ブログ・エッセイ


芦田伸介、森繁久彌、『ほろにがき日々』、満洲電業、新京放送劇団、安東市立図書館、大西源太郎、森繁久彌、町田秀男、北岡文雄、白山芸術学校、田風、鳳久子

芦田伸介『ほろにがき日々』(勁文社 昭和52年)を読んだ。芦田は大学中退後に渡満し、満洲電業の勤務のかたわら新京中央放送劇団に所属し、終戦は安東で迎えた。本書を読んでみると、終戦時芦田は、生活のため安東市立図書館と交渉して図書館から文学書など借り出し貸本屋をやったと出ている。戦後すぐの時期、満洲国の図書館と本の借り出し交渉して貸本屋をやったなどといった話は今まで聞いたこともなく興味を惹かれた。そんなこともあり、芦田の満洲時代の軌跡を『ほろにがき日々』により抜き出してみた。
芦田は大正6年松江市の生まれ。東京外国語学校のマレー語学科に進むも中退、昭和13年4月に船で大連に向かった。この船中で大西源太郎と名乗る男と知り合う。この大西は京都の大学を卒業したのち新京の官吏養成の大同学院に進んで卒業、北満に赴任する前に兵庫へ帰省したその帰路であると自己紹介した。船中で芦田が特高警察に怪しまれて尋問されようとしたとき、大西が、自分は任務を帯びてこの青年を新京の連れて行くところだと言い大同学院の身分証を提示し芦田を助けたのだという。
大連に着いた芦田は、満鉄協和会館で上演されていた大連芸術座のチェーホフ「伯父ワーニャ」を観る。協和会館というのは満鉄本社横の社員倶楽部にあり、1300名収容と広いホールを持つ。一般にも広く開かれ利用されていた。この舞台を観て芦田は、「芝居をやろう! 俺の生涯をかけてやろう!」と決意したのであった。
昭和15年には新京へ移動。満洲電業に勤務し新京放送劇団に所属した。ここには森繁久彌も属していた。昭和16年満洲電業資材課勤務員として東京に出張し11月中旬に新京へもどり、12月の 芸文祭で 亀屋原徳『貝殻島』に出演した。
終戦の年の昭和20年に芦田は安東の関連会社に出向していた。ソ連軍南下後の8月13日には出張で新京にいた。会社からはいそいで安東に戻るようにと言ってきていた。芦田はいそいで新京から安東に向かい8月15日に安東に到着、ここで終戦。
芦田はこの安東で生活のため豆腐屋をやってみるがうまくいかず、考えたすえ、安東市立図書館と交渉し、文学全集・白樺叢書・翻訳物の全集などを借り出し、それをもとにして貸本屋をはじめたのだという。これはまずまずの成功だった。さらに八百屋や炭屋、また僧侶の友人にお供してお布施をもらったりして糊口をしのいだ。
この安東市立図書館は、もと満鉄が沿線附属地に設置した図書館で、昭和12年12月の治外法権撤廃により満洲国に移管となり市立図書館になった。康徳6(1939、昭和14)年2月現在の統計では職員数7名、蔵書32,761冊という規模であった。
12月には「日本人民解放同盟」と名乗る機関員が貸本屋にやってきて、芝居をやってくれという。それを引き受けて八路軍の接収した日本料亭で稽古をしていた。ところがそこを八路軍に急襲された。「日本人民解放同盟」というのは、「解放」の名をかたっている国民党の地下組織と通じていた組織であった。芦田は縷々説明し哀訴してようやく解放された。
明けて昭和21年の正月には、延安から「民主聯盟日僑工作隊」が安東に入ってきた。このころ、「日本人解放学校」の生徒で呂と名乗る青年が貸本屋にやってきた。捕虜となった日本人の再教育をする機関にいて明治大正の作家のことを勉強したいのだという。呂青年は、国木田独歩・田山花袋・森鷗外を読んでいきたいと考えたが、その前にまずは夏目漱石を読もうと、「草枕」「わが輩は猫である」「三四郎」を借りていった。あるときには豚肉の塊を持参してくれることもあった。あるとき呂青年は「明暗」を借りて帰ろうとしたので、芦田は、「明暗」は未刊の作品だから「こころ」の方がいいと薦めたのだという。
しばらくして、関東軍の航空中尉で新京放送局員だった町田秀男が来訪してきた。町田は芦田とおなじく新京中央放送局員だった森繁久彌の紹介で知り合った。町田は終戦後にソ連兵に拘束されたが脱出することができて安東に入ってきたのであった。しばらく安東に滞在し、町田は朝鮮系日本人に身をやつして軍服を脱ぎ残し、芦田のシェーバを着て去っていった。
