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34 甲斐巳八郎―『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち

34 甲斐巳八郎
甲斐は『月刊満洲』(康徳9年1月号)に、「繪と文 扶餘」を書いている。ほかにこの「繪と文」の欄に文章を寄せているのは、「山と雪 池邊靑李」、「過節 田中文哉」、「滿洲の裏街 駒宮中尉」である。
甲斐は明治36年熊本市川端町に生まれた。父福蔵は華道や狂句を得意とし母ヱチは琴・三味線をたしなんだ。太牟田高等小学校、佐賀県有田工業学校図案絵画科を卒業し京都市立絵画専門学校予科に入学、福田平八郎・菊池契月に師事した。京都ではよく山歩きをしたと言い、それが絵画のテーマとなることも多かった。昭和2年3月に本科を卒業し、7月には中国山西省の雲崗調査隊に参加する。昭和3年3月、福岡県宗像郡宗像中学図画教師となり、昭和5年5月まで勤めた。退職後して渡満、大連近江町に住んでカフェやポスターを描いて生計を立てた。昭和6年8月大連の三越で個展を開催、同年暮れに満鉄社員会報道部に職を得て『協和』の編集局に配属された。昭和7年に三越で開催された黄塵社の展覧会には大連埠頭でスケッチをした「苦力」などを出品している。『協和』をはじめ『観光東亜』『旅行満洲』などにも各地の史跡や人々の生活文化、土俗人形などの素描や写真・文章を書いた。昭和11年ごろには満洲郷土色研究会のメンバーの赤羽末吉・市丸久らとパンブタオ集団を組織し、昭和13年11月には大連の幾久屋ギャラリーで第一回の展覧会を開催。昭和16年には大連社員倶楽部で個展を開催した。満洲国美術展覧会にも出品している。
満洲で終戦を迎え、昭和21年3月に引き揚げた。戦後は非常勤の講師や教室を開きながら絵画制作を行なった。昭和54年5月16日に死去した。葬儀は宗像郡福間町四角の正蓮寺で執り行われた。戒名は等心院釋之友(「年譜」『甲斐巳八郎展 1982・5・5―6・27』福岡市美術館 )。
なお巳八郎の長男大策は昭和12年大連の生まれ。早稲田大学文学部美術科を卒業し、国内外を放浪、アフガニスタンをはじめ各地域の風景や人びとの暮らしを描いた。平成31(2019)年1月に死去、大策の遺作展が6月に福岡市天神の村岡屋ギャラリーで開催されている(甲斐巳八郎 甲斐大策『アジア回廊』石風社 1996年、朝日新聞デジタル記事「アフガンに魅せられた画家、甲斐大策さん遺作展」2019年6月6日)。
また平成8年には、現在の九州国立博物館において、「新国立博物館設置「太宰府」特定記念の展示」として、「アジア回廊-甲斐巳八郎・大策展」が、第一期 九月一四日から一〇月二七日、第二期が平成八年一〇月三〇日から一二月一日まで、太宰府市文化ふれあい館 多目的展示室・多目的ホールで開催されている(太宰府市文化ふれあい館ホームページ「新国立博物館設置「太宰府」特定記念「アジア回廊-甲斐巳八郎・大策」展」、二〇二三年一一月一七日閲覧)。一九九六年に福岡市の石風社から刊行された『アジア回廊』には、甲斐巳八郎・大策親子の絵画・スケッチおよび紀行文が収められている。これをみると、巳八郎がいかに多くの地域を回ってスケッチをしたかがよく理解できる。2023年11月22日記