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坪川与吉 ― 『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 45

坪川与吉-『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 45
坪川与吉は、『月刊満洲』昭和11年9月(9巻9号)に、島本大佐・和田前靖安遊撃隊長・王奉天市長らとともに、奉天省學務科長の肩書で満洲事変の回想文を、また昭和12年1月(10巻1号)にも「農民に民謡をへよ」を書いている。
坪川は『満洲紳士録 昭和15年』によれば、明治19年の生まれ。本籍地は福井県吉田郡志比谷村。明治40年に福井県師範学校を卒業し吉田郡松岡小学校訓導。明治 43年秋に渡満して満鉄に入社、大石橋小学校訓導、奉天公学堂長を経て北京に留学。満洲国建国後は奉天省公署事務官、教育庁総務科長・学務科長を歴任し康徳4(1937、昭和12)年9月に退官し、奉天省教育会主事兼満洲帝国教育会理事。昭和13年12月中支派遣軍臨時嘱託、昭和14年3月維新政府教育部顧問。趣味は運動・読書・支那書画とある。
満洲国建国後の昭和7年に開催された建国運動会は、「関東軍参謀部宣伝課、関東庁学務課、満鉄学務課、資 政局弘法処、国務院文教部の代表者と体育の専門家」により組織されたが、その実務を担ったのは学校の関係者および体育の関係者であって、坪川はその中央準備委員のひとりとして名が挙がっている(高嶋航「満洲における日中スポーツ交流(1906-1932):すれちがう「親善」『京都大學文學部研究紀要』57号 2018年3月」)。
坪川は、奉天公学堂堂長の肩書で、「中國人敎育を顧みて」を昭和元年11月号『南満教育』(南満州教育会)に書いている。ここには坪川が満洲渡ったのは明治43年秋のことであったとでている。