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52 赤羽末吉」 「『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 52 赤羽末吉」
52 赤羽末吉」
「『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 52 赤羽末吉」
赤羽末吉は、『月刊満洲』17卷6號(康德11、1944年6月号)の目次にカットを描いている。
赤羽末吉については、赤羽自身の『絵本よもやま話(改訂版』(偕成社 1983年)に回想がある。また三男研三に嫁した赤羽茂乃の『絵本画家 赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』(福音館書店 2020年)にその生涯が描かれてあり、くわしい「年譜」も載る。そんなことからここでは、満洲時代の赤羽を中心に書いていくことにする。
赤羽は明治43(1910)年に東京で生まれた。大正12年赤羽家の養子となり青田姓から赤羽姓へと変わった。昭和3年順天中学校を卒業。プロレタリア美術研究所で絵の研鑽を積む。本人の言では、日本画の先生のところで1年間絵具を溶いたり使い走りをしたりして過ごし、研究所ではデッサンを三ヶ月ほどやっただけだという(『絵本よもやま話(改訂版』)。
昭和7年に義兄を頼り大連へ。義兄は将来「のれん分け」をするつもりだったようで、義兄の知り合いが経営していた運送会社に勤務した。ここで赤羽は「コドモノクニ」の一冊で初山滋の絵本に出会い、また甲斐巳八郎ら大連の絵描き仲間と知り合うこともあって、自らの進む道を心に決めたのである。とりわけ甲斐らとの出会いが赤羽にとっては大きな意味を持ったことになった。
大連で出会ったというこの甲斐巳八郎も『月刊満洲』に挿絵を描いており、わたしのブログ「『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 34 甲斐巳八郎」に事績を書いた。甲斐は明治36年の生まれで、赤羽の7歳ほど年上にあたる。福岡県宗像郡宗像中学の図画教師を経て昭和5年に渡満し大連近江町に住んだ。カフェで働いたりポスターを描いたりして生計を立て、昭和6年8月には大連の三越で個展を開催するまでになった。同年暮れに満鉄社員会報道部に職を得て『協和』の編集局に配属されている。昭和7年には三越で開催された黄塵社の展覧会で、埠頭でのスケッチ「苦力」などを出品している。渡満した赤羽とは、このころ出会ったということになろうか。甲斐は満鉄社員会の『協和』をはじめ、『観光東亜』『旅行満洲』などにも各地の史跡や人々の生活文化、土俗人形などの素描や写真・文章を書いた。そうしたことに赤羽はつよく共感したのであろう。
北村謙次郎『北辺慕情記』の「黄土坡美術協会―三人会―ふたたび城島舟礼と同英一―甘粕正彦の横顔」によれば、大連には「五果会」「パンプタオ美術グループ」があり、五果会は昭和7、8年ごろ、境野一之・市村力ら独立系の画家によって創設されたという。もう一方の「パンプタオ美術グループ」は、昭和11年12月に甲斐巳八郎の主宰で、赤羽も加わって結成されている。パンプタオというのは中国語「搬不倒」(起き上がり小法師)のことで、当時の夜店によく売られてあった泥人形のことだ。甲斐も赤羽もともに、こうした土俗民具にはたいへん興味を持っていたから、その「倒れてもまた起き上がる」といった意味が気に入って会名に冠したのであろう。
昭和8年に甲斐巳八郎は、詩人古川賢一郎らとともに「満洲郷土色研究会」を結成する。満洲の郷土玩具の蒐集や、満洲各地の風土風習を研究するというものだ。赤羽もこれに参加した。この会は、同じく郷土玩具蒐集家の須知善一の呼びかけにより発足したものだという(中尾徳仁「満洲に活躍した異色玩具コレクター須知善一の数奇な生涯とその遺産」『民国期美術へのまなざし』勉誠出版 2011年、筆者未見)。なお須知善一の事績についてもブログに書いた。
