ブログ・エッセイ
ジョージ川口、川口譲治、引き揚げ、ジャズ、大連、村岡楽童、ペロケ・ダンスホール、大連実業学校、満洲飛行学校、南里文雄、浪花町のパラマウント、豊島英夫、糸居五郎、藤沢嵐子
戦前に満洲に渡り、終戦を大連で迎え、昭和22年3月に引き揚げてきたジョージ川口の自伝『人生は4ビート!』(文化出版局 昭和57年)を読んだ。日本のジャズはさほどは熱心には聴いてはこなかったが、ジャズ自体は昔から好きだったから、日本のジャズメンも少しは知っている。それに今少しずつ調べてきている、終戦時に満洲に残された芸能人や文化人の名前もこの自伝には登場してくるから、ジョージ川口の自伝は実に興味深いものがあった。
そうしたことを別にしても、ジョージ川口の生き方が、奔放で豪胆で何というかいさぎよいと言うか、読んでいても歯切れよく面白い。もちろんこれは川口の晩年からの回想であり、実際のところはもっともっと生々しく、さまざまに紆余曲折もあり、右往左往の人生であったとは思う。ともあれおもしろい本に出合うことができた。
ジョージ川口 、本名は川口譲治、昭和2年の生まれである。父親は川口養之助といい、養之助もジャズメンで日本のジャズシーンでは草分け的存在であった。養之助は村岡男爵家の血筋で、いとこには村岡楽童(祥太郎)がいる。楽童は新京や大連の交響楽団で活躍した作曲家であった。楽童は、「『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち」で取り上げた榛葉英治の異母弟でもあって、榛葉もこの楽童を頼って大連に渡っている。
父の養之助はクラシックのヴァイオリンを学んだ。のちにジャズ・軽音楽に転向しサックスも吹いた。アメリカ航路の船内バンド員としてアメリカにも渡ったこともある。養之助は昭和7年にいとこの村岡楽童から哈爾浜交響楽団へと誘われて満洲に渡った。翌年には一家そろって大連へ移っている。一家の渡満のおり大連港には父と楽童が迎えに来ていた。大連の住居は山県通紀井町、譲治は大広場小学校に通った。
譲治と兄の陽一は、哈爾浜交響楽団団員の父から厳しくヴァイオリンを仕込まれた。厳しくはあったが、ペロケ・ダンスホールにも出演していた父は小学生の譲治をかわいがって、「南里文雄とホットペッパーズ」などの公演にも連れて行ってくれた。音楽に見どころがあると思われていたのであろう。
そんな譲治も、兄陽一と同じく大連実業学校工業科 に進学する。昭和17年4月には大連周水子の満洲飛行学校に転校した。この飛行学校で成績の良かった譲治は18歳で助教になり、すぐに教官となった。昭和20年の19歳の時には学科から実地までのすべてを教えることのできるいっぱしの教官になった。そして関東軍陸軍航空隊嘱託の試験飛行官にも任命されている。
ところが昭和20年2月下旬、ひどい飛行機事故に遭ってしまった。周水子飛行場からエンジンテストのため軍用機の試験飛行で飛び立っていったのだったが、2千メートルの上空でアクロバット飛行をしたあとに急降下をしたとたん、飛行機が火を吹いたのだった。譲治の飛行機はそのまま墜落、普通なら即死というところだったが奇跡的にまだ息があった。息があるとはいえ、体中の骨はぐちゃぐちゃで、大連陸軍病院に運ばれて緊急手術、4日目に息を吹き返した。大連放送局に在籍していた父親が、音楽の仲間や弟子たちに声をかけて各科の医者を動動員してくれ治療に当たった。そのけその結果、あとは顎のギブスだけ、というところまで回復した。ところがここで終戦となった。大連ではロシアが占領するといううわさが広がっており、譲治は病院から山県通の自宅に逃げ戻ったのだという。
終戦から一か月後、父養之助は、中国人の経営するレストランに楽士として雇われた。養之助は仲間を集めてバンドを組み常盤座などでも演奏した。いっぽうの譲治は浪花町のエミという喫茶店で皿洗いをしていた。そしてこの喫茶店に集まってきていた仲間と話し合って、ロシア人専用のクラブを作ろうと考えた。そこで中国人に占拠された常磐町のビルを奪い返し、ここに内装を施し、「ボルガ」と名付けられた将校専用のクラブを開設しようとしたのである。材料などは「強奪したものばかり」という荒っぽいものであった。開店してみると大盛況。ところがそれがかえって災いしたのか密告に遭い、中ソ聯合の憲兵隊に急襲されてしまう。そして3人の友人が打たれて死んでしまったのである。
