ブログ・エッセイ


長濱駅、長浜港、慶雲館、浅見又蔵、金ケ崎、ランプ小屋、敦賀鉄道資料館、『越山若水』、『福井県下商工便覧』、『金ケ崎宮絵図』、『越前國敦賀海陸圖』

長浜の巻
2020年1月17日の金曜日、1デイパス 一日乗車券3600円を奮発して、長浜の慶雲館と敦賀の金ケ崎に出かけることとした。昨年同じコースをたどって、「一庭啓二伝」に必要な写真など撮ってきていたのだが、デジカメの写真をパソコンに取り込みに失敗してファイルを壊してしまったことから再度出かけることとした。ファイルが壊れたのは痛手だが、もう一度列車旅ができるから、それはそれで良しとしておこう。
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長浜の慶雲館は、太湖汽船の開業に関与した浅見又蔵が建てたものだ。明治20年明治天皇の還幸の行在所として急遽造作した建物で、のちに小川治兵衛とその子白楊が作庭している。このとき白楊が撮影し刊行した『慶雲館建碑記念写真帖 行幸二十五年』という本が滋賀県立図書館に所蔵されてあり、事前にみにいっていたから、同一地点から新旧の景色が対比できると考え、楽しみにして出かけた。慶雲館の、その二階から、明治時代には眼下に望められた琵琶湖の景色を、わたしも見晴らしてみたいと考えたのである。
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明治天皇の還幸は、大津から長浜までは太湖汽船で渡ったから、浅見は慶雲館を長浜港に建造している。慶雲館の玄関脇には「旧長浜港」の石碑も建っているように、すぐ脇が港であったわけだ。
『慶雲館建碑記念写真帖』には、二階から琵琶湖を望む写真が数葉収められてあり、いまは眼下に琵琶湖が望めないにせよ、わたしも白楊の気分になって湖の方面を眺め、白楊の写真と私のものを並べて本に載せようと夢想し、勇躍慶雲館に向かった。
ちょうどこの時期慶雲館では盆梅展の開催中で、通常の入館料と比べてずいぶん高い。見事な盆梅が並ぶ展示会なのでそれも了として入場、まずは二階にと、勝手知ったる階段を登ろうとしたが、二階は上がれない旨の表示が出ている。あれれと、不安にかられて係の人に尋ねてみると、会期中は二階へは登れないとのこと。来訪の訳を言っても聞き入れてもらえず、やむなく階下から腕をいっぱいに伸ばして琵琶湖方面にデジカメを向けてむなしく撮影。梅目当てではなく行在所としての慶雲館の見学が目的の来訪者もあると思うんだがな。
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今回の慶雲館訪問にはもう一つ目的があって、それは白楊の写真に写っている長浜港湾の鳥居を調べることだった。せっかく来たのに二階からの撮影がうまくいかず、しょんぼりして玄関を出たところ、そこにちょうど、梅の盆栽や苗木を販売している人がいたので、試みにお尋ねしてみた。するとその人は運よく長浜の人らしく、その当時はどうかわからないが、その方面は明治山といって、旌忠塔が建っている場所じゃないかな、と教えてくれた。
気を取り直してこの旌忠塔に出かけてみた。明治山というのは、長浜港に大型蒸気船が着岸できるようにと浚渫した残土を盛ったものらしい。明治山という名称からすると、なるほどそういうことなのだろう。だが旌忠塔自体は大正12年3月の建造なので、白楊の写真に写っているのはこれではない。浚渫工事の前からこのあたりに鳥居や祠があったか、また浚渫の折に創建されたか、どちらかであろう。先代の浅見は明治33年4月に亡くなっているから、小川治兵衛や白楊による作庭も、旌忠塔の建造も、二代目浅見又蔵のしごとということになる。
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慶雲館二階からの写真は撮れなかったが、白楊の写真に写り込んでいる鳥居の来歴も、不十分ながら推測できるところまで到達してよかった。
慶雲館の裏手を歩いてみると、琵琶湖からの入り江のさまもすこし残っており、船なども浮かんでいて、旧長浜港のなごりもうかがえる。白楊が撮影した地点はどのあたりかと探しながら、入り江と慶雲館の写真を撮っていたところ、ちょうど慶雲館横の北陸線踏切を「はくたか」が轟音を響かせて通過、これもよいタイミングだった。 (2020年2月21日 記)

