ブログ・エッセイ


柏原、柏原八幡宮、レストラン山の駅、村岡、観光案内所、谷川駅、山陰本線、福知山線、加古川線、播但線、丹波市

9月29日(日)、30日(月)と、両親の墓のある村岡に行ってきた。村岡町は香住町と合併して今は香美町となり村岡区と称される。山陰本線の八鹿駅から全但バスで約1時間山あいに入る。
わたしは数年前に車をやめて免許も返納したから今は列車とバスを乗り継いで行く。列車が好きなのでこれはあまり苦にはならないし、列車に乗れるなら交通費が少々高くても惜しいとは思わない。ただ世の習いで、だんだん運行本数が少なくなり、不便にはなった。
墓参に行くのには、山陰本線の八鹿駅に行かねばならいのだが、それにはJRだけをとっても四つの行き方がある。
第一は山陰本線。ひと昔前まではこれが王道だったが、観光でにぎわう嵯峨嵐山、近郊地の亀岡、それに園部を別にすれば、ずいぶん乗り降りも少ないことから、園部より先は本数がめっきりと少ない。だがわたしたちにとっては、この行き方が距離的には一番短いのである。
今回は早起きが苦手の同行奥方の希望で、のんびりと11時ごろ京都発の快速に乗り、園部で乗り換えて、列車でお弁当を食べて、八鹿から全但バスを利用した。今や京都駅からの山陰本線は、嵯峨嵐山に向かう観光客でラッシュ並みの混雑と言われ、少し心配したが、京都駅では10分前に普通列車があったので、乗った快速はまずまずの乗客数だった。
第二の行き方は、今回帰路に利用した、福知山線経由。家の近くの大住からいうと、尼崎・宝塚経由、福知山、ここから山陰本線に入り八鹿に至る。これはわたしの家近くの大住から乗降できるから便利で楽ちんである。最寄り駅は大住で学研都市線の駅。いささか気恥ずかしい名前の線だがだいぶ慣れた。この線だと八鹿-大住間は200キロに少し満たないのでジパングの200キロ以上という条件にはあわない。今回は帰路に柏原巡覧を考えていて、もし福知山線を利用するとしたら、大住からふたつ向こうの同志社前-八鹿の切符を買って200キロをオーバーさせないといかんなと思っていた。このことをJRに尋ねてみると、往路が京都―(山陰本線)-園部-福知山-八鹿、帰路は八鹿-福知山-柏原-宝塚-尼崎-北新地―大住、という切符も、連続切符としてジパングで買えるというので、この切符を利用した。
三つめの行き方は加古川から加古川線に入り北条鉄道の乗換駅粟生経由、さらに西脇市を通って谷川駅から福知山線に入り福知山、そこから山陰線で八鹿に行く。この線は北条鉄道に乗るために使う線で、この夏に下の孫と北条鉄道に乗りに行った際、帰路に乗った路線だ。以前に、この加古川線に乗って柏原の町を歩きに行ったことがある。
そのとき、厄神駅で乗り換えたのだが、その時刻表が全くの不備で、行き先の終点駅西脇までの表示だけで、その先の谷川駅、さらに福知山線から山陰線に出られますよ、行けますよ、という連絡の表記もなかった。このことは以前にブログに書いたことがある。JR西会社殿、これじゃだめだぜ。いくらローカル線で乗降客が少ないとは言っても、線路は繋がっているんだから、乗り換えたら福知山、八鹿、城崎温泉まででも到達できるんだよと、誇りをもって表記しなければ。
だが、そういえば今回、帰路に柏原(かいばら)に寄ろうと思い、ほどよい普通列車がないのでやむなく八鹿駅から柏原駅まで「特急こうのとり14号」に乗ったが、この列車は谷川に停車するとアナウンスしていた。柏原の駅にもポスターが貼ってあって、特急のいくつかの列車が谷川駅に臨時停車します、って書かれてあった。谷川で乗り換えたら、加古川線に入れるよ、そこからは山陽本線だよ、とアナウンスしようというJRの努力かもしれない。わたしのような考えを持った人がいるってことだな。
長くなるが四つ目の行き方である。それは、姫路から播但線に乗って、寺前、生野から和田山も出て、ここから山陰本線に入るというものだ。これは距離的には長いのだが、寺前-和田山間がディーゼルなので、これはなかなか楽しい。生野の峠を越えるのに、ディーゼルが息を切らして頑張って登る様子にはいつも心打たれる。効率は悪いのだが、そして運賃は少し高いのだが、この行き方も捨てがたい。
