことであろうか。
もういちどわたしは考え込む。そうだ、科学技術の進歩に、人間の日々の生活、また老人の暮らしがついていっていないと いう結果である。というより、これは「科学技術進歩」を崇拝し、善であると信じ込む妄信の結果ではないか。いや言い過ぎかもしれない。わたしが怪我をしたからそうことあげしているのかもしれないだろうか。
だが、ともう一度よくよく考えてみる。やはり、科学技術の進歩・進化が、人間の思想や精神を無視して進みすぎている結果ではないかと思いいたる。
北陸新幹線が京都に乗り入れるのに、あれやこれやの問題が生じている。当初の案では、京都駅から大阪に行くのに、わたしの家の隣に新幹線の駅を作るという案があった。京都駅に乗り入れにあたっても、わたしの隣の駅にあっても、それは地下を掘って通すのだろう。
ここで、段ボールで爪の間を怪我したわたしは考えるのだ。これも科学技術の妄信・猛進の結果ではないか。掘ることはできるだろう。深くても昔に比べたらはるかに早く効率的に掘れるだろう。この技術至上主義の人たちはいうだろう。そんなの簡単なんですよ、と。
だが、それは人びとというか、わたしたちの暮らしの実感や感情からかけ離れて、技術至上主義のなせる業ではないだろうか。
強力接着剤で固くしっかり協力に貼られた段ボールをはがす老人の身にもなってくれ。そうまで強力にしないといけないか?ものには程というものがありゃしないか?むなしい繰り言だが、言わないと腹ふくるるわざするから言っている。
それにしても、切ってから3日経つが、段ボールのはしっこで切った爪のけがはなかなか治らない。なんだか膿もうとしている気さえする。
附記:
ついでに言う。わたしが図書館に勤めていた時、新館を建てるということになった。その設計の段階で、100万冊を超す資料を書庫に収蔵するにあたって、どのように配架するか、という話になった。図書館司書であるわたしたちは、とうぜん分類記号順だろう、分類順じゃないと資料調査やレファレンスの時、資料に当たる際に不便だ、と主張した。
そのとき設計を担当していた業者が、本を、受け入れ順に配架してそれを機械で出納することもできますよ。なんなら大きさ順に並べて書庫に収納したら場所を取らず効率的なのですが、とそう言った。誇らしげに。
もちろんわたしたちは、「分類」という図書館の本体力を手放すような、そんな愚かなことはしなかった。そして今でもそれが正解だったと思っている。
しかしながら、県立図書館のなかには、そうしたロボットの自動化書庫を採用した図書館もあるようだ。なぜそんな図書館の持っている力をそぐようなことをするのか。場所や人手を考えて、効率的な「科学技術」を採用したのであろうが、わたしはそれは愚かなことであると思う。
そういえば、県立図書館だけでなく、国立の関西館もそうだったかな。ことここに極まれり、という気分で暗澹たる思いに陥る。
そしてわたしの指の怪我は一向に治ろうとしない。じっと指を見る、繰り返し指をうかがう、というわけであるのである。 2025年8月10日
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