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44 日高大三 『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者

44 日高大三 『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者

日高大三は、康德10(1943)年1月号の『月刊滿洲』(第16卷第1號)所載の百瀬宏「大陸読物 白き遺書」に挿絵を描いている。
この大三は、日高丙子郎の四男であろう。日高丙子郎は明治39(1906)年2月に渡満し、尉官相当の参謀本部嘱託という身分で鉄嶺軍政署に勤務、翌年間島に移動した。山崎弁栄の光明主義の影響を受けて間島光明会を結成して光明学園を経営した。しかしながら昭和12年12月の満洲国治外法権撤廃により光明学園が満洲国の管轄下に入るのを嫌い、翌13年に鄭孝胥元国務総理の創設した王道書院の副院長に就任している。日高丙子郎の事績については、先のブログで詳述した。
この日高大三は大正元(1912)年の生まれ、この挿絵を描いた年は31歳にあたっている。日高丙子郎と静との間には、6人子どもがいる。明治32(1899)年生まれの長男壮三、明治35(1902)年生まれの次男健三、明治39(1906)年生まれの三男鉄三、そしてこの四男大三、さらに大正4(1915)年生まれの長女孝、大正9(1920)年次女千恵である。
王道書院の教授を勤めた西谷喜太郎の回想によれば、終戦時の昭和20(1945)年8月9日にソ連が参戦したことから、11日に静夫人と四男大三は王道書院の家族ともども通化に疎開した。丙子郎は新京に残ったが15日の領事館附近で起きた暴動により亡くなっている。
戦後西谷は通化に向かって家族ともども新京に戻り、引き揚げることができたのだが、このとき静夫人と四男大三は通化から動こうとしなかった。こうしたことは西谷喜太郎の回想に詳しく書かれてある(「日高丙子郎先生」『西谷喜太郎論集』西谷喜太郎論集刊行委員会 1995年)。
日高丙子郎は長崎県壱岐那賀村の生まれで旧姓は秋山。日高静と結婚して日高姓になった。ご子孫のその後についてはわからないままである。 2024年10月22日 記