昭和11年になり、赤羽は満洲電電本社に職を得て新京に移り住むことになる。この満洲電電への就職については赤羽『絵本よもやま話』(偕成社 1983年)に回想がでる。それによると、赤羽が大連で運送会社に勤務していたとき、たまたま会社が満洲電電の移転事業を請け負ったが、そのとき赤羽は、アメリカ製の新品機械を中古に装って通関させ経費を削減させたという。その時の首尾の良さに感心した満洲電電の担当者が、会社に絵描きがひとり欲しいと言い、それで就職が決まったのだという。こうして赤羽は大連から新京に居を移し、満洲電電の総務部文書課に勤務することになった。
満洲電電の社宅は国務院の裏手東側と順天公園の南側にあったが、赤羽は国務院の東の、大同大街との間の社宅に住まわった。満洲電電の森繁久彌や芦田伸介もここに住んでいた。芦田についてもわたしは芦田の手記をもとにして満洲時代のことについてブログに書いたことがある。
新京の北西部には、ロシアの東清鉄道の旧附属地である寛城子と呼ばれる地域があり、当時日本からやってきた壇一雄や木山捷平、北村謙次郎らも住んでいて、さながら梁山泊の体をなしていた。新京に転居した赤羽は、この寛城子に住む作家や芸術家とも交友して知識や見聞・人脈を広げることができたのである。
新京に移ってのちの昭和12年には、『苦力素描』(満洲郷土色研究会編刊)が出版される。この本には、甲斐巳八郞・古川賢一郞・須知善一・福富菁生・中島荒登・內田俊治・國井眞そして赤羽末吉も寄稿した。編集発行人は須知善一である。巻頭に満洲郷土色研究会の会員名が載るが、居住地は、赤羽が満洲電電本社に職を得て移り住んだ新京、古川が哈爾浜で、その他の会員はみな大連在住であった。
苦力の調査やスケッチは大連の碧山荘でなされた。碧山荘は福昌公司社長の相生由太郎が創設したもので、公司は共済制度を整え、図書館までも備えていた。この施設については、拙著『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』の相生由太郎の項目で詳しく述べた。
満洲郷土色研究会は、昭和15年9月に『満洲土俗人形』を刊行しているが、赤羽も、挿絵と記事を描いている。
赤羽は満洲国美術展覧会(国展)にも出品し賞を得ている。国展は昭和12年5月の皇帝溥儀の訪日宣詔記念美術展を機に、翌昭和13年から毎年開催された展覧会である。主催は民生部であったが、運営は満日文化協会であった。開催されたのは昭和19年9月の第7回までで、終戦の昭和20年も準備はされたが開催直前で終戦となり、開催されることはなかった。
赤羽は昭和14年の第2回国展に「廟會」を出品、第3回国展では「影戯」で東洋画部門特選賞を獲得した。続いて第4回「瑠璃塔」、第5回「開拓地の子ら」でも特選賞を受賞した。こうして赤羽は満洲の地で画家としての地位を確立していき、また勤務先の満洲電電の職場にあっても、宣伝ポスターなどの絵画制作に関連する仕事も任されるようになっていった。
この国展を機に「黄土坡美術協会」が結成される。さきの北村謙次郎『北辺慕情記』によれば、「黄土坡美術協会」は、近藤清治・赤羽末吉・山代象二郎の三人会から発展したもので、三人会のメンバーと共に、白崎海紀・佐竹禹南・境野一之・郡菊男・高田義雄・浜田長正らの洋画家、彫刻の長浜虎雄、客員として甲斐巳八郎が入って結成された。命名は城島英一である。城島英一は月刊満洲社の城島舟禮の婿養子で旧姓は齋藤である。舟禮が亡くなってからは『月刊満洲』の編集を引き継いだ。この会には、詩人の逸見猶吉や作家で長谷川四郎の兄長谷川濬、壇一雄や北村謙次郎らも会友として参加していた。
