ブログ・エッセイ


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日高丙子郎と間島光明会
はじめに
これまでの日高丙子郎研究に導かれて、ブログに「日高丙子郎と王道書院」を書いた。参考にした文献は先の論考に掲げたのだが、日高丙子郎と満洲との関係を改めて考えてみると、彼にとっての大きな転機は次の三点になるかと思う。
第一は明治39(1906)年の日高の渡満と翌年の間島移住、第二には大正8(1919)年 12月の光明主義山崎弁栄訪問と即時入信およびその後の間島での光明学園の展開、第三は昭和13(1938)年に間島光明会理事を辞任し新京の王道書院副院長に就任したことである。ここでは、この三点にふれながら、主として日高の光明会入信と間島光明会について、山崎弁栄の光明主義に少し立ち入って考えてみたいと思う。
山崎弁栄の事績についてはいくつかの研究もあり論評もある。また弁栄の著作についても、2018年に岩波書店から文庫『人生の帰趣』刊行され、ここに詳細な「年譜」も載っていて、手に取りやすくなった。とはいえ、弁栄の光明主義の教えは、門外漢のわたしには十分に理解したというところまで行かない。ただ、この弁栄の光明主義を検討することは間島での日高の教育事業を考えるうえで避けては通れない作業である。弁栄に帰依し光明会に入信したという日高が、弁栄のどのような人柄や教えに惹かれ、それを学校経営にどのように生かしたかということは一考に値するのではないかと思う。
もちろんわたしは、間島地域での朝鮮族の融和対策として、日高が、ただ単に山崎弁栄およびその光明主義・光明会を利用した、また間島での朝鮮族との融和事業を踏み台にして国都新京に進出し、五族協和の王道書院へと登りあがったという評価があることは知っている。ここではそうした評価も排除しないで、まずは日高の思想・信仰・思念を検討してみたいと思う。こうした検討により、わたしのもともとのモチベーションである、日高丙子郎の王道書院への転身がいかなるものであったか、日高の光明主義と五族協和との接点また異なりは何かを考えてみたいと思っている。

1 日高丙子郎の渡満
鳥尾小弥太の「東方の瑞西国建設」論
日高平四郎の事績については、いくつかの先行研究がある。金廷実は戦前期に間島で活動した人物を中心とした『満洲・間島における日本人-満洲事変以前の日本語教育と関連して』(花書院 2017年)を出版し、ここに「日高丙子郎【宗教・教育】」を収めている。こうした先行研究といささか重複することにもなるのだが、ここでは主として山崎弁栄の光明主義との関係および王道書院副院長としての日高に焦点をおいて書いてみたいと思う。
日高は明治28年、政治結社「日本国教大道社」の教育機関 大道学館に入学、その後の明治37年から39年までこの結社の機関誌『大道叢誌』の編輯に関わった。明治39年にはその編輯を辞して満鉄沿線附属地の鉄嶺に移り住み、翌年間島に移動している。間島は朝鮮族居住者の多い吉林省東部延辺朝鮮族自治州の一帯で、日高の渡満、とりわけ間島への移住については、その動機として、日本国教大道社の創立者の一人鳥尾小弥太に大きく影響を受けたとされる。
鳥尾は明治37(1904)年4月22日の日付の「神武太平策」を書いた。これは対露主戦論の立場に立って、ロシアと戦うにあたっての戦術を主に述べたもので、ここで鳥尾は、「鴨緑江と愛河との中間の地を占領して、後来攻勢運動の要地」とするべきであること、この地は「彼我の争地」でありこの地点を占領するものこそが「優勝の位」を占めることができると、この地の重要性を強調している。この地点から長白山の西側一帯にかけて占領するというのが対露戦術としては最善の作戦であると述べるのである。
続く「餘論」において、この戦争は終局まで5年に渉るとの見通しを示し、長期戦となるこの戦争にあっては、「軍隊の士卒が快楽を享受すべき手段を工夫」することが必要であり、そのためには、男女ともども農工商の移民を誘導し、町を作ることで軍勢・軍気を養うことができる、と続ける。
「東亜のアルプス」である長白山を制するものこそが東亜の「覇権」を確立し、東亜の「太平」を守護することができると説明したうえで、ここに「東方の瑞西国を建設」することは日本国の天与の任務であると力説する。満韓にわたって鴨緑・豆滿・遼河の源流を収め、一千万人の移民をこの間島の地域に住まわせるべく設計を行なうべきだと説いているのである。
日高はこの鳥尾の「東方の瑞西国」建設という設計図に強く惹かれた。前段のロシアとの闘いおよびその思想に賛同し、東亜の「覇権」を確立して「太平」を守護するという鳥尾の「神武太平策」に共鳴し、自らその一翼を担おうと考えたのである。そして日高は明治39年2月、『大道叢誌』編輯を辞して渡満する。間島に日本人の町を作ろうと考え、伝手を得てまずは参謀本部嘱託という身分で鉄嶺軍政署に勤務した。

日高の朝鮮人観
ところで、先の島尾小弥太の「神武太平策」の「餘論」末尾にはこうも書かれてある。「韓人は、嫉妬佞奸(しっとねいかん)の性ありて反覆常なく、只に恩怨(おんえん)の情を恣(ほしいまま)にし、信義を顧みず、恰(あたかも)も女性の陰険なるものゝ如し」、そして「決して彼れが口舌に信を措くべからず」と述べる。朝鮮人に対するひどい蔑視である。
島尾はこうした観点に立ったうえで、だからこそ「満韓の経営は公明正大」であるべきであり、「慈愛ありて斯民を救ふの志」を持たねばならず、本国のためと称して妄りに生民を残害することがあってはならないとも諭してもいる。
ここで鳥尾は、とりたてて興亜論またアジア主義の旗を掲げているわけではないのだが、その底流には、西洋列強諸国の西遷・強圧を押しとどめ、中国・朝鮮をふくめたアジア諸国とともに西洋列強のアジア侵略を阻止せねばならぬといったこの〈時代からの要請〉を背後に持っていたと思う。そのうえで鳥尾は、ロシアに対する主戦論を展開し、その一方策として間島への植民を提起しているのである。
日高は、こうした鳥尾の主戦論を基本的には支持し、なかでも間島への植民政策に強く惹かれた。金廷実の論考には、日高が禅僧大浦貫道に対して、白頭山の麓には一千万人が住むことのできる広大な地域があること、この地域は中国と朝鮮との利害が衝突する一帯であり、ここに「地図の色を変えない独立境、即ち、背景を宗教に置いた、道徳的理想郷を建設」して東洋の平和を確保せねばならない、と繰り返し語っていたと紹介されている(金廷実「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか」『韓国言語文化教育』20 2013年6月)。日高の思いは島尾の意思を引き継いだものと考えてよいであろう。
大浦は日高と同じ壱岐の出身で、『あ・しゅら』(浪速社 1974年)の「序」には、『中外日報』に籍を置いていたとある。『中外日報』というのは真渓涙骨(またに るいこつ)が創刊した超宗派の『教学報知』を明治35年に改題したもので、ちなみに中野楚溪もこの『中外日報』美術部にいてカットを描いていた。
日高は鳥尾の論に共感して渡満し、間島で事業を展開した。日高が島尾の「太平策」「瑞西国建設」という理想郷に強く惹かれたことは確実であったとしても、鳥尾がここに書いたような朝鮮人観をそのまま持っていたというわけではないだろう。日高の間島での教育事業は、日本の中国植民政策を肯定したうえで、間島地域で融和主義に立って活動を行なっていったということだと思う。

