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40 高山謙介-『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち

40 高山謙介(佐々木到一)
高山謙介は『月刊満洲』康德6(1939)年2月号に「十年前の廣東」、同年6月号に「戰と人間」、10月号に「縦隊追擊の一日」、康徳12(1945)年5月号には「ずゐかん・さんだい」などを書いている。高山謙介は佐々木到一の筆名である。以下、佐々木と書く。
佐々木は明治19(1886)年愛媛県松山市生まれ、広島市で育ったためよく広島県人と言われるが本人は「若狭人」と自任している。陸軍の軍人で陸軍中将、支那通であった。
陸軍士官学校を卒業後明治44年には満洲守備についた。その後の大正元年には陸軍大学校を受験、初審試験には合格するも再審試験で不合格、大正3年に合格する。大正5年には勲六等瑞宝章を受章。外国語は中国語を選択し中国事情を主として勉学したが本業の軍事学は不熱心であったという。大正6年に卒業。青島守備軍陸軍部付を拝命。ここでの地理資源調査の仕事が後年の任務に大きく役立った。
大正8年10月シベリア派遣軍司令部付となる。シベリア派遣軍として赴任するためウラジオストックに上陸し参謀室に顔を出したがその時の参謀は河本大作少佐であった(佐々木到一『ある軍人の自伝』普通社 昭和38年)。なお河本大作も『月刊満洲』に寄稿している。
大正10年12月参謀本部部員、11年8月広東駐在武官となった。ここで孫文に会い蒋介石を紹介される。そんなことから国民党の事情にも明るくなり「国民党通」となる。蒋介石がモスクワから帰り、軍官学校を開設するにあたって何応欽から日本士官学校の教科書を取り寄せる相談を受け、また沙面唯一の洋服屋が制服デザインの注文を受けたことから佐々木に相談、詰襟と開襟のデザインを考えて提出した。詰襟の方が選ばれたのだが、これがいわゆる中山服つまり人民服と言われるものであった。
大正13年8月広東を去ることとなる。孫文はじめ李烈鈞ら多くの国民党関係者が送別会を開いてくれた。内地に帰り大川周明の主宰する会で講演する機会があったが、このとき佐々木が孫文を「孫先生」と言ったことに対し、「馬鹿なことを言うな」と大川に批判される。それに対して佐々木は、「知らない者は黙れ」と応酬したのだという。これ以降佐々木は大川と親交を持つようになった。
大正13年8月、参謀本部第二部第六課地誌班長となり陸軍大学の教官も兼務した。11月特別大演習、続いて対抗演習が豊橋・岡崎で開催され審判官を務めた。この時の審判官長は永田鉄山中佐であった。大正14年3月孫文が北京で死去、佐々木も病床の孫文に寄り添った。
大正15年8月北京駐在日本公使館付武官補佐官。昭和2年2月南京に移駐を命じられ4月上海に到着、ここで南京事件を観望する。南京事件とは北伐途上の昭和2年3月国民革命軍の南京占領時に引き起こされた日米英の領事館や居留民の殺害・暴行・略奪事件である。4月下旬には蒋介石の使いがやってきて南京で会見。昭和2年12月中国在勤のまま参謀本部付。昭和3年3月国民革命軍の実力を実見しようと第二次北伐軍に従軍した。
昭和3年4月のある日、水野梅曉が訪問、田中首相から蒋介石への伝言があるというので蒋介石と水野と佐々木との三人の会見に立ち会った。田中首相の伝言は、「国民革命軍の北京入城に賛成する、日本は出兵しない」との旨であった。佐々木は自伝に、「水野如き無責任の輩に、一国の首相ともあろうものが漏らすはずはないと思われた」が、その時には水野が断言したことから不審に思ったものの確かめることもせず残念であったと記されてある。実際4月末には第二次山東出兵は行われており、この水野の伝言の信憑性も疑われる。
昭和3年5月には済南事件に遭遇し佐々木は半死に一生を得る。昭和2年の南京事件とこの済南事件は、佐々木にとって深い傷となり、国民党や蒋介石に対する認識を大きく旋回させることとなった。
手記には、昭和3年6月4日に奉天郊外で起こった張作霖爆死事件について、これは佐々木が河本に策を献じて実行に至ったと明かされている。
