ブログ・エッセイ
北方圏学会役員 1 島田貞彦
北方圏学会役員 島田貞彦
島田貞彦の事績
終戦時、島田は関東局の旅順博物館の館長であった。終戦により設立母体の関東局は解体となり、博物館は進駐してきたソ連軍に接収された。館長職にあった島田は、博物館および所蔵文物の引継ぎのため旅順の地に残った。しかしながら不運なことに病を得て、昭和21年12 月26日、旅順のソ連軍の病院で亡くなってしまったのであった。
満洲や満洲国において、研究者・調査員・図書館員として働き、終戦となってそのまま中国で留用となり、しばらくの間中国に残留した人もいたわけであるが、それでも彼らの多くは苦難の末に引き揚げを果たし、戦後日本の大学や図書館に職を得て、研究者や調査員・図書館司書として生きていった。そんななか、島田は引き揚げを果たすことなく旅順の地で亡くなってしまったのである。無念の死であり、島田にとっては非業の死であったと言ってよいであろう。
島田の事績や年譜に関しては角田文衞の「島田貞彦の生涯と業績」「島田貞彦略年譜」「島田貞彦著作目録抄」(『考古学京都学派』雄山閣出版 1994)が詳しく、またそれは情愛を込めて書かれてあり、これ以上になにか付け加えることがあるわけではない。ここではこの角田の論述をもとに島田の事績をたどり、わたしの備忘としておきたいと思う。
島田は明治22(1889)年に京都市で生まれた。府立一中から京都高等工芸学校図案科に進んだ。現在の京都工芸繊維大学である。このころ京都高等工芸学校では武田五一が教授をしていて島田もその指導を受けた。大正2(1913)年に卒業して京都帝国大学文科大学の副手に採用となり考古学研教室に配属される。ただ当時考古学教室の濱田耕作助教授は留学中で島田は小川琢治のもとで働いた。
大正3年文科大学の陳列館の工事が終わり、研究室と標本室はこの陳列館に移った。島田はこの年の大正3年から1年間歩兵連隊に入営し翌年12月に助手として復任している。濱田教授は大正6年教授に昇進、島田はその考古学調査の補佐としてよく務めた。当時の考古学教室には教務嘱託として榊原政職(まさもと)や梅原末治もいたのだが、温厚な性格の島田は誰ともうまくやっていった。
東亜考古学会と関東庁博物館
大正15年に濱田耕作は、東京帝大の池内宏教授・原田淑人助教授・島村孝三郎らと東亜考古学会を組織した。発会は昭和2年3月である。
この昭和2年秋には東亜考古学会の第1回目事業として関東州貌子窩遺跡発掘調査が行われた。東京帝大から原田淑人・長谷部言人ら、京都帝大側から濱田耕作、それに島田貞彦が参加した。この成果は、昭和4年に『 貔子窩 南満洲碧流河畔の先史時代遺跡 東方考古学叢刊 [甲種] 第1冊』として「刊行された。
昭和3年には南山麓の漢代遺跡牧羊城での発掘が行なわれ、これには関東庁博物館も協力した。この発掘には、東京帝大から原田淑人・駒井和愛ら、京都帝大からは濱田耕作・水野清一、それに島田も加わった。旅順博物館側からは内藤寛主事、森修館員らも参加している。この成果は 昭和6年に東亜考古学会から『牧羊城 南満洲老鉄山麓漢及漢以前遺蹟 東方考古学叢刊 第2冊)』として刊行された。
昭和4年には、老鉄山麓の漢代墳墓発掘調査が行なわれた。この発掘調査は関東庁博物館の主催、東亜考古学会の協力による発掘調査である。発掘地および宿舎の手配など、関東庁博物館側内藤寛主事・森修館員が万端整えて実施された。参加は京都帝大の清野謙次・濱田耕作・島田貞彦ら、東京帝大から原田淑人らであった。この研究成果は、『南山裡 南満洲老鉄山麓の漢代甎墓 東方考古学叢刊 第3冊』として昭和8年に刊行されている。