新京の日本人は、食っていくために身の回り品を手放して食料などを求める。貸本屋もずいぶん流行らなくなった。芦田は、日満ビル地下に住んでいた孤児のために紙芝居をするセツルメント活動を考えついた。そこで紙芝居「星とこおろぎ」を書いて、その絵を同じく渡満して安東にいた版画家の北岡文雄に絵を頼んだ。
この北岡文雄は大正7年、東京の生まれ、東京美術学校油絵科を卒業後、母校の暁星小学校の教員になるも昭和17年に退職、昭和20年1月になり、招かれて新京の東北アジア文化振興会に赴任した。7月に現地で召集を受けたが終戦により哈爾浜で除隊、哈爾浜から一か月半をかけて京子夫人が疎開していた安東に向かう。そしてようやく再会することができ、この安東で芦田夫妻に出会い、芦田の紙芝居や移動演劇の活動を手伝うこととなったというわけである。北岡は東京美術学校時代に中国から留学してきていた田風と安東の白山芸術学校で再会するのだが、北岡はここで中国木版の影響を大きく受けたとされる。北岡が引き揚げたのは昭和21年10月、葫蘆島からであった(「東京文化財研究所」ホームページ、「北岡文雄制作ノート」『北岡文雄版画作品集』美術出版社 1986年、本書に1985年制作「楽屋の芦田伸介」が載る)。
芦田だが、日満ビル地下で紙芝居をやったその夜に逮捕されてしまう。誰かの密告であった。セツルメントで使った紙芝居の道具は、戦前に国民学校で使ったものであったが、不覚にも日の丸を消すのを忘れてしまっていた。さらにどういうわけか、町田少尉が脱ぎ残していった軍服も証拠品として押収されている。これは助からない、収用所送りは免れまいと考えていたが、翌朝になり、貸本屋に日本文学の本を刈りに来ていた呂青年が顔をのぞかせ、その口利きのおかげで釈放されることになった。
釈放されてすぐの1月21日長女が生まれた。貸し本業も振るわず思案していた3月、「東北民主連盟」工作員と称する日本人が訪ねてきて、安東に芸術学校を創設するので演劇の講師にならないかと言う。北岡文雄に相談の上、その白山芸術学校の面接に行ってみることにした。学校は元の協和会館ビルに設置されていた。先に少し述べたように、ここで北岡は、上野の美術学校で同級であった田風と再会した。田風は、大学での四年次への進級の前にして中国に戻り、抗日戦争を戦っていた。
面接の結果、北岡が美術、芦田夫人の明子がピアノ、芦田がリアリズム演劇論を担当することとなった。ところが6月下旬になり、劣勢となった東北民主連軍は安東から撤兵することを聞かされる。そして、芦田たち日本人は、民主連軍と同道するか、学校とともに山東省に撤退するか、国府地区に逃れるかの決断をしなくてはならなくなった。思案の結果、芦田は途中まで民主連軍の列車に乗り、安東と本渓湖の境の連山関まで行くこととした。そこから奉天までは歩いて逃れることを決断したのである。総勢130名 での移動であった。
昭和21年7月1日、田風と別れの挨拶をして脱出が始まる。見送りには呂青年の姿もあった。連山関まで行く予定だったが列車は国民軍に破壊された鉄橋を渡ることができずに途中で下車せざるを得なった。あとは徒歩で進んでいくほかない。歩いて鳳凰城・鶏冠山・連山関そして本渓湖・奉天へと向かった。
ようやく奉天(瀋陽)にたどり着く。昭和21年7月31日のことであった。奉天には、20万人ほどともいわれたいわゆる日僑俘が、5月に開始された日本への移送により徐々にその数を減らしていた。安東を出発したあと、先発隊と二隊に分かれた時に先発隊の責任者から教えられていた萩町の満鉄関係のビルなどというのはまったくの嘘で、その建物などはない。途方に暮れて近くある収用所の平安小学校に入った。ここにたどり着くまでにもずいぶん道に迷った。平安小学校は朝日広場の西、千代田公園にほど近い場所にあった小学校である。