2 間島光明会の設立
日高丙子郎の山崎弁栄訪問
日高と満洲についての二番目の画期は、大正8年12月の光明主義山崎弁栄との出会い、そして大正10(1921)年10月8日の間島光明会の結成であった。日高はこの光明会の旗を掲げて間島の地で光明学園の教育活動を展開していった。このあたりの事情をもう少し細かく見ていきたいと思う。
日高は明治39年2月に渡満して鉄嶺軍政署に勤務、明治40(1907)年9月には間島天宝山鉱山主任、明治43(1910)年7月間島侍天教長を務め、大正元(1912)年雑貨・穀物などを扱う延吉洋行、その後の大正5(1916)年10月には寺内正毅の紹介で鈴木商店の嘱託となっている。鈴木商店は神戸で設立された商社で、樟脳や砂糖の貿易で成功して財を成し、この大正5年ごろには飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
ちなみに(大正10年か)4月30日付日高から斎藤実朝鮮総督への書翰に、間島琿春方面の森林権について争議が起こり鈴木商店の当事者(燐寸部部長西岡勢七他数名)が3月中旬に吉林にやってきた旨が書かれてある(『民族運動 3 斎藤実文書11』高麗書林)。この時期にも日高は鈴木商店嘱託としてこの吉林省での燐寸の材料調達に関わっていたのか、また鈴木商店の嘱託を退いたあとにも日高の伝手を頼って鈴木商店の部長が吉林省にやってきたのかはわからない。いずれにしても、日高は渡満前の「日本国教大道社」時代の人脈であろうが、強力な伝手により朝鮮総督府や外務省から資金を得て事業を行ない活動していた。とりわけこの斎藤実とは親しかったとされる。
この時期の日高の仕事の詳細は知れないのであるが、中国・朝鮮・日本と民族事情が複雑な間島の地に在って、抗日運動などさまざまな問題に直面していたことは間違いないところであろう。教長を務めた侍天教も信徒が減少し、大正4年には早や「有名無実」の状態であったとされる(金廷実前掲論文)。打開策を講じないことには間島での日高の活動は行き詰まってしまうところまで来ていた。そんな時期の大正8(1919)年 12月の暮れ、日高は光明主義の山崎弁栄と出会うことになったのである。
この間島地域で抗日運動が活発化し、領事館が襲われるという琿春事件が勃発したのは大正9(1920)年であるが、日高はこの前年の暮れに山崎弁栄に会い、弁栄の人格に強く打たれ、光明主義の教えに共鳴してすぐさま光明会に入信した。
光明会というのは、山崎弁栄が開いた光明主義に基づく浄土宗の一派である。弁栄は厳しい修行ののち光明主義に到達し、大正3年(1914年)如来光明会を起こした。これが後の光明会である。
日高は知人の誘いにより、大正8年12月当麻山無量光寺に弁栄を訪問した。弁栄はこの訪問の前年の大正7年 10月に時宗無量光寺第61世法主に就任しており、大正8年4月には庫裏を利用して光明主義伝道者養成のための光明学園を創立していた。そんなことから、弁栄は日高が訪問した折には光明主義の教義とあわせて創設間もない光明学園についても熱く語ったに違いない。