また昭和6年の夏、これは東亜考古学会の発掘調査ではなかったが、旅順・大連間の道路工事の際、営城子付近で漢代の古墳が見つかり、関東庁土木課からの通報を受けて内藤寛・森修が出張し調査した。そしてその付近に壁画古墳も発見することができ、博物館ではこの調査報告をまとめ、出版する手はずとなっていた。森の回想では、そこに「濱田耕作から申し入れがあって」他の論文も加えて昭和9年に『営城子 前牧城駅附近の漢代壁画甎墓 東方考古学叢刊 第4冊)』として出版されることとなった。 この「はしがき」に当たる部分に、博物館長日下辰太、同館主事島田貞彦への謝辞が書かれてある。島田はこの発掘にはかかわっていないが、刊行される時点では関東庁博物館の主事に赴任していたのである。館長の日下は関東庁の内務局長か司法部長の職にあったはずで、この館長職は充て職であったから、「濱田耕作から申し入れがあって」というのも、実際は島田主事が刊行の労を取ったのではないかと思われる。この調査はもともと東亜考古学会のものではなく関東庁独自のものであったし、だれか関東庁側からの口添えがないと刊行には至らないのではないかと考えるからである。
昭和8年にも濱田耕作から発掘調査の連絡があり、森修らは発掘の道具など万端の準備をして羊頭窪貝塚を選定、通訳の手配もして濱田耕作・清野謙次・金関丈夫・三宅宗悦らを受け入れた。この調査には、大連に在住であった八木奨三郎も参加した。関東庁博物館からは島田貞彦・森修が参加して調査が実施された。この成果は、濱田耕作が亡くなった後の昭和17年に『羊頭窪 : 錫林郭爾、烏蘭察布に於ける地質・古生物・人類の調査 東方考古学叢刊 乙種 第3冊』として刊行されている。
このように、関東庁では、東亜考古学会が主体となって発掘調査が行なわれ、その当初の調査に島田貞彦は京都帝国大学側から参加した。そのときは、後に自分が関東庁博物館の主事に就任するなど思ってもみなかったであろう。そして関東庁博物館の主事に就任して以降、島田は受け入れる側の関東庁博物館側として参加したということになる。
関東庁博物館の沿革
ここで関東庁博物館の沿革を略説しておく。関東庁博物館の前身は、大正6年4月に関東都督府満蒙物産館である。その建物を竣工させて大正7年関東都督府博物館、さらに大正8年には関東都督府が関東庁となったことから関東庁博物館と改称となった。所蔵文物は、満洲・蒙古・中国本土の考古美術品などで、特筆すべきは、大谷光瑞の支那・西蔵・印度関係資料7500余点で、それは大正6年4月満蒙物産館に寄託されている。
この大谷資料は昭和4年に光瑞の申し出により博物館に寄贈されている。森修の回想によれば、大谷資料が寄託から寄贈に切り替えることとなった際に、経巻を除く文物の評価総額を10万円とするため、その書類の作成をしたのだという(森修「旅順博物館の思い出」『古代文化』38巻11号、1986年11月)。また大正13年ごろには、内藤寛主任(主事代理)の時代に、ロシア時代に造営されていた植物園の管理を引き受け、動物園も新たに設けられている。旅順博物館と改称されたのは昭和9年12月のことであった。
島田貞彦の転任
昭和7年になり、内藤寛主任(主事代理)は奉天故宮博物館の嘱託として転出する。そこで関東庁博物館では学識ある専任の主事の任命を望み、当時の関東庁の学務課長御影池辰雄と協議、その人選を森修に任せるということになった。そんなことから後任者の推薦については、これまでの東亜考古学会との関係も考慮して、昭和7年5月、森は濱田耕作に人選を依頼した。濱田はその後任として島田貞彦が適任と考えて推薦したのであった。たまたま御影池が島田と京都一中の同窓ということもあり、島田の採用が決定した。関東庁側では「一級官舎」を用意して着任を待った。しかしながら島田はなかなか赴任して来ない。御影池科長も、もうやめたらどうかと進言したりした。そして7月になりようやく着任したのであった。