しばらくして、この収用所のなかに安東で八路軍の芝居をやっていた者が紛れ込んでいるとのうわさが立ち始めた。それに合わせてコレラに罹患した者が出たことも重なって収容所は封鎖されてしまった。芦田は、明子夫人と娘の亜子、それと二人の班員で脱出を強行する。そしてなんとか脱出することに成功したのであった。
街角で、「遼寧芸術協会工作隊 鳳久子公演 平安座」の張り紙を目にした。鳳とは新京にいたころ旧知の仲だった。舞踊団を主宰し演出も手掛ける舞踊家である。そんなことから平安座の楽屋を訪ねてみることにした。すると鳳から、森繁ともども心配していたと言われ、宿舎の瀋陽館に来るように勧められた。そして芦田は鳳の芸術工作隊の一員となったのである。
ある日、奉天の街なかで安東の白山芸術学校での教え子たちにばったりと出会う。彼らから、平安ビルの三階に行って蔡中佐に会うよう勧められた。言われるままに出向いてみるとそこにいた蔡という男は、渡満するときに船中で芦田を特高の調べから救ってくれた大西源太郎であった。大同学院を卒業して北満に赴任した大西は、副県長などを務めて終戦、南下したソ連軍と戦って同僚の多くは亡くなった。妻子もなくした。大西は妻子が眠っているこの満洲の地を離れられず、いまは国民軍の一員で中佐であるという。まことに奇遇であった。
芦田は大西に家族の引き揚げ依頼をした。そして平安小学校にいる他の班員たちの引き揚げもあわせて願い出た。奉天で力を持っていた大西の計らいで、明後日奉天を出発する病院大隊の引き揚げに芦田たち一行も入ることができ、芦田らは奉天から葫蘆島に向かうこととなった。葫蘆島で一週間ほど待機ののち乗船命令が出て一行は日赤の看護婦らに助けられて病院船に乗り込むことができた。昭和21年11月のことである。
芦田の回想記には、船が桟橋を離れるとき隣に立っていた男が、「満洲帝国のバカヤロ」と叫んでいたという。ここまでわたしは満洲に残された芸人らの引き揚げのことを書いてきたが、そういえば坂野比呂志も、「バカ野郎!もう二度とこんなところへ来るもんか」と叫んだというし、三遊亭圓生も「大連の馬鹿野郎ツ」とどなり、「もう二度とふたたび来ねえ」と言い放ったという。満洲から引き揚げた多くの人たちの偽らない気持であったのだろう。こうして芦田伸介・明子・亜子は佐世保に帰還することができたのである。
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ちなみに芦田伸介については、『(満洲電業)会員名簿』(満洲電業会1965年および、1969年)に、「芦田伸介 劇団民芸」とあり新宿区市ヶ谷の住所が示されてある。
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芦田は慰問団として満洲に渡ったのではない。昭和13年に渡満し、満洲電業に務めながら新京放送劇団に属して演劇活動を行ない、終戦により満洲に残された演劇人である。それも、新京や奉天・大連などではなく、満鉄沿線の一地方都市安東で終戦を迎えた人物である。
芦田ならずとも、こうして満洲や上海・北京で終戦を迎えて現地に取り残され、引き揚げてきた人たちは、だれもが苦難を越え、時に偶然が味方となり、日本の地を踏んだ人たちであると言ってよい。芦田のこの回想を読んでも、そのことを強く実感する。
そしてもう一つ考えることは、この芦田と満洲の地で出会った人たちのことである。例えば森繁久彌や北岡文雄・鳳久子、かれらはいまでも資料などで名を目にすることができる。しかしながら、ほかにも芦田が満洲の地で出会った人たちは数多くいる。かれらはその後に一体どのような生涯を送ったのであろうか。たとえば大同学院を卒業し北満地域に赴任して終戦を迎え妻子の眠る満洲の留まるという決意をした大西源太郎、不明にしてわたしは大西のその後の消息は知らない。
日本に帰還した人たち、中国に残った人たち、また中国人でその後に八路軍に入った人たち、国民軍に向かった人たち、かれらはみなそれぞれに生きて、それぞれの一生を終えたのであろう。そうしたひとたちにどこまで思いを深めることができるだろうか。感慨をもっていろいろと考えてしまう。 2024年2月1日 記。