ブログ・エッセイ


山口玄洞、壽安、尾道、浄泉寺、西国寺、浄土寺、わらび餅、山陽新幹線、前方車窓、在来線

1月13日土曜日、昨年からの懸案だった尾道にある山口玄洞の墓所に詣でてきた。
玄洞は昭和12年1月9日、京都御車通の邸宅で亡くなっている。葬儀は17日に大徳寺法堂で執り行われ、2月26日大徳寺塔頭で専門道場の龍翔寺の山口家墓所に葬られた。また尾道の西国寺墓所にも分骨されて祀られている。
この玄洞は第四代にあたる。初代玄洞から三代までは、尾道の浄土真宗本願寺派浄泉寺墓地に祀られてある。今回はその浄泉寺の「山口家墓地」へお参りに行くことが第一の目的だった。
ところでいまここで「初代から三代まで」と書いたが、実は初代玄洞(義政、号は順的)の墓碑はまだ確認できていない。浄泉寺の過去帳は戦災で焼けたと聞いていて、この初代の墓所は確実ではない。ただ二代義光(諡は隋証)・三代義則(号壽安、諡は輝徳)はともに浄泉寺で墓石を確認することができていて、こうしたことから考えると、初代玄洞もこの墓地に祀られているのは間違いないと思っている。
浄泉寺の山口家墓地の墓碑は全部で12基で正面には三基が建っている。正面左が二代玄洞の義光で「釋隋証(進士か)」、正面右が即証進士 妙証信女、右側の正面から四基目が三代玄洞義政(壽安)で、「法名釋輝徳進士 享年四十有余」とある。この壽安が今回わたしが調べている四代玄洞の父親にあたる。碑文はかろうじて読める状態なのだが、剥落や削れで読めなくなりつつある。尾道市の文化財保護課が進んで拓本などを取っておいてくれるとよいと思うのだが。
大阪や京都では訪碑録の類が編纂されていて、かりに剥落がひどくなって読めなくなったとしても記録だけは残る。だがこの山口家の墓碑のように、寺の記録もなく、碑文なども朽ちるに任せる事態となると後世には残らなくなってしまう。まことに残念なことである。
ところで四代の山口玄洞は、明治36年の尾道帰郷の折に西国寺にも墓所をつくっている。そして玄洞が亡くなった昭和12(1937)年4月には子息の三郎(五代玄洞)が墓域を拡張し、中央に先祖代々の墓石を建て、その左に玄洞の墓碑、右には父壽安の碑を手入れして建立した(『仰景帖』168図「尾道西刻寺内山口家墳墓」)。
この西国寺墓所は正面に三基建っていて、中央の「先祖代々」碑の裏面には、「昭和十二年四月五世山口三郎建之」と彫られてある。右の父親壽安と母親節の墓には、壽安院旭窓輝徳居士、貞節院智秀仁愛大師と彫られてある。左側が四代玄洞の墓碑で、稱禪院玄阿輝洞居士、聞聲院芳室智契大師である。
このように、四代玄洞が、初代から三代玄洞や他の親族の墓碑のある浄泉寺の墓地に入らなかった理由は明らかではないが、玄洞は称名念仏をよくし禅宗の幾人かの僧侶に帰依しまた真言宗・天台宗の寺院に多くの寄進を行なっていること、西国寺の父壽安の墓碑にはあらためて「戒名」がつけられて祀られていることなどを考え合わせてみると、玄洞自身が墓所を選びなおしたのかもしれない。
**
西国寺をあとにして、近くの尾道市立図書館に寄って郷土資料を調べることにした。以前にも調べに来たことはあるのだが、今回もう一度郷土資料のコーナーをみてみると、玄洞の寄附により大正七年九月に創設なった尾道市実業補習学校の後身尾道南高等学校の百周年記念誌の を見つけることができた。
この実業補習学校は、昭和10年9月に尾道市へと正式に移管され尾道市立明徳商業学校となったのだが、戦後になり、GHQの出先教育行政係官から、「明徳」の校名が儒学的で旧弊に過ぎるとされて改称、広島県尾道南高等学校と改称したものである。
図書館で必要な個所をコピーしてもらい、次には、玄洞が大阪に発つ前に、成功の暁には青銅の燈籠を奉納しますと祈願した浄土寺をもう一度訪れて、戦時供出に遭った燈篭の台座なりとも残っていないかと確認に行ってみた。ここも以前に訪問して一度は確かめていたのだがやはり台座のあとかたもなかった。
**
これで調査と撮影の予定をすべて終えて岡山の駅に戻った。1時過ぎになり昼食を取ろうと思ったが駅前は尾道ラーメンの店ばかりめだってどうもうまく見つからない。目に留まって入った甘党の店で、ぜんざいとわらび餅と抹茶のセットで昼食を済ませた。甘党というわけでもないのだが仕方がない。おいしい魚でもと思っていたのだが、致し方ない。
店内には、京都のわらび粉を取り寄せ尾道でわらび餅に仕上げたとある。わたし京都からきているのだが、と思い思い食べていると、入ってくるお客さんは若いカップルばかりだ。後期高齢者のわたしは、恥ずかしいわけではけっしてないのだが、いそいで抹茶をいただいて駅へと戻った次第であった。
**
本日の旅程は日帰り、朝は6時の電車に乗り、往路は奮発して新幹線、午前9時には尾道に着いた。帰路はお楽しみの在来線で帰宅だ。山陽新幹線は、早くてもちろん便利なのだが、トンネルが多くて楽しくない。帰りの電車225系だったかな、この先頭車両の一番前の補助席に陣取って、前方車窓を楽しんだ。
しかしながら、これはいつものことなのだが、何人かが乗ってきて、わたしが楽しんでいる前方車窓の前に立つ人が出てくる。そのご仁も窓から前方を見て楽しむいわば「同好者」であれば私もあきらめがつくのだが、その大多数は、その特等場所で前方の車窓を眺めるでもなく、ただただスマホを見ている。「スマホをみるなら座席に座って見ればいいじゃないか、わざわざそんな「特等席」で打つなよ」、と内心怒りがこみあげてくるのだが、いたしかたない。そんなクレームは通用するはずもない。わたしはむなしく敗北感に打ちのめされつつ、座席を移動して左の窓から景色を眺めながら、眠くなってウトウトと幸せな時間を過ごした、というわけであった。 2024年1月15日 記