山崎弁栄の光明主義
ところで日高はこの訪問までに弁栄およびその光明主義のことを知っていたのであろうか。岩波文庫の山崎弁栄『人生の帰趣』(2018年)に載る「年譜」によれば、弁栄生前の商業出版物は、大正5(1916)年12月に一音社から刊行した『宗祖の皮髓』が唯一である。この本はこの年の6月、浄土宗総本山知恩院で僧侶向けに弁栄が行なった高等講習会の講義をもとにしたもので、これは知恩院側から請われて出版したものであった。
弁栄は毎年休むことなく精力的に全国各地を巡教して回っている。講演したそれぞれの地で配布された印刷物は数多くあったが、それらは一般の目には触れ得ないものである。それゆえ先の『宗祖の皮髓』が唯一の市販の刊行物であった。ただ市販の、といっても、満洲の一地方の間島に住む日高がこの著作を入手し読んでいたとも考えにくい。おそらく日高は、白紙の状態で知人に連れられ、弁栄を訪問したのであっただろうと想像される。
ところで、弁栄の唱えた光明主義についてである。この宗教上の「主義」という強い言葉にわたしたちは一瞬たじろぎを覚えるのだが、それは何か排他的な教条・教義といった性格のものではない。若松英輔の言葉を借りると、「それは、その人が信じ、わが身を賭して生きるべきひと筋の「道」」という性格のものであった(「解題-愛と霊性の仏教哲学」『人生の帰趣』岩波文庫)。
日高はといえば、臨済宗大徳寺の紫野中学に入学し、卒業後は日本国教大道社の大道学館の門をたたいて入学、鳥尾小弥太の影響を強く受けて渡満を決意した人物である。そんな日高であったれば、こうした宗教教義や「主義」に対して、入信するにあたって大きな障害はなかっただろうと考えられる。日高は、その教義が自身に合うと考えたとき、大きな抵抗感もなくその教義に移行できる人物であったであろう。そんなことから、弁栄の説く光明主義に日高は大きく心を動かされ、すぐさま入信したわけである。
弁栄の説く「道」、それは、宇宙という大霊(神、如来)に対し、その小分子たる小霊(衆生、人)が、宇宙の大法に則った行ない、つまり自身の霊性を発揮する行ないを積み重ねていくことにより、その人生の目的に到達(帰趣)する、そんな道筋であり生き方である。弁栄の大霊は阿弥陀如来であり、その光・光明を受けとめる小霊は、ひとそれぞれが持っている胸底の霊性である。
超越的な存在である大霊から光明を受ける小霊たる人・衆生には、大霊と繋がりあえる仏性(ぶっしょう)が元より備わっている。それにより霊性を「開発」していくことが重要なのである。なかなか難しいところなのだが、このことをわたしなりに理解してみると次のようになろうか。
人は誰しも、いまだ自覚化してはいないのだが胸底に「内部世界」を持っている。ひとしなみに広くて深い世界である。そしてそれは日々の精進によって発展させていくことができるものなのである。そのように発展させることによって、個々人の「内部世界」は、宇宙的存在である大霊と共振し繋がりを持つことができると、そういうことになるのではないか。弁栄の場合は、如来を信じ、そのつながりの手立てとして念仏を唱えるということであった。大霊は阿弥陀如来、衆生である小霊との繋がりを保証するものが仏性(ぶっしょう)というわけである。
このことを一歩引いて考えてみると、弁栄の光明主義の教えは、広く他の宗教にも援用できるのではないかと気づく。若き弁栄は、ギリシア正教手賀沼教会の神父らと交流を持ったというし、科学的知識や哲学を学び、それらの思考を排除することはしなかったとされる。これは弁栄の、いわば柔軟性、融通性、フレキシビリティに拠るものであるといってよい。融通性を持ちながらも、それゆえに柔軟で強固な論理性に貫かれている。
一方の日高丙子郎、かれは間島地方で厳しい民族問題に直面し、その行き方進み方に苦慮し行き詰っていた。そんな日高は、弁栄に出会い、その人格に触れ、教説を聞き、また弁栄が法主に就任した無量光寺の庫裏に設けた光明学園の話を聞く。そんな話を聞いて日高は目から鱗の落ちる思いを持ったのではないか。この光明主義こそが、間島での事業を進めていくための背骨となり原動力となる、と確信したのである。
弁栄の教義は明快で理論だっており、さきに述べたように汎用性もある。また巡教を重ねてきた弁栄の弁舌は説得力を、持っていたにちがいない。そのうえに弁栄は、大正6(1917)年には7月から9月にかけて、朝鮮・満洲を巡錫し、その後に「帰依深き一鮮人を伴いて九州、近畿、東海ご巡教」もしており(田中木叉「略伝」、佐々木有一『近代の念仏聖者 山崎弁栄』)、日高との会見ではそんな話題もあがったかもしれない。
弁栄と面談した日高は、弁栄の人柄に強く打たれ、弁栄の光明主義に賛同してすぐさま光明会に入信した。入信してまもなく、日高は間島の地で光明会の活動として教育事業を展開していくことになるのである。

『間島対策卑見』『内鮮人融合機関設立卑見』の執筆
日高は弁栄に会った1年2か月ほど後の大正10年2月に「間島対策卑見」を、3月には「間島対策卑見」を書いている。この「卑見」については前掲の金廷実が論じているが、ここでも内容を少し見てみる。
日高は、間島の将来について4案を示したうえで、最善の方法は、機会あるごとに漸次勢力の伸展を図るという案であるといい、その具体的な施策として、警察分署の設置、学校や病院の拡充などの7項目を掲げている。例えば警察官の増員の項目では、「軽微ナル犯罪、行政罰等ニ対シテハ成ルベク手加減ヲ為シ民心ノ反感ヲ惹起増加セシメザルヨウ注意スルコト」と、日々朝鮮人と接触している者ならではの、現場感覚に基づいた融和的な提言を行なっている。
さらに裁判にあっても、現在総領事館や分館で行なわれる裁判では裁判官資格のない外務書記生が担当しているが、ここは専門の司法官を置くべきであると、しごく真っ当な要求も掲げる。そして監獄房での例を取り上げ、「内地人ト食物対(ママ)遇ノ差異等ヨリ反感ヲ強クシ一種排日ノ思想ヲ養成スル結果ト為リ居レリ」と、その理不尽な差別待遇についても言及している。日本人と朝鮮人では、監獄のなかですら食事内容が異なっていたというわけである。これら日高の提言は、「民情ヲ知リ融和ヲ進メル」という立場に立ったものであった。
「内鮮人融合機関設立卑見」においては、その具体例として融合機関の設置を提唱しその内容を述べていく。融合機関は、「表面的施設」と合わせて「内面的経営、即チ思想ノ緩和懐柔ヲ内秘セル内鮮(支人モ)輯睦ノ集会機関」として設けるべきであると説く。つまり、反感を転換して共存同栄の感情という内面性に重きを置いた施設を設けるべきであると言うのである。今ある居留民會や侍天教などは、いわばあからさまな親日団体であり、これではさすがに朝鮮人も近寄りがたい。それゆえ、表面的には漠然としたものとし、「民族、宗教ノ範囲ヲ超越セル道徳光明主義ヲ掲ゲ」、できるだけ支那人も包容し、断然武力の妄動を排斥して、もっぱら「教育産業ノ振興充実」を期すべきであると論じる。
ここで日高が「道徳光明主義」を掲げると宣言していることに注意をはらっておきたい。「道徳光明主義」により、不逞分子に対して、「間島方面ニ理想郷建設ノ希望ヲ持シテ来集セシメ以テ不逞兇暴ノ思想ヲ去勢シ国境ニ緩衝地帯」を形成することが重要であると述べる。次に続く「融合機関方針」で日高は、思想方面については、教育などにより「博愛、平和、自由ノ理想郷建設ヲ目的トシテ一致協力セシメ」と、渡満したときに抱えていた「理想郷建設」という目標を改めて確認している。
この二つの「卑見」は間島地方での融和施策の提起というきわめて政治性の高い文章である。日高は、間島での抗日運動などに対し、有効な融和策をさぐり、あらゆる手立てを講じたいと考えていた。それゆえ、日高が弁栄の光明主義を間島地域の融和対策に援用しようとしたとしてもそれは不思議なことではない。
新聞・雑誌・新刊書などを備えた集会場の設置などを提示した「事業」のなかには、「七、毎朝夕、静座、黙想、祈祷会ヲ開キ又時々心身修養ノ会合ヲ催す」ともある。この静座というのは、岡田虎二郎が始めた岡田式静坐法ではないかと思われるがいかがであろうか。岡田は大正9年に49歳という若さで亡くなり、その静坐法の勢いは一気に衰えてしまったが、大正年間、岡田式静坐法は心身修養法として広く受け入れられていた。
間島とは地域がかなり離れてはいるが、旅順工科学堂教授の橋本五作は大連や旅順で静坐会を開催し、大正六年には『岡田式静坐の力 第五版』(松邑三松堂)を出版している。同じ満洲の地のことでもあり、日高はこの岡田式静坐法についても知っていて、これも「内面的経営」「思想ノ緩和懐柔ヲ内秘セル」集会機関における心身修養法として使えると思い取り入れようとしたのではないかと思わせる。
この光明会の賛助人になったという金躍淵にせよ、また入会した他の朝鮮人にせよ、賛同したという中国側の有力者たちにせよ、「思想ノ緩和懐柔ヲ内秘セル」といった日高の「融和」の意図は十分承知の上での光明会への賛同であったろう。

