ブログ・エッセイ


山田風太郎、警視庁草紙、明治小説全集、森鷗外、「雁」、西周、佐々布充重

香川県に住んでいる大学時代の友人から、山田風太郎の明治小説が面白いと、ずいぶん前のことだが教えてもらっていた。そのことをふと思い出して『明治小説全集1 警視庁草紙上』を読んでみた。
なるほど、なかなか面白い。明治6年10月の西郷隆盛の下野・帰郷から書き始められるこの小説は、その後の数年間の、いわば維新の「過渡期」を時代背景にして描かれている。そして、この時代の歴史的事実や実在の人物が登場し、それに架空の人物や事件を織り込んで重層的に進められていく。また明治中後期に活躍する文豪や軍人らが、その少年少女時代の姿で、いわば舞台の端っこに配されるなど、虚実を巧みに取り混ぜた見事な構成になっている。
この時代設定は秀逸だ。明治維新という日本近代は、明治元(1868)年に突然におとずれたわけではなく、直接的には幕末のペリー来航が、もっといえば阿蘭陀・中国・朝鮮と交易をしていた江戸時代中期にはすでに胚胎していたといっていい。そのことは、わたしの持ち場としては、江戸時代中後期の読書環境やその手立ての整備といった書誌的営為を例にとって、『江戸の蔵書家たち』のなかに縷々書いてきたつもりだ。江戸時代に育まれてきたこの読書環境や書誌的営為は、明治維新後の変革のなかでも、何年かは、〈江戸時代〉をまだまだ内にはらみながら、行きつ戻りつしながら推移していった。
この山田風太郎の小説も、さまざまな事件を解決していくにあたって、明治維新側の警視庁と、江戸時代側の元南町奉行という二つの中心軸をもとに進められていく。この設定は実に見事だ。事件も人物も、この過渡期といういわば二重性を内包しながら描かれている。どちらかを否定しどちらかを肯定するというわけではない。時代的推移としては敗色の色濃い江戸時代側に少し肩入れして描いてはあるが、これもバランスを崩しているというわけではない。
まだ『警視庁草紙』の上巻と下巻の途中までしか読んではいないのだが、この時代背景が、さきにわたしの刊行した『一番丸船長 一庭啓二の生涯』のそれと近くて興味を惹かれる。
一庭が旧大聖寺藩から委託されて運営した琶湖汽船商社の解散をめぐって、明治四年ごろから繰り返される債権債務関係の交渉など、江戸時代側の旧大聖寺藩と新政府側の金沢県・石川県また大蔵省との交渉が、この二重性を内に含んでいたことを思いながら、山田風太郎のスタンスに共感をもって読むことができた。
一庭の場合、渾身の弁明書を書いて債務関係を決着させたのが明治6年9月だったから、この〈過渡期〉を苦労して生き抜き、その体験を抱えながらその後の人生を送ったことになる。この小説を読んで思いついたことを二つほど書いておきたい。
一つは、「最後の牢奉行」にでてくる少年時代の森林太郎(鷗外)が元伝馬町囚獄所長鳥坂喬記を呼びとめる場面だ。「僕です。西先生のお邸にいた森です。森林太郎」と少年は言う。この少年は、「銘仙の着物に小倉の袴をはき手拭いをたばさみ書物をかかえた一人の書生―書生というにはあまりに若い、まだ十四、五歳の少年」と描き出される。鷗外は文久2(1862)年の生まれだから、伝馬町囚獄が配されて市ヶ谷監獄が設置された明治8(1875)年の出会いならば13歳、その翌年であれば14歳というところか。数えで言えば14、5歳である。