赤羽茂乃の伝記『絵本画家 赤羽末吉』によれば、赤羽は、昭和19年11月から昭和20年1月にかけて、満洲交通公社の招きで、童謡「たきび」の作詞者巽聖歌とともに、満州東北部からハイラルまで北方の巡覧に出かけている。
昭和19年2月には北村謙次郎らと共著で『五彩満洲』(満洲冨山房 昭和19年2月)を出版した。大阪府立中央図書館国際児童文学館所蔵でこの資料を閲覧してみると、著作人は満州帝国文教部教学司編審部で代表者は寺田喜治郎である。寺田は、満鉄の満洲教育専門学校や撫順中学に勤務し、国語夜話会を創設して『コドモ満洲』を刊行した人物である。昭和13年11月奉天第一中学校長を退職し満洲国民生部編審官となりまた昭和14年3月には中央師道訓練所長も務めた。病を得て昭和19年10月に帰国し津山市山下に住んでいる。この寺田喜治郎についてもわたしのブログで書いた。
さて『五彩満洲』であるが、ここで赤羽は、北村謙次郎文の「搬不倒と虎とクウニャン」「白い船」に挿絵を描いている。ほかには逸見猶吉の文で関合正明が挿絵を描いたものに「アカルイ日」「ボクノウチ」、北村謙次郎の文で白崎海紀が挿絵を描いた「つみき」、古川賢一郎の文に甲斐巳八郎が挿絵をつけた「人形の唄」、さらに坂井艶司の文で斎藤英一が挿絵を描いた「蒙古の道」もある。思いがけずいろいろな人物が書いたり描いたりしていることが知れて実に興味を惹かれるところだ。
昭和19年12月には、『満洲月暦』(松尾茂 劉揖唐 満洲冨山房)も刊行されていて、ここでも赤羽は挿絵を描いている。この資料も国際児童文学館の所蔵で、著作者発行者は満洲冨山房の支社長を務めた浅利豊次郎となっている(なお『釧路春秋』2025年5月 春季号に「鳥居省三と浅利豊次郎のこと」「淺利豊次郎年譜」が掲載される)。この本の表紙は関合正明で、赤羽末吉は「2月は旧暦のお正月」「6月は青葉」「9月はみのり」「12月はこな雪」の挿絵を描いている。ちなみに城島英一が「4月は蒙古風」「7月は元神祭節」の挿絵を担当し、関合は表紙のほか「1月は氷すべり」「8月は星空」「10月は取入れ」も描いている。
このように、赤羽を含めた「黄土坡美術協会」の同人やその友人知人知友ら文章を書き、また挿絵を描いていたのであった。こうして赤羽は、終戦近くまで、満州の風物、慣習、行事への関心を持続させ、精力的に仕事をしていた。
こうして終戦の年になる。この昭和20年の第8回国展は、先にも述べたように、8月11日に新京の八島小学校で予定されており、黄土坡美術協会の会員の作品もふくめて出品され会場には並べられた。しかしながら9日のソ連軍の侵攻により展覧会は中止となったのであった。
ソ連軍が南下する事態になり赤羽にも召集令状がきた。赤羽は、昭和初期の兵役検査では「丙種合格」で、いわゆる第二国民兵であったわけなのだが、そんな丙種合格の赤羽にまで召集令状が届くというほどに日本は追い詰められていたということになる。しかしながら招集されたこれらの兵隊は使い物にならないということだったのであろうか、すぐさま除隊となった。
赤羽は満洲電電の勤務で社宅に住まわっていたのだが、その社宅の造りはすこぶる頑丈だった。そんなことから、家の地下には本格的な防空壕を作っていた。その造作にあたって、三中井百貨店に開設されていた「防空壕相談所」に相談してみたがあまりに専門的過ぎて埒が明かず、やむなく溥儀の防空壕を建造した建築家に教示を請うて建造法を教えてもらい、ようやく完成させたというものであった。
この本格的な防空壕は終戦時には大いに役立ち活用もされた。避難して住まう人もいたり、旅館に保管されていた食糧を運び込み人を呼んで酒盛りをしたりもしたのだという。
