ブログ・エッセイ
38 中村孝二郎、39 松本豊三,『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
38 中村孝二郎
中村孝二郎は満洲拓殖理事の肩書で、『月刊満洲』康徳6(1939、昭和14)年9月号に「「土と戦ふ」を読む」を書いている。これは同年に刊行された「開拓文庫」の一冊『土と戦ふ 滿洲建設勤勞奉仕隊漫画現地報告』(大陸建設社 昭和14年)の書評である。中村はこの「土と戦ふ」を原稿の段階で読んだと書いている。
中村は明治23年の生まれで東京都出身。大正4年に東京帝大農学科を卒業し農商務省嘱託・住友合資倉庫勤務、のちに穀物商を営み、東洋畜産興行専務・京城家畜会社常務・満洲拓殖理事で事業部長・経理部長などを歴任した。康徳9(1942)年12月には開拓研究所研究官・研究所副所長。満洲農業移民事業にかかわってきた。著書に『満洲集団移住地の展望 生ひ立ちより現況まで』(満洲移住協会 昭和11年、肩書は満洲拓殖事業部長)、「移民の父東宮さん」(『鉄心』昭和13年)。
戦後は引き揚げ翌年の昭和22年4月、満洲引揚げの開拓者とともに開拓自興会として北海道の標茶村(しべちゃむら)に入り、財団法人根釧地区開発協会を設立した。ただこの開発協会設立の手続きには、戦前の満洲拓殖理事などの前職のこともあり名前を出さない方がよいと農林省当局から注意を受けたのだという。中村はこの設立の半年ほどたって公職追放令になっている。入植した標茶村から依頼を受けて民生委員になったが、 この委員も指定公職になったことから辞任した。のち村の教育委員に当選している。昭和25年3月には黄綬褒章を受章(「黄綬褒章を拝受する 」『国際農友 (10)』日本国際農友会 昭和25年9月、ここに著者65歳の時の写真が載る)。のち根釧地区開発事務所標茶所長。
39 松本豊三
『月刊満洲』の昭和12年12月号に「葉書囘答 僕の兵役關係」、昭和13年1月に「僕のニックネーム」、康徳6(1939、昭和14)年3月号に「満洲の宣伝」、同年9月号に「満蒙増資問題と石炭液化の成功」などを書いている。
松本は明治31年兵庫県の出身。大正11年東京帝大経済学科を卒業し神戸又新日報社整理部長・社会部長・編集局長を経て満鉄嘱託・総務部資料課情報係主任・資料課長・総裁室弘報課長などを歴任し昭和15年2月満洲日日新聞社社長、康徳9年1月理事長・協和会参与・満洲新聞協会理事。総裁室弘報課在任中に『支那事變の概貌 (弘報資料 第17號)』(昭和12年10月)、『新生北支の瞥見 (弘報叢書; 第8輯)』(昭和13年6月)を 著作し刊行している
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