ブログ・エッセイ


山口玄洞、台湾臨済護国禅寺、青銅製観音像寄進、臨済宗妙心寺派、得庵玄秀禅師則竹玄敬、玄南、花園大学、霊雲院、玄猷沙弥

この間ずっと、山口玄洞翁の事績とその寄附・寄進先のことを調べている。玄洞は明治15年、大阪の筋違橋あたりに初代の山口商店を開き、その後四代目の店舗を備後町四丁目に構えた。この場所には現在山口玄ビルが建っている。
玄洞は、明治時代後半から昭和12年1月9日に亡くなるまでのあいだ、事業により成してきた私財を惜しげもなく投じて、多くの学校や病院、寺社や寺院に寄附・建設・寄進を行なった。
その玄洞が寄附・寄進をした寺院のひとつに、日本統治下の台湾時代、児玉源太郎により建てられた臨済禅寺への青銅製観音像寄進というのがある。昭和二年一二月のことだが、外地での寺社への寄進はこの一件のみである。
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臨済護国禅寺は、明治44(1911)年に臨済宗妙心寺派の台湾別院として建立された。開山は得庵玄秀禅師である。この得庵玄秀については、則竹玄敬師が書いた小伝『砒礵軒得庵玄秀老大師年譜』および『総禅林僧宝伝第二輯巻之下 台北庁臨済寺得庵禅師伝』(則竹玄敬著 則竹秀南編 則竹秀南刊)があり、それが花園大学に所蔵されていることがわかったので、前職の京都ノートルダム女子大学の図書館に紹介状を書いてもらい、先日閲覧に出かけた。
その日はノートルダム女子大学も含め、他にもいくつか立ち寄る箇所があったため、近鉄新田辺から電車に乗り、地下鉄竹田駅でいったん下車、ここで京都市営の「バス・地下鉄一日乗車券」を購入し、これで交通費の憂いを無くしてまずはノートルダムに向かった。
ここで紹介状をもらって必要な資料を少し閲覧し、ここから花園大学へ向かう。この一日乗車券で西大路御池まで行き、そこから10分ほど歩いた。初めて降りる駅で、また初めて通る道だ。地図でよく見る、また地下鉄やバスの駅名にもなっている「天神川」を越えて花園大学に着いた。校門で守衛さんに図書館の場所を尋ねると、「岡村さんですか」と言われた。ここまで連絡が届いているのだなと少し驚いた。
図書館では資料を用意してくれていて、また親切にしていただいた。担当の女性の司書から、この著者則武玄敬師のご子息秀南師は妙心寺の塔頭霊雲院のご住職でいらっしゃいますよ、と教えていただいた。著作権上図書館では全ページの複写は出来ないから、もし資料の入手がご希望ならここに連絡されたらよいとも。そのとき彼女は、『寺院名鑑』に載っていましたと言われた。インターネットにも出ていますともおっしゃったのだが、この『寺院名鑑』に載っていると言われたことにわたしはいたく感動した。わたしなどが大阪府立図書館の司書の時代に仕事でよく使ったこのレファレンスブック『全国寺院名鑑』の名前を聞いたのがうれしかったのだった。
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この小伝で得庵玄秀禅師の事績を知ることができた。そしてその弟子則竹玄敬師のこともわかった。それによると、秀禅は安政5年稲沢市寺池の生まれ、明治32年12月台湾総督児玉源太郎の特招で台湾に渡り台北市外の剣譚寺に勤めた。明治33年6月、圓山公園に敷地を得て7月には鎮南山護国禅寺建設の用地とし、兒玉の寄附で仮堂舎が成った。その後明治42年春に楼門、43年には庫裏が建てられた。本堂に関してはあらためて建立の寄附が募られ、明治44年に竣工し、翌年落慶法要が営まれている。
この玄秀は大正9年2月29日に亡くなっている。玄洞が銅製聖観音像をこの寺に寄進したのは昭和2年12月のことだから、玄洞は直接玄秀師と面識はなかったであろう。ひょっとしたら、則武玄敬師とどこかで見知っていたのかもしれない。玄洞は禅道にも励み、多くの禅師に師事していたから、そんなことも可能性としてはありそうだ。
則武玄敬は明治36(1903)年、玄秀が再渡台するとき、後に長林寺住職となった玄猷沙弥師とともに台湾に渡り、臨済禅寺建立の補佐員として働いた人物である。そんなことから、玄秀師の事績については、この玄敬が一番よく知っている。ただ、得庵玄秀老師も「無功徳」に徹した人であったことから、事績など記さない方がよいと考えていた。それを、玄敬の子息玄南は、書き残しておかないと何もわからぬままになってしまうと、「再三やかましくいうので」、やっと書き記したという次第であった(玄南「後記」)。こうして書き残されたおかげで、玄秀老師の事績が明らかになったというわけである。このように、「再三やかましくいう」ことで、記述され記録として残されるという事態は得がたく貴重なことで稀有なことでもある。そんなことも、肝に銘じておきたいなと思ったことだった。
ところでこの台湾の臨済禅寺については、平成19(2007)年に本堂(大雄宝殿)および山門が修復されている。先の小伝の「あとがき」(平成20年7月30日)には、その平成20年8月に落慶法要が行われる予定であるとで玄敬師は書いている。予定通りおこなわれたのであろう( 2022年10月22日記)