赤羽の家族は、8月11日ごろ、赤羽を新京に残し、朝鮮へ向けて疎開した。しかしながらその途上で終戦の15日を迎え、一行は安東で列車から降ろされて日本人住宅に分散して留まることとなった。一方新京に残った赤羽は関東軍の報道部でポスターを描く。しかしながら、当の関東軍の大半は一般大衆を置き去りにしてすでに東辺道への退去をすませており、庁舎には残っていなかったのである。
やがてソ連軍が進駐して来る。赤羽はこのソ連軍の兵隊を相手に、似顔絵を描いてなんとか糊口をしのいだ。ソ連軍の次には八路軍が進駐してきた。八路軍からは、毛沢東ら共産軍の宣伝用ポスター作りが要請され宣伝活動に駆り出された。今度は八路軍に代わって国民党が進駐してきた。赤羽が共産党下で働いて稼いだ軍札はこの国民党下では使えず、あまつさえ、これまで共産党下で作業をしたことを糾弾されるという始末であった。
こうして昭和21年5月ごろから残留日本人の引き揚げが始まる。だが赤羽は留用となった。留用というのは、戦後中国の復興に役立つと考えられた技術者や科学者、また学芸員や資料室員らが中国に留め置かれるものなのだが、赤羽の場合、絵描きとしてだけでなく民俗学研究者としても「評価」され、留用となった。赤羽の留用の名称は、正式には「中国東北保安司令長官部 長春統一宣伝委員会留用」であった。
こうして赤羽一家は、長春(新京)に留まることとなる。赤羽は他の画家らと相談の上、給料制ではなく自分で生活費を稼ぐ「自主留用」として残留した。赤羽らは画館(美術工房)をつくり、留用責任者の国民党少将らと喫茶店の経営も行なった。だがこの喫茶店は国民党将校らにより勝手に売却されてしまう。抗議した赤羽は留用を解かれ、生活はいっそう厳しいものとなった。やっとのこと、城内の中国人経営のビール会社の宣伝の仕事を得て「サイダービール」の宣伝ポスターを描いて何とかしのいでいったのである(赤羽茂乃『絵本画家 赤羽末吉』)。
8月になり赤羽らも引き揚げが決まり長春を出発することとなった。赤羽一家は、夫婦と母、子ども4人の計7人、荷物の割り当ては行李二つであった。行李の一つには家族の衣類を入れた。もう1つの行李には赤羽の絵の道具類を入れることとした。赤羽の絵画への熱意が見てとれるので赤羽の回想文によりそれらを書き出してみる。
油絵の具の画溶液であるリーシード、テレピン油。これについては小学三年生の長男の首からぶら下げさせた。そして絵の具も持たせた。だがこれら瓶類は途上で割れてしまい、絵の具はトラックに踏みつぶされてしまった。行李の他には、キャンバス一巻き・麻紙・唐紙・画仙紙などの画材具を括りつけた。そしてこのキャンバスには10号の牧野虎雄の絵画「芥子の花」を巻き付けた。さらには蒐集していた美術書のうちから気に入った、宗達・芋銭・鉄斎や、唐・宋・元・明時代の絵画の一部をはがし、また能面集から二枚ほどを選んで荷物に加え入れた。そしてずっと大事にしてきた「樹下美人図」も入れたのであった。
長春を発った赤羽らは、奉天の収容所で40日ほど留め置かれる。この留置の間でも赤羽は絵を描いてそれを中国人に売って糊口をしのいだ。
葫蘆島から出帆したのは9月29日のことであった。いろいろな人の引き揚げ時の回想文を読むと、引き揚げ船が葫蘆島の港などを出航するとき決まって、「バカヤロー」「バカヤロー」と怒鳴ったとあるのだが、赤羽のこの回想記にあってもそのように叫んだとかかれてある。
内地への引き揚げにあたっては持ち物は限定され、数量・分量だけでなく、写真やスケッチ類の持ち出しは禁止されていた。しかしながら赤羽の場合、渡満時に大連の運送屋で働いていた時に覚えた要領で荷物のなかにうまく隠し入れて持ち帰ることができた。このおかげで、赤羽は戦後に『スーホの白い馬』を仕上げることとなったのであった。
こうして赤羽一家は昭和21年10月7日、佐世保に上陸する。そして赤羽の戦後が始まるのであった。 2025年7月22日 記
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