間島で光明会を設立
山崎弁栄は、日高が訪問した翌年の大正9(1920)年12月4日、念仏を称名しながら遷化した。弁栄の死後のことになるが、日高はふたつの「卑見」を提出した同じ年の大正10年10月7日に「光明会設立許可願」を間島総領事館に提出する。そしてそれは翌日許可が下りた。間島の地で「光明会」を設立し、正式に光明会を名乗ることができるようになったのである。
間島に光明会を発足させた日高はさっそく教育事業に取り組む。大正11(1922)年3月には光明語学校を、5月に光明女学校、11月には光明幼稚園を開園した。
願い出た「光明会設立許可願」であるが、ここで日高は、民族が入り組んでいる間島の地で宗教団体を設立する意義を強く説いた。日本・朝鮮・中国などの民族宗教の範囲にとらわれることなく、「天下一家四海兄弟ノ本義ヲ実践」するため、各民族の「接近融洽ヲ進メ共存同栄ノ情ヲ厚クシ、地上ノ天国理想ノ楽園ヲ間島内」に実現するため、「信神修徳愛隣奉公ヲ綱領トスル光明会ヲ組織」すると言うのである(前掲金廷実論文、筆者が見たものは「光明会記実」に添付の「光明会設立許可願」『光明学園関係一件 第一巻』)。
これは光明会という宗教団体設立の願書である。間島という朝鮮族が多く居住しまた中国や日本の民族問題の複雑に絡み合った地域での許可願であり、そこに創設する意義や政治的な効用がことさら述べられるというのは当然である。そんなことから、山崎弁栄の光明主義が政治的に利用されたと考えられても仕方がない。だがそれは、弁栄の光明主義がそうした政治性をもった教義であったということでは決してないのである。
さて、日高はこの願書において、光明会が経営しようとする事業として、一、光明図書館、二、光明語学校、三、光明倶楽部、四、光明寄宿舎、五、経済界、六、光明救生院、を挙げている。そして「光明会趣旨」には間島の光明会についての宗教的性格が次のように具体的に述べられてある。少し書き抜いてみる。
宇宙ノ独尊、万物ノ帰軸ニシテ霊肉ヲ統摂シ給フ
眞宰ノ
上天、天主、如来、神ト称シ来レル絶対ノ大霊体ヲバ眞宰ノ聖名ヲ以テ崇頒シ奉ル
大智大能ハ何レノ時、處、物ニモ充満シテ不断ニ無量ノ恩寵ヲ垂レ給フコトヲ省覚シ赤子ノ慈母ヲ慕フ如ク吾等ノ大みおやタル眞宰ヲ遣ル瀬無キ心ニ恋ヒ縋リ日月ニモ軼(す)ギテ光輝燦爛タル光明ノ大威神力ヲ各自ノ霊台ニ受ケ入レ罪悪ノ暗黒ヲ払ヒテ浄潔円満ノ心身ト成リ無限ノ平和無辺ノ幸福ヲ人間ヨリ拡メテ一切万物ト共ニ享受シヨウトノガ光明主義ノ宗旨デアリマス」
ここでは、宇宙の大霊を「真宰(しんさい)」と呼び、上天・天主・如来・神などの呼称で降り来れるにより、いつでもどこにでも満ち満ちている光を頒け与えられること、その小霊である衆生(個々人)が各自の霊台で受けとめ受け入れ、自身を発展させていくこと、それにより無限の平和、無限の幸福に立ち至ることができる、それが光明主義である、と述べられてある。
日高は弁栄の光明主義をこのようによく理解し概説した。そして「光明会会則」を附したうえで、多年にわたって紛擾のなかにあった間島の地に、平和で幸福な楽園を作り、東亜のアルプスである長白山の山頂に、天を焦(こ)がすほどの霊火を掲げ、光明により暗くて頼りのない世界を打ち破り、幸福な世の中を皆と喜び合いたい、とその意思を表明しているのである。
ここには、日高が渡満する動機となった鳥尾小弥太の、「東亜のアルプス」である長白山を制し東亜の「覇権」を確立して「太平」を守護するという構想がそのままに受け継がれている。間島に一千万人の移民を送り出し、「東方の瑞西国」を建設するという基本姿勢はそのままに引き継ぎ、趣旨書に生かされてある。それを山崎弁栄の光明主義という背骨を通して、より強固に理論武装したのだということが見て取れるのである。

光明会教育事業の評価
こうした日高の光明会を掲げた活動は当局から高く評価される。間島の地でのこれまでの日本人の事業といえば、「一種ノ猜疑ヲ以テ迎ヘントスル」ところがあったが、この間島光明会は、「在留鮮人等モ同人並右事業ニ対シテハ全然疑懼邪念(ぎくじゃねん)ヲ捨テテ之ヲ謳歌仰望スルノ概アリ」というわけである(「大正十二年六月十五日亜細亜第三課調」『光明学園関係一件』第一巻)。
これは当局の見解であるが、日高の設立した間島光明会の教育事業は、これまでのような大きな反発もなく一定程度当地で受容されたようではある。それも日高が弁栄の光明主義をよく理解し、例えば「大霊体」を「上天、天主、如来、神ト称シ来レル」と、仏教に限定せず説いたこと、光明の力を小霊(霊台)が受け入れて円満の心身になるべく発展するというように、個々人の努力精進によるものとしたことなど、さまざまな民族の人たちにとっても受け入れ可能な教えであったからである。
それはとりもなおさず弁栄自身の光明主義の教えでもあったわけだが、そうした弁栄の教えを日高が理解し、光明主義を掲げ、間島という地域で教育活動を展開することにより平和で幸福な楽園を形作ろうという主張が一定の評価を得たというわけである。
日本と中国という二重の抑圧に苦しんでいた間島の朝鮮人にとっては、それはある意味では希望でもあった。間島の地で同じく教育事業を展開した金躍淵も大正11年3月10日には光明会の賛助人になっているし、延吉道尹・延吉鎮守使・延吉警察署長らも間島光明会の名誉会員に、延吉県知事・陸軍団長・龍井商埠局長が賛助会員として名を連ねている(金廷実「日高丙子郎と光明語学校」『東アジア日本語教育・日本文化研究 24』)。
こうした事態を金珽実は、「「理想郷」建設は日高と間島朝鮮人との間の「同床異夢」であったと言える」と述べている(「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか」)。その通りであろう。日高の「夢」は、光明主義の旗のもと、間島の地で教育事業を展開することであり、そのように努力・精進することで、結果的に、平和で幸福な楽園としての間島を建設することであった。それを朝鮮族への融和事業と呼んでもよいのだが、少なくとも日高は、朝鮮・日本・中国などの民族の間で安定的 で平穏な社会を作っていきたいと考えていたのだと思う。もちろんそれは、日本が中国・朝鮮の地に植民するという国是に疑いをもたぬ前提での「夢」ではあった。