この着任の延引は、島田が関東庁の博物館主事として転出するにあたって、京都帝大考古学教室の濱田耕作が、まずは島田を京都高等工芸学校に依頼して一時的に高等官である教授とし、また昭和7年度の京都帝国大学文学部の講師を委嘱するなど、いわば花を添えるかたちで形式を整え関東庁に送り出そうとしたことによるものであったと思われる。
こうして関東庁博物館に島田は赴任する。島田が京都を出発したのは昭和7年7月25日の朝、大連港に着いたのは28日の早朝で、島田と百代夫人は旅順市常磐町18番地に住まわった。
島田に関東庁博物館主事の辞令がおりたのは昭和7年8月1日である。なお上司の「館長」はいわば充て職で、関東庁の総務局長らが兼任していたから、博物館の管理運営は事実上この主事が行なった。
森修館員のこと
主事の選任を濱田に依頼したという森修館員については、「旅順博物館の思い出」(『古代文化』38巻11号、1986年11月)という回想文があるのでここで少し書いておく。博物館内の業務なども知ることができよう。
森は大正6年に満鉄に入社している。そして大正8年にこの関東庁博物館に転任した。森の回想によると、2日間を博物館本館で過ごしたのだが、日本で見てきた博物館と比べてずいぶん異なることからいささか失望の念を禁じ得なかった。ところが3日目に松村町の考古分館への配属を言い渡されて赴任してみたところ、そこには大谷探検隊の蒐集した文物が保存されてあり、森はこれをみて将来に大きな希望を抱いたのだという。分館の考古館には前任者の山口松次郎がいたが半年ほど後に他部署へ異動したことから、森がその大谷資料を整理する担当となった。博物館から転出した山口松次郎は『満蒙』に石器や焼物の論文を書いている。また大正14年4月の『書香』第1号には大連図書館員の肩書で「殷代の文字」を書いているので、この山口の転出はおそらく大連図書館へのそれであったろう。山口はその後も満鉄図書館に勤務している(『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』)。
さて大谷探検隊の収蔵品だが、それは支那・西蔵・印度関係の資料で7500 余点ほどもあった。 資料は10分類されていて、現物と突合するためのカードがあり、資料名・番号・数量・大きさ・発見地・分類別番号が記してある。森はこれに従ってラベルの張替えなどの作業をおこなった。その作業には1年間かかった。大谷光瑞は毎年一度は渡満し、大連の西本願寺に滞在、その間に旅順を訪れたのだという。ここに大谷資料が関東庁博物館に収蔵されるまでの経緯が書かれるがここでは省略する。この資料の受け入れの書類には大正6年4月1日とあり、この寄託が関東都督府満蒙物産館創設の契機ともなったことが見て取れる。その後関東庁博物館と名前を変えて資料を保存整理し展観してきたわけだが、こうした大谷資料の整理などについては博物館に在職した八木奨三郎の指導ではなかったと森は推察している。分館であった考古館を本館に移して以降、骨董商の出入りも頻繁になった。資料の真贋や、また購入価格など、なかなか難しいこともあり、転出した八木奨三郎や陶芸に詳しい中尾万三に購入委員を委嘱して購入に当たったと言う。
島田は、その後も森修らと精力的に発掘調査を行ない成果も発表していった。少し後になるが、昭和18年には森修とともに『旅順博物館図録』を刊行している。この図録の「関東局」名の「例言」をみると、編輯に当たって後藤眞太郎および杉村勇造が協力し、撮影には坂本万七、製版に岡崎信夫が当たったと述べられてある。後藤眞太郎は満日文化協会理事のひとりで『纂組英華』などの刊行にあたった座右宝刊行会社主、杉村勇造は満日文化協会の常務主事である。
またこの森修「旅順博物館の思い出」には写真が2葉掲載されている。1枚は昭和13年5月のもので博物館を背景として7名が映っている。もう1枚は昭和18年4月に博物館前庭で写したもので、島田貞彦・森修・有村明禧・菱川禱一・宮本喜代蔵・野本彦作であったと附記されてある。これがこの時点での博物館の職員かと思われる。