そういえば何年か前、家のガレージに車を入れるときにアクセルとブレーキを踏み間違えて、軒下のエアコン室外機にひどく車をぶつけて、それがショックで車をやめようと決意した。この時、室外機は大破、車の後ろ部分はひどくへこんでしまい、わたしの心も一緒にひどくへこんだ。そしてすぐさま免許は返納して車も処分した。
そしてこのすぐ後の墓参、やれやれと列車で行ったわけなのだが、この帰路は播但線の普通列車で帰ろうと切符を買ってあった。これで車の運転の危険から免れられるぞと一安心。
いつも宿泊する村岡の兎和野高原の「ロッジハチ北」から国道9号線のバスの停留所まで車で送ってもらい、全但バスで八鹿に向かった。順調に来たのだが、途中の八鹿の公立病院前バス停でのこと。乗ろうとしたおばあさんが運転手になにやら一所懸命に訴えている。どうも、どこどこのバス停は経由するか?経由しなくてもなんとか行ってもらえないか、みたいなことを言っている。運転手も困っているしバスはどんどん遅れる。わたしたちは八鹿発の普通列車に乗らねばならない。そのあとの、生野の峠越えのディーゼルが和田山駅でわたしたちを待っている。八鹿駅の連絡時間は10分ほどだ。早く話を終えてくれ、頼む、早く発車させてくれ。
ようやくおばあさんは諦めてバスは発車。わたしは時計とにらめっこだ。バスがようやく八鹿駅に着いたとき、山陰線の和田山に行く列車はすでにホームに入って停車しているではないか。今すぐにでも発車しようという態勢にある。しかもプラットホームは跨線橋をこえて向こう側だ。すわ一大事、もう発車時間である。これに乗り遅れたら大惨事。山陰本線も列車は少ないし播但線も本数は少ない。
今八鹿駅は完全に無人駅のようだが、そのときは駅員がいた。あの列車に乗るから運転士にそう連絡してくれと頼んでみたが駅員は首を振るばかり。やむなく走った走った。奥方も走った。跨線橋の橋を登り切って平坦になったところをさらに全力疾走。ところが免許返納済老人の足取りはおぼつかなく、背中の荷物が左右に振れるのに合わせてわたしも振られてしまい、見事に転倒。おお大変だ、骨は折れてはいまいか、起き上がれるだろうかと一瞬思った。だが、考えていてはこの和田山に行く列車に乗り遅れる。下り階段の半ばまで行って列車の運転手に、乗る、乗るぞ、待っておれ、と大声で叫んで、ようやく奥方ともども乗車できた。やれやれである。運転免許証を返納して車をやめて、安心旅行のはずなのに、まったく命懸けの旅行になってしまった。家に帰って風呂に入るときに確認したのだが、ひどい打ち身で腫れていて赤くなっている。まあ幸い骨折はなかった。
はなしが随分とそれた。2024年9月末の今回の墓参から帰路の話だった。今回は全但バスも定刻通りに八鹿に到着。このたびは柏原(かいばら)に行く予定だが、連絡のよい普通列車はない。やむなく特急「こうのとり14号」に乗った。しかもこの特急までには40分ほども待ち時間があり、こんな時こそ、全但バスは遅れて到着してくれてもよいのに、と思ったのだが、まあ定時運行は大事だからな。
こうして無事、柏原(かいばら)駅に到着。わたしはこの町が好きで3回目だ。墓参に同行してくれる奥方にも楽しみがないといけないと思い、今回の墓参の帰りに柏原を巡覧することにしたのだった。特急こうのとりが谷川に臨時停車するというポスターを見たのはこの駅の待合室のことだ。
柏原からは普通列車を乗り継いで帰るのだが、その出発時間まで3時間半ほど時間がとってある。この町を巡るには程よい時間だ。まずは、町の観光案内図をもらわなければならない。ここは駅前に観光案内所がなく、柏原八幡宮前にある。以前に来た時には駅でもらったので駅員さんにくださいと言ってみた。すると駅員さん、少し前まではあったのですが…と引き出しを探してくれた。でもどうもないみたいだ。駅員さんいわく、以前は置いていたんですけどね、案内パンフに出ているお店など休業や廃業があってお客さんから苦情を聞いたりするので置くのをやめたんです、という。確かに、観光案内図の内容が実際と異なるってことはよくあるし、それはJRの責任でもないしな。でも案内図を渡すときにひと言、休業の店もありますからね、っていえば済むことなのにな。それに文句を言う観光客も観光客だ、そんなことあたりまえではないか、印刷物なんだから。ならばスマホで調べて行けよ、とまたまた腹立たしい。だが、そんなことを気にして、もう置かない!と決めるJRもJRだな、これも乗客を増やすささやかな努力ではないか。まことに残念な思いがした。