3 新京の王道書院副院長就任
満洲国の治外法権撤廃
日高にとっての第三の転機は、昭和13(1938)年に間島光明会理事を辞任し新京の王道書院の副院長に就任したことである。
光明学園は昭和9年11月には財団法人光明学園となり、満洲国の法人組織となっている。こうした動きに対して、昭和10年に光明学園の副園長工藤重雄は、間島省政府当局内には、「満系官吏ト日系(朝鮮系)官吏トノ間ニ無言ノ対立」が見られること、間島省教育庁では庁長以外は朝鮮人であり、これも間島省の民族事情よるものであると現状を述べたうえで、間島省政府当局は、「間島省内全部ノ学校ノ統制ヲ志シテイルノデハナイカ」と危惧を示し、「満洲人教育ヲ朝鮮側ニ委任シタ方が時宜ノ策テハナイカ」と、現状の静観および時機を待つのが得策であると述べている。そして外務省・朝鮮総督府がともに行政権を行使している現状に鑑み、それを外務省の手に回収すべきであると主張する。
また「在満同胞子弟教育ノ基調」においても五つの選択肢を示したうえで、「基調ノ即断ヲ避ケ当分採長補短ノ教育ヲスル」という方針がよいのではないかと述べる。さらにこの地域の文化の流れとして、満洲帝国自体の新文化、関東州および満鉄沿線の純日本文化、間島に生まれ間島で成長しつつある間島文化の三つをあげ、この間島文化の醸成こそが将来を約束する文化であると明言している。そして満洲帝国の五族協和は第一原理であるがと留保を示したうえで、これはまだ理論の段階であること、「間島ニ於ケル満鮮民族ノ協和融合ハ机上ノ議論デモ無ケレバ義理合ノ交際デモ無イ、現実ニ彼ノ村ノ到ル所ニ実在スル生活現象デアル」と、思い切った発言をしている。光明学園ではそれまで教育勅語を唱和することがなかったという事実も、不敬な行為を恐れるという心配もあるにはあったが、これら光明学園の運営は、日高・工藤の間島についての現状認識のうえに立ってのものであったといってよいと思う。
そんななか、満洲国の治外法権撤廃が始動する。工藤副園長は、これにより満洲国が間島地方の教育などに一層その支配権を強めてくるのではないかと憂慮し、在満同胞教育を満洲国に移譲する施策など日本人・朝鮮人のなかには賛同者はおらず、朝鮮人の教育は朝鮮側に任せるべきだと主張した。そしてその末尾には、ここ10年の間「日鮮満融合ノ体験的醸成的間島文化ノ□由スル源泉ガ多ク日高翁ノ生命タル光明主義ニ待ツ所偉大ナル」と日高丙子郎の設立した光明会の光明主義をたたえている(「在満同朋ノ教育統制」「在満同胞子弟教育ノ基調」『日本外務省特殊調査文書 2次 32巻』高麗書林 1990年)。
しかしながら状況は、工藤が危惧した通り満洲国への支配権の一元化へと推移していく。昭和12年12月には、かねて準備中であった満洲国の治外法権撤廃つまり満鉄附属地の行政権移譲が実施された。これによって光明学園の教育も満洲国の管理下に入ることになる。
これは日高にとってはまことに大きな変化であった。光明学園の自主的な管理運営権が大きくそがれることとなるからである。この制度変革は、とりわけ光明主義を掲げて事業を展開してきた日高にとっては致命的とも考えられる出来事となった。日高の新京の王道書院への転任はこの行政権移譲が行なわれた翌年のことである。
わたしは、日高丙子郎がこの満洲国の治外法権撤廃により、間島での教育活動に見切りをつけて、間島光明会の理事を辞し新京に向かったのではないかと考えている。研究のなかには、間島という一地方での教育事業を踏み台にして国都新京の高等教育機関にステップアップしたという論もあるが、わたしは、日高は忸怩たる思いで間島をあとにし新京に向かったのではないかと想像する。
「理想郷」を築こうと渡満し、政府筋の豊富な人脈を活用して資金を獲得し、事業や教育活動、畜産・農園などの経営を行なった日高である。それら事業が日高の思い描いた「理想郷」であったかどうか、またその一部でも実現したのかどうかはさておき、少なくとも間島のこれらの活動は、日高の手の届く範囲内での活動であったということは言ってよいだろう。その光明学園の管轄が満洲国という官僚機構の末端組織に位置づけられることに日高は耐えられなかったのだとわたしは思う。

新京の王道書院副院長へ
満洲国の治外法権撤廃による光明学園の管理運営権の縮小以外にも、日高の王道書院転身の要因は考えられる。それは、渡満時に抱えていた間島地方での「理想郷」建設という美しい「理念」と、苛烈な「現実」という、どうしようもない出来事の落差に悩んだのではないかということである。もとよりそれは、武力を背景として他国を侵略し植民をするという矛盾に満ち満ちた行動でもあり、「落差」などというべきことではないかもしれない。
日高は、そうした困難に対して山崎弁栄の光明主義の理念によりを補強し強化を図った。そしてそれは一部の朝鮮人にも共感を得たわけなのだが、やはり当然のことながら目前に迫ってくる朝鮮人の抗日運動・抗日意識や、学園での改組改編に伴う反対運動、同盟休校などなど、解決不能な問題に直面し、間島における「現実」から逃れ出たのではないか。いずれにせよ、日高の満洲国国都新京への転身は、挫折以外の何物でもなかったのである。