昭和4年6月には北京郊外に仮安置されていた孫文の遺骸が南京城外の紫金山中腹に移され慰霊式典が開かれた。この式典に頭山満・犬養毅・宮崎龍介らが招待された。水野梅暁も参列しているが、佐々木はこの参列から除外された。
昭和4年8月歩兵第四十六連隊に異動。翌年8月には大佐に昇格し歩兵第十八連隊長となった。昭和7年4月留守第九団参謀長、8月第九師団参謀長、12月関東軍司令部付、そして昭和9年12月には満洲国軍政部最高顧問に補されている。昭和10年2月にはその軍政部から月刊誌『鉄心』が創刊され、佐々木は「新軍建設の指導精神」を寄稿している。創刊号の編輯後記には、1月刊行の予定であったとあるので、佐々木が最高顧問に就任してすぐに刊行に取り掛かったのかもしれない。同年3月少将、昭和12年8月歩兵第三〇旅団長。昭和13年3月中将、8月支那派遣憲兵隊司令官などを歴任した。昭和16年4月予備役。退役後は大連郊外の星ヶ浦に住み、協和会理事を務めた。20年7月現地で招集、第一四九師団長となり満洲に駐在した。
戦後はシベリアに抑留、中国側に引き渡されて撫順戦犯管理所へ。昭和30年に死去した。
この佐々木到一については、戸部良一『日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌』講談社選書メチエ 1999年、田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか 支那通軍人・佐々木 到一の足跡から読み解く』草思社 2014年)に詳しい。
また佐々木家に保存されていた原稿をもとに刊行された『ある軍人の自伝』(普通社 1963年)には橋川文三が解説を書いている。橋川は佐々木の遠縁にあたるという。この解説は追記を付され「佐々木到一という軍人」と改題されている。伝記は普通社の『ある軍人の自伝』を読んだが、橋川の解説は2001年に増補版として刊行された『橋川文三著作集 7』筑摩書房)に拠っている。
このなかで橋川は、佐々木がその後の国民の記憶に残らない理由として「それは、日本国民にとって中国との交渉史に含まれるもっとも痛烈な記憶につながり、もっとも不得手な自省を強いるような思想と生き方を佐々木が象徴しているからであると私は考える」と述べている。さらに橋川は、佐々木が「支那班参謀将校、その他のような政治(・・)・謀略軍人ではなく、むしろ純粋な実践派であった」こと、そしてその実践家という意味は、「彼が実地の意味で中国の地理を知り、国民党とその人物、国民革命の現実を実際に知っており、そこからその思考と判断をひき出した(略)、きわめて律義な意味で実感(・・)と調査(・・)をその行動の基礎にすえた人間だった」と書いている。
佐々木の自伝を読んでみると、確かに佐々木は決して傍観者的研究者ではなく、また見識を持たぬのに中途半端な知識で武力に走るようないわゆる武闘派でも決してなく、敵であれ味方であれ、対象となる組織や人物に深くかかわり判断を下すという橋川の言う「実戦派」であったことがよくわかる。
佐々木は多くの著作を残した。国立国会図書館のサーチに上がる著作を備忘として記しておく。
『広東省ノ自衛団』[出版者不明] 大正13年
『中国国民党の歴史と其解剖』東亜同文会調査編纂部 大正15年4月
『支那陸軍改造論』行地社出版部 昭和2年2月
『南方革命勢力の實相と其の批判』北京 極東新信社 昭和2年4月
『武漢乎南京乎』(高山謙介) 北京 極東新信社 昭和2年8月。
『済南事件の真相, 日露戦役特別任務班の活動』東京講演同好会 昭和3年5月
佐々木到一「済南事件の真相」、松島宗衞「日露戦役特別任務班の活動」
『支那内争戰従軍記』武揚堂書店 昭和6年
『満洲国統治上下層日系官吏ノ組織化ニ就テ論ス』[出版者不明] 昭和8年
『国民党及蒋介石ノ回顧』[出版者不明] 昭和8年
『満洲統治私見』[出版者不明] 昭和8年
『満洲統治ノ深憂』[出版者不明] 昭和9年
『満洲治安現状ニ対スル悲観スヘキ事態ニ就テ』[出版者不明] 昭和9年
『大陸政策更新ノ必要ヲ論ス』[出版者不明] 昭和10
