ブログ・エッセイ
糸居五郎、和田英学院、満洲放送協会、ジョージ川口
糸居は大正10年小石川の生まれ。父銀一郎、母カネの5人兄弟の末っ子として生まれる。父はジャーナリストで、小石川区会議員から東京市議会議員に出ようとも考えていて、『小石川新聞』という区政新聞を刊行していた。鳩山一郎の傘下にあった。五郎は昭和8年に東京府立第三商業学校に入学、昭和13年に卒業した。卒業論文は「米国における新興企業」というもので224ページもあった。しかしながらその内容はといえば、アメリカのジャズの歴史やレコード会社、ジャズが放送されるその実態などについてのものであった。商業学校の卒論でもあり、「ジャズ」というわけにもいかず「新興音楽」という名称にし、そして題名も「米国における新興企業」とカモフラージュしたのであった(糸居五郎「僕の誕生はラジオ放送の翌年」「略年譜」『僕のDJグラフィティ』 第三文明社 1985年)。
11歳年上の兄が満洲国の官吏として赴任したこともあり、五郎も渡満を決意し新京の和田英学院に入学した。昭和15年に卒業して徴兵検査のために帰国。徴兵検査を受けたが体重が少なすぎて第二乙種の不合格となった。昭和16年の夏になり、たまたま満洲電電満洲放送協会のアナウンサー募集の新聞広告を見つけ応募する。10人ほどの定員のところ300人もの応募があった。NHKの和田信賢アナウンサーが試験官だった。これに無事合格する。渡満して新京でアナウンサー教育を2か月ほどうけた。ここには森繁久彌も在籍していた。11月に哈爾浜に赴任。昭和17年には海拉爾へ。昭和18年秋には大連の放送局へと赴任となる。大連には大連放送管弦楽団があり、リズム・エースのベース奏者山下高司の父が学長、ジョージ川口の父親がバイオリンを、スターダスターズの川上彦がトランペットを吹いていたという(「アナウンサー第一歩、そして敗戦」)。
この大連で終戦を迎えた。職場の大連放送局は接収され仕事もなく、同僚の楽師からジャズが好きなら一緒にバンドを組んでダンスホールに出ようと誘われる。すぐに音が出る楽器は何かと考えて、太鼓だと思いドラムを担当した。この糸居の後釜が名手のジョージ川口であるというわけだった(大瀧詠一「僕オートマチックを信じない」、糸居五郎『僕のDJグラフィティ』)。
昭和22年病院船高砂丸で引き揚げ、佐世保に着岸。NHKは定員がなく入局できず、ひつじ屋という輸入食料品店を開いた。昭和26年末に京都放送、昭和29年にはニッポン深夜放送へと移った(由井正一「奔放なアドリブ精神」、糸居五郎『僕のDJグラフィティ』に所収)。
**この糸居五郎についてもまだまだ志料不足であるが、終戦時大連に残された文化人・芸人・文筆家などの一人としてメモ代わりに書いておいた。
2025年2月22日記