この「西先生」は西周(文政12(1829)年生まれ)で、森家とは親戚筋にあたり、ともに津和野藩の御典医の家柄である。元伝馬町囚獄所長の鳥坂喬記も津和野藩の出身とされている。また、林太郎が鳥坂元所長にあいさつをしたのが、西周の屋敷周辺、罪を犯して入牢していた鳥坂が、火災の折に収監者を焼死させないための牢の解放=「切り放ち」にもかかわらず牢に戻らず、虚無僧に扮して西周邸の近くを徘徊していたところを林太郎少年が声をかけたとの設定になっている。鳥坂も津和野藩出身ということから、西周邸に出入りしており、そこで森林太郎とはかねかよりの顔見知りであったわけである。
ここで、わたしの『一番丸船長 一庭啓二の生涯』との関りで言えば、後年の森鴎外が、西周の養子西紳六郎、福羽美静の養子逸人それに水崎保祐の四人で旧津和野藩主亀井家の家政相談人になっていた明治43(1910)年ごろ、この亀井家に仕えて亀井家の記録を編纂していたのが一庭の娘婿佐々布充重で、鷗外とはその関係で出てくる。
わたしの場合は、ともかく資料に基づいて、といった論述で、脚色もなくエンタテイメント性もないものだが、山田風太郎の『警視庁草紙』は、フィクションの小説ではありながら歴史事象や人物が登場し、そこに虚実を織り交ぜて描かれるから実に面白い。少年時代の森鴎外がこの辺りを歩いていたんだなと、そんなことを思わせるのが、やはり文筆家としての実力というものだろう。
もうひとつは、この虚実取り混ぜ、ということと関連するのだが、歴史上の人物の事績・行状など、どこまでが事実かということである。小説仕立てだから、歴史上の人物にでもなっていれば、少々の脚色はよいと思うのだが、それでも、その行状がよくない登場人物の場合など、どうなのかなと思うこともある。御子孫もおられるであろうし。たとえば作品は異なるが、ずいぶん前に読んだ「柳生忍法帖」、ここでは会津藩二代藩主加藤明成が、暴君としてだけでなく、好色残虐な人物として、これでもかとばかりに描かれる。会津のお家騒動や堀主水側への執拗な追跡などは事実としてあったのであろうが、明成のその異常ともいえる好色ぶり猟奇趣味などはどうなのだろうか。
わたしは小説家でもないし、論述にあたってはできるだけ資料に基づいて書くわけなのだが、また山田と比較するなど大それたことを考えているわけではないのだが、それにしても、一庭の周辺の人物について、「こうだったのではないか」といった推測・憶測ではやはり書けない。石川嶂や堀江八郎兵衛、旧大聖寺藩の重臣らのについて、こんな人物だったのではないだろうかと思うことはあっても、なかなか想像上のこととしては書くことをためらわれる。
拙著『一番丸船長 一庭啓二の生涯』の書評が『図書新聞』2022年1月22日 に載った。おおむね好意的な評価でありがたいことではあるのだが、文末にはこのように書かれてあった。「伝記小説ではないため、一庭の思いについての直接的なセリフの記述が少なく、読んでいてワクワク感を覚えることはあまり多くない」と。うん、その通りである。だがしかし、それは致し方のないことであろう。ないものねだりというものだ。想像も交えてもう少し面白くすることもできたと考えないわけではない。だがしかし、現に御子孫もおられるであろうし、資料の裏付けがない評価は、やはりためらわざるを得ない。
さきの『警視庁草紙』に戻ってみる。下巻の「春愁 雁のゆくえ」には、森林太郎がふたたび登場してくる。林太郎が淡い恋心を持ったと設定されている秋葉原の飴細工商人の娘「お玉」のことについて山田風太郎は、「このいきさつについては、のちに鷗外が書いている」として、「雁」から少し長い引用をもって説明している。
虚実取り混ぜてという手法からすれば、フィクションの部分を限りなく膨らませたうえで、この鷗外の実際の作品から引用することにより、今度はこの「虚」の部分は、出来るだけ「実」に接近させていくという仕組みになっている。なんともはや見事な作りであると感嘆せざるを得ない。 2022年2月27日 記