ブログ・エッセイ


31 中溝新一、32 川村宗嗣、33 坪井與、『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち

31 中溝新一
中溝新一は『月刊満洲』昭和8年7月号に橋本八五郎と「吾らの發兵救護案」、昭和10年1月号には中溝について落葉山人が「中溝新一先生漫傳」を書いている。また昭和11年7月には何人かの共通テーマ「九官のいたづら」、昭和12年1月号には「朝食会発起の弁」を執筆する。
中溝は明治24年東京市麻布区木村町の生まれの児童文学者。父は化粧品会社で出版社「玄文社」も営んだ伊東胡蝶園の社員清一郎である。東京で婦人雑誌や児童雑誌の編集、児童評論の執筆などをおこなう。三歳で亡くした長男のために童話集『豚ちゃんの記録』を出版した。大正9年11月に渡満し、大連新聞社編輯局学芸部長、大陸社嘱託を経て中日文化協会編輯部主事となり中華女子手芸学校講師を兼務している。
洋楽にも造詣深く評論も書いた。詩作も多く作曲が附されたものもある。川柳もよくして号を韻大尉といった。地元大連で子供会を組織して活動写真などの上映もおこなう。常盤小学校訓導青山氏と「満洲子供新聞」の発刊を志ざし、常盤小学校機関誌「コドモ新聞」を発行している。大連ロータリークラブ会員。さらにエスペラントの活動にも熱心で、中日文化協会内に大連エスペラント会を組織して幹事となった。大連青年会幹事、満洲仏教青年会幹事も務めるなど幅広い活動をおこなった(『満洲芸術団の人々』『満蒙日本紳士録』)。
『満蒙』『大連図書館報 書香』『新天地』などにも多く執筆している。『趣味の滿洲』(中日文化協會 1931年)では編者として名前があがる。昭和17年刊行の『小沢太兵衛伝記』(小沢太兵衛顕彰会伝記編纂部編刊)に寄せた「親分小澤太兵衛氏談義」ではその肩書は大連市職業紹介所長とある。昭和46年3月21日歿。

32 川村宗嗣
『月刊満洲』昭和12年4月号に「議会政治と協和会」を書いている。
川村宗嗣は明治23年鶴岡市の生まれ。鶴岡中学から秋田中学に転校し卒業。明治 41年 8 月東亜同文書院に入学の第8期生。卒業後は満鉄に入社し調査課に勤務した。大正6年南満洲製糖会社に転じ、庶務課、土地課長、取締役などを歴任、遼東日報奉天支局長。また満洲国協和会運動に関わり奉天市商務会・奉天市公署実業科顧問。昭和13年春以降新民会幹部として北京在勤。退社して協和会奉天省本部委員兼奉天市本部委員。満蒙畜産会社専務を務める。
昭和15年帰国、中野区に住まい大東文化学院講師。昭和19年1月発行の『大東文化』に「日出と葦原中国の自覚「葦原」語源」を寄稿するがその肩書は大東文化学院教授である。昭和20年に秋田県平鹿郡に疎開。
戦後の昭和26年に秋田敬愛学園高校講師(現国学館高等学校)、『弘道』昭和28年6月号に寄稿しているがその肩書は元大東文化学院教授とでる。川村は中国の時代から中国古鏡に関心を示して収集・研究をも積み重ねてきたが、そのコレクションは、昭和38年秋田美術館で、昭和42年には鶴岡の致道博物館で展観されている。これら収集品は出羽三山神社歴史博物館に寄贈された(「著者略歴」『中国古鏡図説』東北出版企画 1978年)。昭和49年に死去した。
編著に、『支那現行民事法法則』(魯庵記念財団 大正14年)、『中華民国 民・商法-日本民・商法令対照』(東亜同文会調査編纂部 昭和5年)などがある。
なお関東都督府から満鉄に転職した杉本吉五郎と「典」をめぐっての論争が『満洲日日新聞』で繰り広げられたという(西英昭『『臺灣私法』の成立過程-テキストの層位学的分析を中心に』九州大学出版会 2009年)。また西英昭「第5章 大正期における中華民国法学の展開 2東亜同文書院」に川村について言及がある『近代中華民国法制の構築-習慣調査・法典編纂と中国法学』(九州大学出版会 2018年)。

33 坪井與
坪井與は『月刊満洲』昭和12年12月に「滿洲映畫俳優採用試驗漫談」を書いている。
大新京日報記者であった野中進一郎について子息野中雄介がそのホームページで、詳細な伝「日中戦争時代の父・野中進一郎」を書いているが、このなかの「当時の遊び仲間」として「坪井(満映のカメラマン)」もあげられている。
坪井與は明治42年福岡県の生まれ。東京帝国大学の仏文を卒業後に渡満、満洲日日新聞を経て昭和12年満洲映画協会に入社し昭和18年上映部宣伝課長。監督も務めた。当時満映にいた北村謙次郎『北辺慕情記』には、製作課員とある。昭和13年には「万里尋母」を監督・脚本として撮った。新京郊外の寛城子にスタジオと宿舎が出来てそちらに移ったというが、北村謙次郎の回想では、坪井は一軒家に住み、椅子テーブルにベッド、電蓄も備えての暮らしであったという。坪井は、昭和13年2月の『満洲映画』に「座談會 吉林ロケーシヨン漫筆」を書き、同号に坪井らの作品「村の英雄」(仮題)の写真も載る。
戦後は東映取締役(「満洲映画協会の回想『映画史研究』1984年、『満洲紳士録 昭和18年』、野中雄介のホームページ)。