王道書院副院長の日高
日高が転身した王道書院は、元満洲国国務総理の鄭孝胥が創設した「満系」つまり中国人の子弟を養成する文科系の私立大学である。
鄭孝胥が「大学」や「春秋」「孟子」などを中心とした儒学教育を行なう学校の設立を思い立ったのは昭和11年春ぐらいのことであったという(松浦嘉三郎「王道書院を紹介す」『大亞細亜』5巻7号 昭和12年7月)。松浦嘉三郎は東方文化学院京都研究所の研究員を経て大同学院の教授となった人物である。鄭孝胥は昭和10年5月まで国務総理を務めているから、この発起は総理の職を辞したあとのことである。
王道書院は昭和12年春ごろからその設立は具体化する。設立資金は、鄭孝胥が満洲国政府から受け取った公債の「建国功労金」から10万円を拠出した。松浦によれば、王道書院の設立については、蔡運升・馬冠標・曾恪・太田外世雄・金崎賢らと相談して準備をしたのだという。ここには日高丙子郎の名前は上がらない。理事長には田辺治通が就いている。
王道書院の発会式は昭和12年5月2日で、新京の軍人会館で開催された。そして6月1日には東五馬路の鄭孝胥邸で開講の運びとなる。王道書院では「講書」が重んじられ、「大学」や「春秋」「孟子」などが講じられた。
王道学院の院長には蔡運升が就いている。蔡運升は昭和9年12月に間島省長、昭和11年6月満洲中央銀行副総裁、昭和13年4月外務局長官、昭和15年5月に経済部大臣に就任し昭和17年9月には参議府参議となっているから、王道書院が開校した昭和12年5月時点では満洲中央銀行副総裁との兼務ということになろうか。いずれにしても蔡運升は「充て職」であろうから、昭和13(1938)年に副院長に就いた日高丙子郎が実務上の運営者であったであろう。なお創設者の鄭孝胥は設立翌年の昭和13年3月に死去している。日高の招聘が鄭孝胥によるものだったかどうかは不明である。
ちなみに、昭和11年1月に刊行された鄭孝胥『満洲国王道の片鱗』(護国同人社)に収められた「王道救世の要義」には次のような一節がある。
「(戦火に満ちた世界のなかで)果たして王道を行はんか。必ず先ず愛国の思想を蕩溺し而して博愛を以て主と為し、必ず先ず軍国の教育を革除し、而して礼儀を以て先きと為す(中略)王道は至遠にして而も之を遠きに求むる能はず。然らば則ち王道は安くに在りや。今一言を以て之を蔽へば、人と己れと間に在る而已。」
王道書院の理念ともみられる鄭孝胥の論であるが、鄭孝胥は、王道とは他者と自己との間に存在するもので、決して遠くて手に届かぬものではないと述べている。これは、弁栄の光明主義の、光明はこの世に満ち満ちている、それを衆生の小霊(霊台)で受けとめるべく精進するといった教義と相通じるものがあり、それを受けて間島光明会設立趣旨書にも書かれている内容とも呼応するようにも思われる。
日高は、治外法権の撤廃により光明学園が満洲国の管轄下に置かれることを嫌って間島を去ったのだとわたしは考えているが、転出先の王道書院にも、日高の思想・理念と重なるものが存在すると考え、王道書院副院長という仕事を引き請けたのだろう。

日高丙子郎の最期-西谷喜太郎の回想から
王道書院における日高丙子郎副院長の詳細は知れない。王道書院の教授を勤めた西谷喜太郎の回想には、王道書院は中国系の学校であったが事務員には朝鮮人も多くいて朝鮮の子弟の訪問も絶えなかったと述べられてある。間島の地で朝鮮人教育に力を注いだ日高の人柄によるところがあったのかもしれない。
王道書院には、中学を卒業してきた学生たちが全満から入学してきた。一学年50名ほどの3学年構成で合計150名、女子学生は約30名いた。寄宿舎がありそこには50名ほどが起居していたという(「日高丙子郎先生」『西谷喜太郎論集』西谷喜太郎論集刊行委員会 1995年)。
昭和20(1945)年になり、8月9日にはソ連軍が南下し参戦する。8月11日日高夫人の静、四男大三、それに西谷の家族らを含む王道書院の関係者は通化に疎開する。終戦前に疎開をするということは、王道書院が満洲国の政府組織の中にあってある位置を得ていたということを示している。
王道書院の教授となった西谷喜太郎は日高副院長を慕い、片腕となって働いた。この西谷については、「西谷喜太郎と王道書院」に書いた。大正6(1917)年の生まれで東京帝国大学文学部教育学科に進み、在学中に「アジア研究会」を組織し、大学3年の昭和15(1940)年夏、友人数名と橘樸(たちばなしらき)を訪問、また卒業論文の資料を集めるという目的もあって満洲国・蒙疆地区・華北を旅行している。華北では大同の普北政庁最高顧問前島昇の官舎に居候し教育政策など教えを乞うたが、ここで帰路には日高丙子郎に会ったらよいと薦められ新京で王道書院副院長の日高丙子郎にも会ったのであった。
西谷が日高を訪問したのは昭和15年であるが、これは日高が王道書院副院長に就任して2年目にあたる。西谷は大学卒業後すぐさま渡満し、熱河省隆化県属経済股長、熱河省地方職員訓練所教官を経て、昭和18年4月王道書院の講師、翌年1月には教授兼総務科長に就任している。
西谷は大学卒業後すぐに渡満したのだが、その渡満について、「祖国の不滅を信じ、満洲国の建設のために骨を埋める覚悟で、学窓をでるなり渡満して来た」と述べている。この西谷の渡満もいわば「筋金入り」であった。
昭和20年8月9日のソ連軍参戦を受けて王道書院では、11日の午後に解散式が執り行われた。ここで日高副院長が訓示を垂れ、西谷総務科長は学生に注意事項を述べた。
14日に日高は国務院を訪問した帰路王道書院に立ち寄っている。このとき西谷は日高に対し、王道書院の家族も通化に避難しており、日高も通化また東辺道方面へ後退してはいかがかと進言した。日高はそれに対して、「ここの所ですぞ。電光影裏斬春風という境地は」と、いま後退など考えるべき時ではないと一喝した。斬る太刀も空、切られる自分も空、切るといっても光る稲妻が春風を斬るようなものだ、泰然自若、いま動く時ではないということなのであろう。
15日終戦。この日も日高は文教部の帰りに協和会に立ち寄り、頭陀袋(ずたぶくろ)をさげて王道書院の北の方角の総領事館方面に歩いて行った。この時その場所では暴動が起きており、日高はこの暴動に巻き込まれて行方不明となった。西谷ら教職員は一帯をくまなく探したのだが消息は知れなかった。ここで日高は亡くなったのである。