しょうがない、案内パンフは諦めて、荷物を置くべく、コインロッカーはどこですか?と聞いてみた。すると、これも撤去しましたと。利用客が少ないからやめたんだろうな。免許返納老人にはなかなか厳しく不便な世の中になってしまった。政治の世界では地方創成などとかしましいが、こういう努力が大事なんだよ、お金を配ればいいというわけじゃないんだ、実態をよく見てくれよ、と訴えたくなる。本数が少なくなったとて、そんなJRで列車旅する老人たちだっているんだぞ。そんな老人に対しては、一顧もされないそんな社会になってきた、と情けなくなる。
まあしかたがない。
だが柏原のまちは健在だった。駅構内の「レストラン山の駅」はまだ元気に営業してるし、以前にケーキを焼いていた御老人、その日も元気にケーキを焼いていた。ここでまずは昼食だ。わたしはとろろそばのセットを食べたが奥方は看板の「豚肉のどんぶり風」を食べた。少し分けてもらったが、ご飯の部分に玉ねぎだったか野菜が入っていて、しつこくなくて実に美味しかった。
昼食に満足し、足取り軽く、荷物を持って歩き始める。スマホの地図に導かれて歩こうかと地図を開いてはみたものの、スマホを見ながら歩くのもなんだか気恥ずかしく、以前の記憶に従って歩いた。途中で、前回一人で来た時に昼食を食べた蕎麦屋さんの前を通ってみたがここは元気にやっておられる。
八幡宮の前の案内所で地図をもらって八幡宮にお参りに向かう。正面の参道は運悪く工事中で、裏参道から登る。柏原八幡宮は石清水八幡宮の丹波別宮とかで、この裏がわの参道は、なんだか石清水八幡宮と感じがにている。床しい。なんとか登り切って、神社の社殿拝殿の建物と三重塔が並んで建っているところまでたどり着いた。三重塔横に鐘撞き堂がありお賽銭を入れて奥方が撞いた。
この神仏習合の感じがわたしは好きだ。三度目の参拝だったがやはりいい。神仏習合というのがいい。一神教は行き過ぎて排他的になり争いも戦争も起こるわけだが、習合というか融合というか、それがわたしなどには好ましく思う。
わたしは何か信仰を持っているわけではないが、祈る気持ちは持っている。道々にあるお地蔵さんにも一礼するし、お社やお寺があってもぺこりとおじぎをする。御幣で祀られている古木や、特段に御幣がなくても古木・大木には霊が宿っていると考える人間なので、こうした神仏習合の考えは肌に合う。明治維新の長州藩を中心とした明治維新の神仏分離など、まったく間違った政策だと思う。徳川の遺物とばかりに城を破壊し、寺院を打ちこわし、寺の仏像はじめ文物をおろそかにし、近代化の名のもとに旧習を廃したことなど、今から考えるとまことに愚かなことだった。こうした歴史上の出来事を、「愚かであったな」と反省することは、結構大事なことだと思っている。
まあいい、柏原の巡覧だった。三重塔と本殿拝殿を後にして、いま来た道をまた戻って降りる。降りてからは、織田神社、木の根橋から黎明館、陣屋跡を経て新町の高燈籠から柏原駅に戻った。予定の列車まで40分ほど時間があったので昼食を食べたレストランで一服。わたしは紅茶で一休み、奥方は丹波ロールを注文したが、売り切れと言われてアップルパイとコーヒーで列車到着までゆったりまったり。あのご主人のお手製ケーキが売り切れとは、食べようと思った奥方は残念そうではあったが、まず結構なことではないか。こうしたことが積み重ねられてこそ、地方創成が実質化するというわけなんだろうな。
帰路の列車は大阪行だったので宝塚駅で学研都市線に乗り換えて大住まで戻った。大住7時過ぎだったので、近くのタイ料理店に寄って、ビールで乾杯とあいなった。昨年は墓参に行けなかったが、今回もよい村岡行きとなった。 2024年10月6日 記