ブログ・エッセイ


床波範人、『白蟻』、ぷくとん印刷、サントリー、宣伝部、資料整理、国立国会図書館、全国書誌、寄贈

ここ10年ほど、二階の仕事部屋の資料類を整理してきた。休み休みやるから、10年ほど経ってもまだまだ「片付いた」という域まで行かない。7畳ほどの部屋だが、四周に180センチ高のスチールの書架を置き、その上に木のラックをのせ、本や雑誌、複写して簡易に製本したもの、大型ホッチキスで綴じて背に題名をつけた複写資料、本のケースに見出しをつけて差し込んだ複写物、などなどさまざまである。
わたしにとっては、身近で見られないもの、手に入りにくい資料の複写物が最も大事だから、木のラックの上には、図書館でもらってきた本のケース(空き箱)に入れて「整然と」並べてある。わたしなりに分野に添って整理し置いているつもりなのだが、人から見たらいずれ紙ごみの山であると思うだろう。
これら仕事部屋の資料類を整理・処分すべく、まずは本や雑誌類の整理に取りかかった。本や雑誌のうち、国会図書館に所蔵のないものは、納本図書館で書誌作成責任機関の国立国会図書館の関西館に寄贈する。「同好の士」が使ってくれそうな資料は懇意の古書店に送っている。一般に広く読んでもらえそうな本は、市のエコセンターに持って行って再利用してもらう、という次第である。
次は複写物の整理。「また調べたり見たりするかもしれない」という「心配」を思い切ってかなぐり捨て、紐でくくって子ども会の廃品回収に出した。
まあ、こんな具合に面倒な仕分けをしているから、一向に片づけは進まないのである。それでもこうして少しずつでも処分していったから、二階の仕事部屋の紙資料も、なんとか三分の二ぐらいは整理できたかもしれない。
***
今回ここで書こうとしているのは、これら資料類のうちの国会図書館未所蔵資料のうちの一冊についてである。
関西館に持参するためにまずは「寄贈願書」を作らねばならない。リストを作り、未所蔵であることを確認するのである。そうした作業をしているなかで、床波範人の『白蟻』という本が出てきた。1970年4月に刊行された自費の出版物である。奥付には、発行者は霧島瑞穂、印刷所は「ぷくとん印刷」とでている。「ぷくとん」といえば、わたしの畏友の弁護士Sが学生時代下宿していたのが「ぷくとん荘」だった。「ぷくとん印刷」ということはその印刷所なのであろう。
この本をどういう経緯で入手したか、どうも記憶がない。巻末の著者略歴をみると床波は昭和22年生まれということなのでわたしと同じ歳だ。また昭和41年法学部入学と出ているので、一浪のわたしの一学年上ということになる。頒価は350円だ。この価格で購入したのか、またもらったのかも覚えていない。卒業後、図書館に勤めたわたしには、仕事がら、こうした入手経路はわりに記憶しているのだがどうも記憶が定かでない。
この床波範人、その後小説などを書いているか調べてみたのだが、国会図書館の所蔵検索などでは、小説などでは当たってこない。もうすこし調べてみると、卒業後はサントリーに就職し宣伝部門で活躍したようで、眞木準の『一語一絵』(宣伝会議 2003年)という本に言及があった。
サントリーの宣伝部というのは、この眞木の言い回しを借りれば、「サントリーの宣伝部のロビーは、クリエイターの梁山泊である。開高健氏や山口瞳氏を輩出した名門企業は、広告を文化だと明快にとらえている」といったものであった(「和イスキー」の項目)。床波は大学卒業後にこのサントリーに就職し宣伝部に配属されたということなのであろう。
この床波については、眞木準が言及している(「カンビールの空カンと敗れた恋は、お近くの屑かごへ。」『一語一絵』)。それはつぎのようなものだった。「仕事の仕という字は、人にサムライと書く。良い広告を打つ企業には、必ずと言っていいほどサムライがいる。上司の顔色をみない。信念をつらぬく。床波範人さんは、サントリーのサムライであった」。その文章は続けて、「博報堂の営業部長だった羽場祥修が間宮武美と現れ、競合のキリンを担当する本部にいた僕を、一本釣りで引きぬいて床波さんにひきあわせた」と。
さらにはそのとき床波が語った言葉も紹介されている。「サントリービールは最下位です。でも缶ビールだけをとれば、ブービーです。おまけに都市部では2位で、がんばれば1位になれる。ビールのメインユーザーの男性をすて、女性だけを相手にしたキャンペーンをやりたい」というものだ。
このしごとで眞木はホテルニュージャパンにカンづめになり、一か月家に帰らなかったという。このコピーはその時に生まれたものである。なお、この床波の発言などは、間宮武美の『僕たちの広告時代』(宣伝会議 2020年)にも、眞木準『一語一絵』からとして惹かれている。床波はこの広告に関わったということなのであろう。
いずれにしても、サントリーはこのような会社であった。時代もよかったのかもしれない。
とこんなことを書いているのも、実は少し前の日経新聞の記事(11月19日)で、サントリーホールディングスでは、入社後10年の間に、さまざまな職場経験を積ませるために、三か所の部門を異動することを義務化した、という記事を見たからである。いろんな職場体験をして理解を深め、社員の適正を試してみるというわけなのであろう。
この制度に対してわたしに異論反論があるわけではない。正しい判断であろう。しかしながら、こうした合理的な制度・システムのなかで、果たして開高健や山口瞳が生まれてくるのであろうか。いやいや、利益を上げる事が目的の企業にとっては、開高健や山口瞳らが育ってくるということなど、望んではいないわけだ。
そうして「反論の出来ない正しさ」を前にして、いささかの違和感を持ちながらやり過ごしていく。昔人間のわたしなど、この「正しさと違和感との裂け目」からこそ、実は「文化」も生まれてくるのではないかとひそかに思っているのだが、そんなことは、「ごまめの歯ぎしり」「蟷螂の斧」といったところであろうな。 2024年11月23日 記