むすび―今一度「電光影裏斬春風」を考える
王道書院副院長時代の日高の事績は知れない。そんなことからも、西谷喜太郎の回想は貴重である。本稿を終えるにあたって、終戦の8月14日、西谷が通化への疎開を勧めた時に日高が言い放ったという「電光影裏斬春風」についてもう一度考えてみたいと思う。
この言葉は、鎌倉時代の臨済宗僧侶無学祖元(むがくそげん、仏光国師)のものである。無学祖元は中国南宋の生まれで、来日して無学派を開いた。
無学祖元の南宋時代のことであるが、モンゴル族の元軍が一気呵成に南下してきた。無学祖元が逃れていた温州の能仁寺にも迫ってくる。寺の僧たちはうろたえて逃げまどうばかりであったが、そんななか無学祖元は禅堂に座して動こうとしなかった。そして押し込んできた元兵が太刀を振るい切りつけようとしたその刹那、無学祖元は次のように言った。
乾坤無地卓孤筇
喜得人空法亦空
珍重大元三尺劍
電光影裡斬春風
乾坤(けんこん)、孤筇(こきょう)を卓するに地も無し
喜び得たり、人は空、法もまた空
珍重すべき大元三尺の剣
電光影裏に春風を斬る
(天地ともども元軍の占領が行きわたり孤筇たる竹杖を立てる余地さえない。
だがわたしは有難いことにこの人の世は一切が空という境地を得ている
その立派な三尺ほどもある剣でわが身を切ったとしても
雷光ひらめく間に春風を切りつけるようなもの、空を斬るごとくであろう)
泰然自若の無学祖元の態度に圧倒された元兵は切ることもできずそのまま退散したのだという。
一方の日高丙子郎はいかがであったろうか。日高は満洲国の国都新京にあって、鄭孝胥元国務総理の創設した王道書院の副院長という要職にあった。日本敗戦が目前となり、ソ連軍が南下し、満洲国の崩壊、「満人」の反攻反乱必至という状況のなか、日高は西谷の疎開進言に対し、無学祖元にならって、「ここの所ですぞ。電光影裏斬春風という境地は」と言って通化に逃れることを拒否し新京の地に踏みとどまる決意を示したのである。
日高は、若くして京都の臨済宗大徳寺の般若林・紫野中学に学び、その後上京して日本国教大道社の大道学館に進んでいる。日本国教大道社の「国教」とは神道・儒教・仏教を融合させたもので、日高はここでも宗教的な素養は身につけている。こうした経歴からも、この「電光影裏斬春風」という発語は、その場の思い付きなどでは決してなく、日本の戦況不利が続く状況にあって、おそらくはずいぶん前から自身の態度振る舞いを熟慮思案した結果の発語であったろう。
ところで、無学祖元の言葉の後段「電光影裡斬春風」はともかく、前段の「喜得人空法亦空」(喜び得たり、人は空、法もまた空)というのは日高にとってはいかがであろうか。有難いことにこの人の世は一切が空という境地をわたしは得ている、という箇所である。
日高は朝鮮族の多く居住する間島の地で日々抗日運動に直面していた。そして山崎弁栄の光明主義に出会って間島光明会を結成しその理念により学校経営に当たった。それは、人の世も空、法もまた空、という境地からは程遠いものであった。日高が進言した『間島対策卑見』(大正10年2月)、『内鮮人融合機関設立卑見』(3月)などはもっとも政治的で生々しいものである。
新京の王道書院副院長に就いて以降は、間島ほどの直接的な抗日運動ではないにせよ、五族協和という根源的に無理な命題を抱え持った満洲国の国都新京にあって、「満人」らの態度振る舞いも穏やかならざるものがあったろう。日高にとっては、「人の世は一切が空」という境地からは、ほど遠い地点に立っていた。
無学祖元の場合は、元兵がその言葉に圧倒されて退散したというのだが、終戦時新京の領事館前の暴動ではそんなわけにはいかない。厳しい現実のなかに身を置いていたわけであるからだ。日高はおそらくここで群衆に殺されたのであろう。
それが、王道書院副院長としてか、侵略国日本の一指導者としてか、ただ新京に住まう一日本人として暴動に巻き込まれて亡くなったのか、それは全くわからない。ともあれ日高丙子郎はここでその生涯を終えたのであった。若き日に建設を夢見た「理想郷」の間島の地ではなく、「長春」という一地方都市から、新しく設(しつ)えられた「偽満の国都新京」の地でのことある。
西谷喜太郎の撤退の勧めに対し、日高丙子郎は「電光影裡斬春風」と述べて新京に残り、結果は領事館前で殺されるに至った。理想郷の建設という夢を抱いて渡満し、光明主義を掲げて教育活動を展開した日高丙子郎であったが、間島では抗日勢力の厳しい日常の中で持続させてきた光明学園も、結果満洲国の管轄下に置かれることになってしまった。
わたしは、そんな日高丙子郎という人物について考えるとき、「無限ノ平和 無辺ノ幸福」という〈理想〉と、「民心ノ反感」「排日ノ思想」という〈現実〉」との間のどうしようもない落差、大きな裂け目に思いを致さないわけにはいかない。こうした現実を生きた日高丙子郎は、この矛盾、二律背反を抱えて生き、そして亡くなったのであった。
日高の戒名は光明院殿心阿訥翁大居士。ここにも「光明」の名を戴いている。

