ブログ・エッセイ


橋本五作、岡田虎二郎、岡田式静坐法、井上嘉三郎、川崎流三、青木昇、今井俊彦、飯田定次郎、吉田幸祐、常安寺静坐会、互修会、野口百之助、安藤基平

橋本五作と岡田式静座法
『満洲紳士録』に橋本五作の略歴がでており、それと『岡田式静坐の力 第五版』(松邑三松堂 大正六年)、『続 岡田式静坐の力』(松邑三松堂 大正11年)と合わせて橋本の履歴と橋本の静坐法を記してみると次のようになるであろうか。
橋本は明治九年三月山形県米沢の生まれ。山形師範学校入学の折には身体検査で一度は入学不許可になった。東京高等師範学校に進み明治三七年卒業。明治四三年奈良師範学校の教諭となるも明治四五年四月一〇日に休職(官報)して同年東京高等師範学校 専攻科英語科に進み大正三年に修了。専攻科を修了後、大正三年五月三日付けで鳥取県師範学校教諭(官報)となった。その後埼玉師範、奈良師範、長野師範などの教諭、大正7年6月福井高等女学校校長として赴任した(『続 岡田式静坐の力』)。大正九年七月旅順工科学堂教授となり、改称後の旅順工科大学の教授を務めた。静坐や謡曲を趣味にする。住所は旅順市明治町一五である(『満蒙日本人紳士録 昭和四年』)。なお大学では予科教授として英語を担当している(『旅順工科大学一覧 大正一五年四月至大正一六年三月』大正一五年)。
橋本の静坐関連は以下の通りである。橋本は奈良師範で同僚だった岡田の弟井上嘉三郎と太田順治に静坐法を紹介され、奈良師範を退職して進んだ東京高等師範専攻科在学中の明治四五(大正元年)五月、岡田が静坐会を開いていた日暮里の本行寺で入門、九月には個人で指導を受けるようになった。このことについて橋本は、専攻科に入ってから勉学に勤しんだが、それよりもいっそう貴重で根本的なものに出会った。それが岡田式静坐法であったと述べている(橋本五作「岡田式靜坐は余を如何に變化せしめつつあるか」(『教育』大正3年1月、『岡田式静坐の力 第 五版』松邑三松堂 大正六年 に所収)。
この文章が好評だったようで、大正三年一〇月には「再び、岡田式靜坐は余を如何に變化せしめつつあるか」を書いて『教育』**月号に載り、さらに大正五年七月、「三度び、岡田式靜坐は余を如何に變化せしめつつあるか」を長野で執筆している。また「書は心身を以て讀むべし」(大正3年12月執筆)、「吾人の進步すべき機會は目前に在り」(大正四年七月執筆)、「第一義の知識と第二義の知識」(大正四年一〇執筆)、「靈肉者一也」(大正四年一二月執筆)が『因伯教育』に掲載されている。福井高等女学校の校長時代には、「作法に就て(福井高等女學校生徒の爲に)」を書いている。また大正一〇年八月、赴任した旅順工科学堂の教授として、「外部生活と內部生活(旅順工科学堂の生徒の爲に)」を書いている(『續 岡田式静坐の力』松邑三松堂 大正11年 所収)。
さて、橋本が赴任した旅順工科学堂のある旅順は大連と隣接する都市であり、静坐会は満鉄社員も多く住む大連の地でも開催された。また橋本が住んだ旅順では、橋本の赴任前にも、軍医の小川医師が静坐法に熱心で小川を中心とした講話や静坐会も開催されていた。ただ小川が日本赤十字社奉天病院院長に転出したこともあってか衰退したという。
橋本の著書によれば、橋本が赴任後に開いた静坐会でよい成績を上げたのは、関東庁属でのちに関東庁理事官金州民政署庶務課長として転任した旅順在住の川崎流三、同じく旅順在住で金州民政署警務課の青木昇であった。また関東庁学務課長今井俊彦も熱心な道友で、今井は『病中の産物』という小冊子を大正八年一一月に刊行したことがあるという。また大連の薬舗飯田定次郎は大正七年に体調不備となったが、友人の吉田幸祐の勧めで静坐に務め、また大正八年九月天神町常安寺で毎朝静坐会互修会を開催、良い結果を修めた。橋本は大正九年に渡満したのだが、この会にも出席している。鞍山警務支署所となった野口百之助も旅順在住時には熱心に修行した。そして、旅順や大連では静坐会が開かれたものの、旧都奉天には、奉天高等女学校校長の安藤基平や、先の赤十字病院小川院長も在住であった静坐会はまだ持たれていないと残念がっている(「満洲の道友」『續 岡田式静坐の力』)。
