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藤川研一、『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち

34 藤川研一
満洲国の大同劇団を主宰する藤川研一は『月刊満洲』康德12年5月号に「満洲移動演劇襍記」を書いている。
藤川が主宰する大同劇団は、武藤富男・紫野少佐・甘粕正彦らのあっせんで、満洲映画協会設立と同じ昭和12年に結成された国策演劇団体である。武藤富男は満洲国法政局参事官のちに国務院弘報処長を務めた人物、報道班紫野少佐。甘粕正彦は協和会理事で後の満映理事長である。
運営は、元築地小劇場の藤川研一、元新協劇団企画部長森斌、楳本捨三らにより行われた。劇団は、関東軍・弘報処・民政部・協和会・満鉄の後援のもとにあったから財政的には保証されていて、人件費などは満洲国民政部厚生司からの補助金で賄われていた。活動としては、新京や満洲国各都市での公演のほか、地方での宣撫工作などの任に当たった。上演の演目は、満洲新聞学芸部長山田清三郎、弘報協会田中總一郎、協和会の板垣守正により審議されたという。満洲国で活躍する翻訳家・文芸評論家の大内隆雄(山口慎一)もそれに協力した(大笹吉雄『日本現代演劇史 昭和船中篇2』白水社 1994年、青木實「大同劇團と大連藝術座」『新天地』1938年12月)。
北村謙次郎『北邊慕情記』によれば、築地小劇場で活動していた藤川は昭和7,8年ごろ、地方巡業の団長として渡満したが、吉林で難に遭って解散の憂き目となった。やむなく新京に戻り寛城子に住んだ。ここで協和会の板垣守正や情報処の磯部秀見、岡田益吉らの声掛けで劇団が結成されたという。この藤川夫妻が住んでいた寛城子の住宅にたまたま北村謙次郎が移り住んだと書いている。 2024年2月25日