敦賀の巻
長浜を後にして敦賀へと北陸線を北上。当初北陸線は今のルートではなく、金ケ崎・敦賀から疋田、ここから東に向きを変え、刀根・柳ケ瀬トンネルを経て、柳ケ瀬・木之本・長浜へと工事を進めていた。明治15年3月には柳ケ瀬トンネル以外の、金ケ崎―柳ケ瀬トンネル西口間と、柳ケ瀬-長浜間の運行が始まり、明治17年4月、ようやく柳ケ瀬トンネルが完成、全線が開通した。この旧経路には今も刀根トンネル、柳ケ瀬トンネルが残っている。近々行ってみたいと思っている。
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今回はまず金ケ崎港だ。旧金ケ崎驛に設置されてあるランプ小屋をもう一度みて、ランプ小屋の場所が分かる当時の写真(コピー)など再確認、その後いまは線路だけとなった金ケ崎貨物駅の跡の写真を撮って敦賀鉄道資料館へ。この資料館には、汽車が走っていた当時の写真や絵図のコピーがいくつか展示されてありよい勉強になる。備忘のために気になったものをメモしておく。
ランプ小屋
・敦賀市教育委員会とある『越山若水』に、敦賀港に浮かぶ汽船を遠景としてランプ小屋が小さく写っていて、ここに「ランプ小屋 明治40年ごろ」と示されている。原本は、未調査だが、若狭町・越前市にあるようだ。
敦賀鉄道資料館
・二階に港のジオラマ。ここには線路に沿って北から、税関事務検査所・敦賀港駅本屋・北日本汽船代理店大和田回漕部・北日本汽船待合室・(ひとつおいて)桟橋事務室が並んで作られている。
・階下に写真が展示してあり、敦賀港駅本屋など建物の配置は、この写真をもとに作られたのだろうと思われるが、いまのところ、この資料が何かわからない。この写真には、「大正末期~昭和初期港驛舎等風景」と説明がある。
・『福井県下商工便覧』の敦賀の項に「諸國御定宿 敦賀港金ケ崎ステンション前 大黒屋浅田榮助支店」の図版があり、店の前を煙を吐きながら汽車が走っている。
・「金ケ崎駅」(明治39年『金ケ崎宮絵図』)に、金ケ崎宮下を海岸沿いに走る汽車が描かれる。金ケ崎宮の持ち資料と思われるが、どこかに複製でも載っていればいいのだが。
・引札「鈴木市和商店 越前國敦賀港大内町 和洋小間物類…」に、港を走る汽車が描かれる。「原本 北前船の里資料館蔵 個人」とあり、もしかして寄贈か寄託になってはいないかと資料館に照会したが、蔵品ではないとの由。
・ほかに、これはよく見る図版だが、明治14(1881)年9月刊かとされる『越前國敦賀海陸圖』、敦賀市立博物館が1000円で頒けてくれるようだ。
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博物館を管理している女性スタッフにこの旧金ケ崎驛引き込み線のことなどお伺いし、「ぐるっと敦賀周遊バス」に乗って敦賀駅に戻る。2時を過ぎていたが、駅前の「すずや」という、蕎麦もあって海鮮料理もある、わたしなどにはこの上ないお店があって、ここで温かい蕎麦と海鮮どんぶりを戴いた。そして3600円の1デイパスを駆使し、今度は湖西線経由で戻っていった。
そして実はこの日、大阪倶楽部で恒例の日本テレマン協会のコンサートで、サリエリ、ハイドン、ベートーベンの室内楽というもう一つのお楽しみがああった。3600円一日乗車券は、敦賀から大阪へそして自宅の片町線大住駅までも、まったく無駄なく使うことができたのであった。
(2020年2月22日記)