島田貞彦のその後
さて島田は、昭和20年に創設された北方圏学界の役員(世話役)に名前があがっている。この学会は、沈瑞麟を会長に戴き、「相談役」に岡大路・柿沼介・神尾弌春・黒田源次・瀧川政次郎・千葉胤成・藤山一雄らを擁し、島田の就いた「世話役」としては、天野元之助・大間知篤三・大森志朗・杉村勇造・弥吉光長らが名前を連ねていた。終戦まじかの満洲国において活動していた学芸の世界のそうそうたる顔ぶれといってよい。詳細はこの『北方圏』復刻版の解題を参照されたい。
その島田は、この終戦の年の昭和20年6月30日付で旅順博物館館長に就任している。 しかしながら敗戦まで1か月半ほどのこの時期、館長に昇格したからといってどうなろうものでもない。のちの世の者が言うことだが、島田には苦難の道だけが待っていた。8月9日には日ソ不可侵条約を破ってソ連軍が南下して満洲に侵入し博物館はソ連軍に接収される。森修ら博物館職員は旅順から大連に移動し、引き揚げを待つ身となる。しかしながら島田は、館長として、博物館および収蔵文物の引き渡しのため旅順に留まることとなった。ソ連軍の理不尽で野蛮な振る舞いを見知って、文物の保全・保護のため、また理不尽な扱いがなされることのないようにといった責任感と、そして何より収蔵文物へのこよない愛情のなせる業であった。しかしながら島田はこの残留中に病を得てしまう。昭和21年12月に発病してしまいソ連軍の病院に入院した。そして薬石効なく島田は亡くなってしまったのである。家族の面会も許されなかったというから、当時残留日本人の間で恐れられていた発疹チフスなどの伝染病に罹患したのではないかと角田は推測している。死亡の通知があったのは12月26日であった。
角田の「島田貞彦の生涯と業績」によると、百代夫人は昭和22年に引き揚げている。そして黒谷金戒光明寺に墓所を設け、塔頭西住院で追善供養を営んだ。島田の戒名は「順古貞彦居士」である。百代はその後の昭和40年8月3日亡くなり、島田の墓碑の傍らに葬られた。戒名は「白雲一光大姉」である。
島田が京都文科大学の考古学教室の副手として勤め始めた時、考古学の濱田耕作助教授が洋行で不在中で、かわりに小川琢治が島田の指導をしたということは先に書いた。角田によれば、小川琢治に黒谷の墓所を紹介したのは島田であったという。小川は紀伊田辺の出身で京都市内に菩提寺や墓所を持っていなかったところを、島田が自身の菩提寺の金戒光明寺西住院を紹介したのだという。小川家の墓所は東墓地の南にある。ここには小川琢治はじめ、 冶金学の長男小川芳樹・東洋史の次男貝塚茂樹・物理学の三男秀樹(湯川秀樹)・中国文学の四男小川環樹・第二次世界大戦で亡くなった五男小川滋樹も眠っている。
(参照:旅順図書館とその職員)
旅順図書館は、大正7年10月に関東都督府博物館分館に図書閲覧所として創設された。旅順千歳町の旧露清銀行跡の関東都督府博物館分館に附設されたものである。大正10年には博物館本館に移転して図書部と称し、大正14年11月には松村町に移り博物館図書部、昭和2年4月関東庁博物館附属図書館と改称、昭和4年4月にようやく博物館から独立して関東庁図書館、昭和9年12月に旅順図書館となった。
わたしは、戦前期に外地の図書館や資料室で働いた人たちを網羅することを目指して『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』を編纂したおりに、旅順図書館およびその前身の博物館附設の図書館について少し調べたことがある。ただ博物館の仕事や職員構成までは手が回っていなかった。