父親は、浪花町のパラマウントというロシア人相手のダンスホールにも出ていた。譲治はここでギター奏者として入いることになった。これまで、見よう見まねでいろいろな楽器をさわってきたことからギターも演奏できたのである。
大連でも内地への引き揚げが始まる。引き揚げに伴ってバンドのメンバーにも欠員がではじめた。さまざまな楽器をひきこなすことのできた譲治はその都度その代役を果たした。なかでも性に合っていた楽器はドラムスであった。
父の出ていたパラマウントには、大連放送局で父と一緒にやっていたアコーディオンの豊島英夫も出ていた。ドラムは大連放送局のアナウンサーの糸居五郎である。このパラマウントには駆け出しの時代の藤沢嵐子も出演していた。藤沢は昭和19年12月の末に東京音楽学校を休学して渡満し、瓦房店の紡績会社に赴任していた父親のもとに移った。ここで藤沢嵐子は終戦を迎えている。瓦房店は治安が悪く昭和21年初めに大連に移動した。この大連行きを勧めたのは三越の店員で、かれはコントラバスを趣味で演奏していたという。彼の伝手で、唄の歌える嵐子は「揚子江」という名のキャバレーで歌い生活を支えた。「揚子江」は南里文雄が出演していたダンスホール「ペロケ」の近くあった。生活のために大連のホールで歌ったというわけである。藤沢の帰国は昭和22年3月のことであった(徳川無声「藤沢嵐子」『問答無用』朝日新聞社 昭和31年)。
昭和21年の春には兵役に出ていた兄の陽一が大連の家に帰ってきた。ソ連国境付近でソ連軍の捕虜となり、シベリヤ送りの途中に列車から脱走して千キロの道のりを歩き通し、ようやく大連に帰還したのであった。しばらく静養して回復した兄も父の楽団に入って演奏をはじめた。
このころ譲治は豊島英夫のバンドに移籍している。ドラムをたたいていた糸居が引き揚げることになったからであった。豊島といっしょにやっていた父は、ソ連軍が進駐していたヤマトホテルの専属楽団に呼ばれて演奏をしていたが、ドラムの糸居がいなくなり、譲治がこのバンドに戻ることになった。ソ連軍発行の「芸術家身分証明書」も手に入れて夜間も自由に出られるようになる。
そうこうしているうちに昭和22年3月引き揚げの許可が下りた。引き揚げ船に乗り込む前に大連の収用所に入れられ、ここで戦争犯罪者ではないかどうかの身元調査が行なわれた。譲治は収容所に入る前に醤油をがぶ飲みして病人となりその場をしのいだ。こうして日本に戻ることできたのであった。船が埠頭を離れるときに、懐に石を忍ばせ持っていた引き揚げ者の何人かはいっせいにソ連兵めがけて石をぶん投げたのだという。
船は無事に佐世保の港に着船した。しかしながら、今度は港に米軍憲兵のMPが調査のために銃を持って待ち構えていた。関東軍にいた兵士たちは身の危険を感じて海に飛び込んで逃げようとした。譲治ら家族も海に飛び込んだ。しかしながら結局とらえたれる。この行動は、自分たちが「民間人ではない」と名乗り出たようなものだった。そして別室で取り調べられたのだったが、調査のすえようやく解放された。
引き揚げた一家は調布峯町の叔父村岡正雄の家にひとまず身を寄せる。そして引き揚げてから早や三日目には横浜から人がきて横浜のクラブでドラマーが必要だからと招聘の話がきた。条件もよく、服もそろえてくれて横浜に向かった。譲治が連れていかれたのは米軍専用のクラブ「ニューヨーカー」であった。ここで腕を認められて、米兵から、ジョージ、ジョージと呼ばれ、それがそのまま呼称となり、「ジョージ川口」と名乗ることになった。ここには芸大に入学したばかりの黛敏郎がピアノを弾きに来ていた。
しばらくして三木トリローのバンドに移籍した。三木の弟の鮎郎がマネージャーをしていた。譲治のもとには引き抜きの話が次から次にやってきた。東松二郎とアズマニアンズもそのひとつだったが、東は満洲時代の父の仲間で、新京放送楽団の指揮者もしていたことがある人物であった。ここには南里文雄も在籍していたという(ジョージ川口『人生は4ビート!-ジョージ川口自伝』文化出版局 昭和57年)。
**ジョージ川口や大連でのジャズ仲間についてはもう少し資料があると思うのだが、とりあえず、この自伝をもとにメモ代わりに書いておいた。
2025年2月20日 記
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