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NEW!! 36 神尾弌春ー『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち

36 神尾弌春ー『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
 神尾弌春は『月刊満洲』昭和13年1月号の「國都新京に博物館設立の可否」へ龍江省次長のとき回答を寄せている。康徳6(1939、昭和14)年9月号に金融合作社理事長の肩書で「満洲語今昔譚」を書いている。
神尾弌春については『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』で事歴を書いた。それをそのまま載せる。
明治26年広島市大手町の生まれ、大正7(1918)年東京帝国大学法学部独法科を卒業、在学中に文官高等試験に合格。福岡県属・山口県大津郡長・山口県理事官・東京府理事官を経て大正15年朝鮮全羅南道警務部長・朝鮮総督府事務官・内務省内務局・学務局学務課長、昭和8(1933)年2月10日満洲国国務院総務庁秘書官、のち秘書処長兼法制局参事官・文教部学務司長、さらに康徳3(1936)年龍江省公署総務庁長、龍江省次長を経て康徳7(1940)年5月には参議府秘書局長。同年5月の満洲国立中央図書館籌備処官制の改正で処長(秘書局長兼任)、また建国大学教授を兼任する(「未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録1」『朝鮮文化研究 3』学習院大学東洋文化研究所 2001年3月)。同年9月1日籌備処委任文官考試委員会委員長(「彙報」『資料戦線』康徳7年9月)、10月1日高等文官考試委員会国立中央図書館籌備処分科会委員長(「彙報」『資料戦線』康徳7年12月)。なお康徳6年11月の満洲図書館協会設立趣意書の発起人(金融合作社理事)となり12月の創立総会では副会長に就任している(総務庁参事官)。この職名は新京金融合作社聯合会副理事長(『満洲文藝年鑑』康徳6年版)。康徳8年11月1日現在参議府秘書局長で中央図書館籌備処処長兼務(『満洲国官吏録 康徳9年』)。康徳9(1942)年2月13日参議府秘書局長を退官し兼任の籌備処処長も退任して文教部嘱託。朝鮮本仏書の収集家でも著名で真珠荘と号した。その蔵書は康徳9 (1942)年5月の『資料公報』に目録が掲載されるが、終戦前に侵攻してきたソ連軍の通信隊に自宅が接収され将校会議室に充当されたために潰えた。その経緯はつぎのとおりであった。ソ連軍将校は接収にあたって必ず蔵書を保存すると約束したのだが下士官が食堂に最適であるとし書架の書物を防空壕に投げ込んだのだという。神尾は壕に入ってリュックに貴重書を拾い出したが降雨のため漢籍は泥まみれとなった。朝鮮本仏書は厚い楮紙に刷られているため被害が少なく無事だった。見張りをつけて監視したが一部盗まれた。それら朝鮮本仏書を馬車一台で新京大広場東の般若寺居士林に寄贈したところ居士林の僧三名がお礼にきて馬車代として金一封を置いていったという(『まぼろしの満洲国』日中出版 1983年)。『まぼろしの満洲国』では、「他方、蔵書家の栄厚氏を会長に仰いで成立した満洲図書館協会の副会長にも、私が推された。同協会は、満鉄調査部の影響を受けて、覇気満々の満鉄図書館人と、愛書家の集りの中国系図書館人と、保存図書館のお守り役然たる関東洲系との集合で、賑やかな集りとなり、国立中央図書館の将来についても示唆を受けた」とそのときの雰囲気を語っている。なお本書には著者の版元への抗議として「日中出版刊行の『まぼろしの満洲国』神尾弌春の成本は、著者神尾弌春の原著と相違することを明にする」との抗議版とも言うべき冊子が「まぼろしの満洲国正誤表」とともに付されていることを付記しておく。
 戦後昭和25(1950)年に弁護士登録。
『さきもり』私家版 昭和3年
『道家論弁牟子理惑論』私家版 昭和6年
『常用漢字表音訓語例の再考を訴える』私家版 1981年
『契丹仏教文化史考』第一書房 1982年
2024年3月2日