この橋本の「満洲の道友」に登場する人物で、旅順・大連での静坐会において「よい成績」を上げたとされる人たちを『満洲紳士録』などにより履歴を示しておく。静坐に関しては、ここまで書いたものと少し重複するがあらためて記しておく。
〈川崎流三〉、明治元年福岡県宗像郡上西郷村の生まれ。東京物理学校を卒業し明治三二年四月台湾総督府土木局に入った。明治三九年一二月になり関東都督府土木課に転任して日露戦争後の旅順・大連の土木関係の復興に従事した。大正一〇年一〇月関東庁理事官として金州民政署の庶務課長として転出、大正一一年二月には普蘭店民政支署長に就任している。また大正一二年三月に満洲土木建築業組合理事長となった。川崎は橋本の静坐会の当初からの参会者で、一年半ほどの間に「抜群の成績を上げた」。体重も増加し顔つきや体つきまで変化したという。
〈青木昇〉は明治一三年福岡県八女郡北山村の生まれ。明治三二年に福岡中学伝習館を卒業し明治三四年に東京私立航海学校、明治三六年には東京私立専習学校を卒業した。明治四五年三月関東都督府巡査、大正五年四月警部補、大正九年一一月関東庁警部、昭和二年六月公主嶺警察署長。趣味は弓道という。数か月の旅順在住時、熱心に坐った。
〈今井俊彦〉は明治一三年に大分県南海部郡佐伯町で生まれた。明治四一年東京帝国大学法科を卒業し日本興行銀行に入行したが翌々年に官界に入り、明治四三年に愛知県試補、香川県や高知県の警視を経て大正五年関東庁嘱託、翌年事務官となり学務課長を歴任したがふたたび嘱託となった。大正一二年には一年間欧米を視察して回っている。今井は『病中の産物』という小冊子を大正八年一一月に刊行した。そこには、自らの心身の在り方を「天真発揮法」と名付け、その実現には岡田式天真発揮法が最良であると述べられてあるという。今井の「静坐に関する我が所見」が橋本前掲書に載っている。旅順静坐会の中心人物となった。大正一四年五月刊の『滿蒙宣傳號 : 日滿通信創刊第五周年記念』(日滿通信社 大阪屋號書店)には関東庁事務官の肩書で「關東州產品輸入稅免除法」を書いている。
〈飯田定次郎〉は大連若狭町の薬舗の主人。渡満したのは明治三六年前後か。大正七年に体調不備となり郷里の長崎に帰ることも考えたが、友人吉田幸祐の勧めで静坐をすることとし、大正八年九月天神町常安寺で毎朝静坐会互修会を開催した。互修会というのは指導者がなくて互いに高めあうという意味であった。静坐のおかげで体調も回復し内地に帰ることもなく、仕事がら薬品を詰めたりして体に異変が生じても坐ることにより大事には至らなかったという。なお履歴の詳細は不明である。
〈野口百之助〉旅順在住時には静坐会で熱心に坐った。のち鞍山警務支署長。
〈安藤基平〉は明治一六年に熊本市新屋敷町で生まれた。明治三八年に東京高等師範学校本科国語漢文科を卒業し鹿児島県立川辺中学、熊本県・神奈川県の師範学校、京都市立高等女学校首席教諭を歴任し大正六年八月に渡満して南満中学堂教諭、大正九年三月に奉天高等女学校校長、昭和五年四月には奉天南満中学堂長となった。安藤は静坐会の道友で、奉天にはほかに赤十字病院の小川医師も在住であったが、奉天に静坐会ができないのは残念であると橋本は述べる(「満洲の道友」『續 岡田式静坐の力』)。安藤の著書としては、『滿洲事變前と事變後』(奉天印刷所 昭和八年)、『諸家王道の研究』(滿洲研究會 昭和一〇年)などがある。
橋本は、『岡田式静坐の力』が出版された大正六年夏ごろから朝鮮にもよく出かけて指導した。時の朝鮮総督府学務局長の関屋貞三郎が静坐法に理解があったことから、京城でも静坐会を開いたのである。第一回は大正六年、第二回が大正八年夏、第三回が大正一〇年三月、第四回が大正一〇年夏、それぞれ四、五〇人ずつを指導している。また釜山・平壌にも三〇人ほどの道友がおり釜山では榛葉孝平土木出張所長が熱心で、平壌では女子高等普通学校長の長谷川*(亀偏に勾)四郎が指導したという(「京城の道友」『續 岡田式静坐の力』)。 2024年1月7日 記