日高丙子郎略年譜
(前掲の槻木瑞生「光明会と日高丙子郎」、竹中憲一『「満州」における教育の基礎的研究』、金珽実「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか―金躍淵と日高丙子郎の教育活動の比較を通して」、「日高丙子郎」『満州・間島における日本人ー満州事変以前の日本語教育と関連してー』および『西谷喜太郎論集』などから作成)
明治9(1876)年10月 長崎県壱岐那賀村の秋山家に生まれる。
明治25(1892)年 壱岐で週刊『青年新聞』を刊行35号まで、のち京都大徳寺の紫野中学入学
明治28(1895)年 上京し日本国教大道社の大道学館に入学
明治31(1898)年 日高静と結婚。二人の間に明治32(1899)年長男壮三、明治35(1902)年次男健三、明治39(1906)年三男鉄三、大正元(1912)年四男大三、大正4(1915)年長女孝、大正9(1920)年次女千恵
明治37(1904)年 『大道叢誌』編集発行人、この間に間島省に日本人の理想郷を作るという構想を持つ鳥尾小弥太の影響を受ける。島尾は明治38(1905)年死去。
明治39(1906)年2月 尉官相当の参謀本部嘱託という身分で満洲の鉄嶺軍政署に勤務
明治40(1907)年9月 間島天宝山の鉱山主任
明治42(1909)年 日清協約により間島は中国(清国)の支配下と確定
明治43(1910)年7月 間島侍天教長
明治44(1911)年10月 永新学校の前身の広東義塾設立
大正元(1912)年9月 カナダ長老会が広東義塾を引き継ぎ永新学校と改称
大正元(1912) 年 雑貨・穀物などを扱う延吉洋行
大正5(1916)年10月 寺内正毅の紹介で鈴木商店嘱託
大正8(1919)年 12月 光明主義山崎弁栄に会い入信。弁栄は大正3年に如来光明会を起こした
このころから間島の朝鮮族は直接対決から民族自彊へと方向を変え、大正9(1920)年3月恩真中学校開校、大正10年4月東興中学、5月永新中学、8月大成中学が開校
大正9(1920)年9月 琿春事件、琿春領事館襲撃事件、日本軍派遣
大正10(1921)年2月 『間島対策卑見』、3月『内鮮人融合機関設立卑見』執筆
10月 間島総領事館に「光明会設立許可願」を提出、許可され光明会が成立
大正11(1922)年3月 光明語学校開校
3月10日 金躍淵は光明会賛助人に、多くの朝鮮人も光明会入会。中国側有力者孫鴻慶も賛同。
5月 光明女学校開校(のちに高等科が独立して光明高等女学校)
11月 光明幼稚園開園、その後に修養団・青年会・児童会を順次設立
大正12(1923)年3月 光明学園師範部設置
5月 対支文化事業費からの支出を要請、外務省の在外鮮人保護取締費から支出
大正13(1924)3月 日曜児童会、光明学校師範科、4月小学科を開設。
4月 光明農園1万坪を開園、養豚・牧羊・養蚕さらに養蜂・養鶏事業を行なう
12月 永新学校の経営困難でカナダ長老会は光明会と龍井村朝鮮人中等学校永新学校および付属小学校の譲渡契約、反対運動。朝鮮総督府や外務省の資金で光明中学校設立
大正15(1926)年3月 外務省に補助費の申請
4月 光明高等女学校開校、さらに光明農園4万坪を開園
昭和2(1927)年3月 光明学校師範科を休校(昭和8年再開)、11月永新学校学友会を解散、同盟休校発生
昭和6(1931)年9月 満洲事変
昭和7年3月 満洲国成立、間島地域の教育も満洲国の管理下に、外務省は光明学園の財団法人化を指示。
昭和9(1934)年5月 光明学園中学部(永新中学校)・高等女学部(光明高等女学校)は専門学校入学者検定指定校認定の申請、却下
昭和9年11月 文部省が示唆した在外指定学校化の申請、認可となり中等学校と同じ公認資格を獲得、これにより光明学園中学部から旧制高校・帝大といった進学が可能となった。
昭和9年11月 財団法人光明学園、永新中学校は光明学園中学部に、光明高等女学校は光明学園高等女学校になる
(日本人教員に安部恒平・松岡雄三・市山善美・片岡景二・佐々木敬介・樋口寛次郎・工藤重雄ら)
昭和11年春ごろ 元国務総理鄭孝胥が儒学教育を行なう学校の設立を構想
昭和12年春ごろ 王道書院設立が具体化、蔡運升・馬冠標・曾恪・太田外世雄・金崎賢らが協議、理事長は田辺治通
昭和12年5月2日 王道書院の発会式、6月1日城内東五馬路の鄭孝胥公館で開講、院長は蔡運升
昭和12年12月 満洲国治外法権撤廃。財団法人光明学園は満洲国の法人となる。また昭和10年1月に受けた朝鮮人在外指定は解除
昭和13(1938)年 日高は間島光明会の理事を辞し王道書院の副院長に就任
昭和13(1938)年3月 鄭孝胥死去
昭和14(1939)年1月 光明学園小学部は満洲国の公立学校、中学部は省立高等国民学校、女子部は女子高等国民学校に改組
昭和18(1943)年4月 西谷喜太郎、王道書院の講師に就任、翌年1月教授に昇進
昭和20(1945)年 8月9日 ソ連参戦、ソ連軍南下
8月11日 王道書院の家族も通化に疎開、静夫人と四男大三も通化へ疎開。
8月11日 王道書院解散式、日高副院長訓示、西谷は学生に注意事項
14日 西谷、国務院訪問のあと王道書院に立ち寄る
15日 文教部の帰路協和会に立ち寄る。その後総領事館付近での暴動に巻き込まれ死亡、戒名は光明院殿心阿訥翁大居士

山崎弁栄の印刷物
(佐々木有一『近代の念仏聖者 山崎弁栄』、「年譜」『人生の帰趣』より作成)
安政6(1859)年 現在の千葉県柏市、手賀沼ほとりの鷲野谷の生まれ
明治27(1894)年12月 インド仏蹟参拝に向かう
明治30(1897)年7月 阿弥陀経を簡明に示した『訓読阿弥陀経図絵』第一版を印刷、27万部
明治35年(1902)関東巡錫のあわせて一枚刷『無量寿尊光明歎徳文及要解』発行、6月名古屋で小冊子『八相応化頌』『一心十界頌』発行
明治38(1905)年3月 愛知県西尾市で『仏教要理問答』
明治40(1907)年6月 小冊子『讃誦要解』
明治41(1908)年1月 名古屋で小冊子『如来の光』を発行
明治43(1910)年1月 松戸心光教会にて礼拝文『心の光』発行
大正2(1913)年5月『自覚の曙光』を発行
大正3(1914)年 『諸宗の精要』『如来 光明の讃』発行、一枚刷『如来光明会趣意書』、小冊子『大霊の光』『浄土教義』発行
大正4(1915)年 4月美濃にて『光明会礼拝式』発行
大正5(1916)年 『光明会礼拝式』を改訂して『如来光明礼拝儀』発行。
6月 浄土宗総本山知恩院で僧侶への高等講習会講師
12月 この公演をもとに『宗祖の皮髓』(一音社)を刊行
大正6(1917)年 3月小冊子『永生の光』を発行
7月から9月まで朝鮮・満洲を巡錫
「帰依深き一鮮人を伴いて九州、近畿、東海ご巡教」(田中木叉「略伝」)
大正7(1918)年 10月相模原の時宗大本山無量光寺61世法主
大正8(1919)年 4月庫裏を利用して光明主義伝道者の養成のため光明学園を創立
11月『ミオヤの光』(月刊雑誌)創刊
12月31日 日高丙子郎が無量光寺の弁栄を訪ね感銘を受けその場で帰依
大正9(1920)年 4月京都光明会発会、6月松山光明会発会
12月4日 念仏を称名しながら遷化、62歳
大正12年6月 『弁栄聖者遺稿要集 人生の帰赴』(ミオヤのひかり社)刊行