今回島田貞彦の事績について調べるにあたって、島田については、角田文衞「島田貞彦略年表」などにより概要を知ることができた。そして森修の回想によってわかったことも多くある。だがそれ以外の島田貞彦の旅順での暮らしや生活、交友関係などまだまだよくわからないままである。旅順時代の島田について何かどこか接点が発見できるかとも思い、わたしの編纂した『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』のなかから、旅順の図書館関係の人名を以下に五十音順で書き出してみた。旅順には、博物館・図書館のほか、旅順工科大学や旅順高等学校・旅順中学などもあり、その図書館関係の人物が島田と何か接点がみつかればよいのだがと思う。
秋元サト(昭和14年7月旅順図書館採用)、 朝日方圓(旅順高等学校教授、昭和16年度17年度教授兼図書課長)、 蟻川久太郎(学務課長兼地方課長兼旅順図書館館長、昭和12年7月兼職を解かれる、今井順吉(昭和12年7月旅順博物館長兼旅順図書館長、昭和15年10月退任)、安藤たまこ(昭和13年4月図書館採用)、池田清美(昭和12年11月図書館採用)、池本 澄(昭和15年8月図書館採用)、伊藤百子(昭和12年5月図書館採用)、稲田ハツエ(昭和15年12月図書館採用)、井上光治(昭和19年1月現在旅順工科大学図書館技術員)、伊福榮一(昭和19年1月現在旅順工科大学図書館)、牛島ミサヲ(昭和16年1月図書館採用)、梅沢 正(大正15年9月現在旅順工科大学書記)、裏川吉太郎(昭和16年12月現在旅順高等学校図書課)、浦田留吉(昭和14年7月旅順博物館から旅順図書館に異動)、浦津徳子(昭和16年2月採用)、 大平アヤメ(昭和15年1月図書館採用)、岡野他家夫(昭和15年8月旅順高等学校書記となり図書課課員、昭和16年8月退職)、小川與市(昭和12年2月現在図書館職員)、小田富雄(昭和14年4月図書館採用)、柿原恵美(昭和5年現在関東庁図書館職員)、笠井ユウ(昭和15年3月図書館採用)、 梶山健三(昭和19年1月現在旅順工科大学図書館技術員)、勝江満子(昭和14年12月図書館職員)、高 閏當(昭和16年1月図書館職員)、兒玉公望(昭和13年3月図書館採用)、小柳ユキヱ(昭和16年3月図書館採用)、櫻井敏夫(昭和19年1月現在旅順工科大学図書館)、 佐藤茂子(昭和13年9月現在図書館職員)、佐藤昇平(昭和13年12月現在図書館職員)、澤田斌夫(旅順図書館のロシア語嘱託)、品木美沙子(昭和19年1月現在旅順工科大学図書館)、 白崎正夫(昭和13年2月現在図書館職員)、高里良恭(旅順高等学校教授、昭和19年度図書課長兼務)、高田朝夫(昭和12年1月現在図書館職員)、瀧本清美(昭和14年10月図書館に採用)、竹下政市(昭和11年11月旅順図書館から旅順工科大学に異動)、 武田生子(昭和15年6月現在図書館職員)、武智順一郎(昭和13年3月図書館採用)、竹本孝齋(昭和13年5月図書館採用)、田辺秀雄(内務局学務課長・旅順図書館館長兼務、昭和9年12月まで)、谷口芳江(昭和13年9月図書館採用)、富浦千秋(昭和19年度旅順高等学校)、 永井種次郎(旅順工科大学教授、昭和19年1月現在旅順工科大学図書館長)、野口菊重(昭和12年5月旅順図書館)、長谷部 益( 昭和11年11月現在図書館職員)、馬場 司(昭和16年1月図書館職員)、林 賢一(昭和12年3月現在図書館職員)、麓 鶴雄(旅順工科大学図書館職員)、前田又三(昭和12年1月現在図書館司書)、松村主税(昭和2年現在関東庁図書館職員、昭和17年1月現在旅順図書館館長代理)、松元信秋(昭和14年11月図書館採用)、御影池辰雄(昭和5年現在関東庁学務課長・図書館長を兼務)、村井榮蔵(昭和17年末現在に旅順博物館長兼旅順図書館長)、森 襄(昭和13年12月図書館採用)、山本光雄(昭和16年旅順工科大学図書館)、米内山震作(関東庁内務部長で昭和9年12月付旅順博物館および旅順図書館館長兼務)、 渡會貞輔(昭和5年現在関東庁図書館)
2025年8月4日 記