『満洲帝國の治安問題』軍政部顧問部編 [出版者不明] 昭和10年6月序
『私は支那を斯く見る』満洲雑誌社 康徳9(昭和17年)
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註1)西谷喜太郎のこと
なおわたしが京都府立図書館経由で借りて読んだ『ある軍人の自伝』(中国新書 昭和38年)は京都市立醍醐中央図書館の蔵書で、背に「西谷喜太郎文庫」とあった。この西谷喜太郎文庫については、平成13年5月に京都市立中央図書館から『西谷喜太郎文庫目録』が刊行されている。目録の「序」によると、西谷は東京帝大文学部教育学科を卒業し渡満、熱河省職員を経て、戦後は日本道路公団、高速道路計算センター社長、西日本ハイウエイパトロール社長などを歴任。平成6年3月18日に死去した、とある。
西谷には『西谷喜太郎論集』という著作も刊行されていて、これは西谷が亡くなっての一周忌に合わせ、西谷が書き溜めていた論考や講演などをまとめて平成7年3月に刊行したものである。ここにもう少し詳しい「略歴」が出ているのでそれをここに記しておきたい。
西谷は大正6年京都府峰山町の生まれ。同志社中学、第三高等学校文化乙類から東京帝国大学文学部に進み、教育学科を昭和16年3月に卒業した。同年4月には満洲に渡り、満洲国熱河省隆化県属経済股長、昭和17年3月熱河省地方職員訓練所教官。昭和18年4月には新京王道書院講師、翌年1月教授兼総務科長になっている。終戦の昭和20年8月まで勤務した。
戦後は昭和22年6月峰山高等女学校講師嘱託、23年6月京都府、26年2月大阪府勤務。大阪府地方労働委員会事務局調整第一課長心得を経て昭和32年9月日本道路公団に移り、京阪調査事務所調査役などを歴任。昭和48年理事となり昭和51年6月に退職。その後高速道路計算センター社長、西日本ハイウエイパトロール社長、退任後は会長、顧問を務めた。
論集の「あとがき」によれば、西谷が亡くなったあと二つの課題が残ったという。ひとつは生前収集した2万冊におよぶ蔵書の処遇であり、もうひとつは西谷が生涯にわたって書き残した文章を集めて論文集を刊行することであった。
前者については、遺族の意志や友人らの尽力で京都市立中央図書館に寄贈されることとなり先に述べたように目録も刊行されている。蔵書は現在京都市立醍醐中央図書館に保存されてあるようだ。後者については「西谷喜太郎論集刊行委員会」が組織されて一周忌に合わせて出版の運びとなった。この刊行委員会の会長は元京都大学人文科学研究所教授河野健二が就いた。河野は西谷とは三高時代の同窓であった。題字も河野が書き、また巻頭に「友を喪う」と題して「書を愛でし不屈の男児惜しむ春」の句が掲げられている。河野の想いのこもった句であると思う。
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註2)西谷喜太郎が勤務した王道書院のこと
王道書院については、松浦嘉三郎「王道書院を紹介す」という記事が『大亞細亜』5巻7号 昭和12年7月 に載っていた。著者の松浦は明治29年の生まれ。東亜同文書院に進みのち京都帝国大学文科大学史学科で学んだ。東方文化学院京都研究所の研究員などを経て、満洲国の大同学院教授に就任している。
松浦「王道書院を紹介す」によれば、鄭孝胥(蘇戡(そかん))から王道書院設立の話を聞いたのは昭和11年春ぐらいであったという。そして翌12年春になり、その設立が本格化した。設立資金は、鄭孝胥が「建国功労金」として政府から受け取った公債のうち10万円を寄付してまかなった。松浦によれば、蔡運升・馬冠標・曾恪・太田外世雄・金崎賢らと相談して設立にこぎつけ、理事長に田辺治通を冠したという。5月2日新京の軍人会館で発会式、6月1日に東五馬路の鄭孝胥公館で開講の運びとなった。書院では「講書」が重んじられ、「大学」や「春秋」「孟子」などが講じられた。
西谷が王道書院の講師に就いたのは昭和18年4月、教授に昇進したのが市19年1月ということなので、開講してずいぶんのちのことになる。
2024年6月21日 記、2024年7月20日改稿