ブログ・エッセイ
ノルディックウオーク、ストック、畑、坐骨神経痛、
もうずいぶん前のことになるが、ノルディックウオークが話題になったことがある。歩くとき、腰にかかる負担を両腕にも分散できると言われ、坐骨神経痛からくる腰痛を抱えていたわたしは、さっそくこれに飛びつき、畑に行くときにはこのストックをついて出かけることにしてきた。
一昨日のこと、畑からの帰り道、いつものように大住駅の方に向けてストックをつきながら農道を歩いて帰っていた。すると前方から軽トラックがやってくる。この農道では、歩行者ともすれ違うことができないので、わたしは道の脇によけて待機した。
すれ違う時に、この軽トラを運転していた人がわざわざ車を停め窓を開けて、「すんませんなあ」と挨拶をした。これは驚くことも意外なこともない、まずいつもの挨拶である。
わたしの住んでいる住宅地は昭和50年代に開かれ、団塊の世代が多く移り住んできているから、いまや、右も左も老人ばかりだ。早朝や夕方はウオーキング老人が数多く繰り出し、朝の6時ごろは、さながら大住銀座だ。ここでは知らない人でも挨拶をする。だからこの軽トラおじさんの挨拶は不思議なことではない。
だが、この運転の人、「こんにちは、いつも頑張ったはるなあ、気いつけてな」と続けておっしゃったのだった。
わたしより少し若い人だった。軽トラだったし、身なりからしても畑か田んぼをやってる様子だ。でも見覚えがない人である。顔を覚えられないわたしだが、どうもしらない人である。声をかけてもらうことは嫌なことではない。わたしが道を譲ったわけだから、軽トラ運転の人が挨拶をすることは不思議ではない。
でも今回の、「いつも頑張ったはるなあ、気いつけてな」のあいさつには、どうも何かひっかかるものがある。「いたわられてるな」という感じが強く読み取れてしまうのだ。それも思いのほかに。
この挨拶のあと、家に着くまでの間に、ストックを突き突き歩き帰りながら考えてみた。そうか、わたしがノルディックウオークのストックを突いて歩いている姿は、いささか痛々しくて、へろへろ気味で、いたわりの言葉をかけざるを得ないような、そんな雰囲気の歩き方なんだな、と思い当たった。十分老人だしなあ。
ここで、むなしいことかもしれぬが少し言い訳をしてみる。わたしの家は丘陵地にある。だから帰路は坂なのである。この坂をストック突きつつ、力を腕にも分散させて、よいしょ、コラショと歩いている。それは、いわば「漕いであがる」という風情である。そして言い訳に加えて少し見栄を張ってみると、背中のリュックには、白菜や人参などの収穫物が入っているのである。言ってみれば、播但線のディーゼル列車が乗客を乗せて、生野の峠を越えるように、あえいで坂を登っているのである。
いや、やはりそれはむなしい言い訳、つまらぬ見栄に過ぎない。
ノルディックウオークのストックを買った時期からはとうに10年は経っている。衰えたんだな、体力もなくなってきたんだな、と思い当たる。ストックを買ったときはまだもう少しばかり颯爽と歩いていたに違いない。繰り返すが、あれから10年も経過している。そうか、だから軽トラ運転の人が、わざわざ車を停めて、窓を開けて、「頑張っているな」「気をつけてな」といたわってくれたんだ。
やはりここは素直に、「ありがとうございまーーす」と心からの感謝の返事をすべきだった。もう少し素直にやっていった方が気持ちも楽なんだろうなと、ひたすら反省をしている今日この頃である。 2024年1月28日 記