ブログ・エッセイ


高岡、万葉線、伏木、伏木万葉大橋、念佛寺、菊池租、堀田善衛、武田泰淳、終戦時上海、留用、茅盾、『腐蝕』、陳童君

父親と富山に帰った一番下の孫を、一足先に京都に連れて帰るという〈任務〉を仰せつかったので、7月10日の日曜日、ちょうど今調べている山口玄洞の寄進先である高岡市伏木の念佛寺を訪問することとした。高岡市の路面電車の万葉線で終点の「越の潟」まで乗る、というもう一つの目的をもって、湖西線の在来線快速や普通を乗り継いで高岡に向かった。
高岡駅で路面電車万葉線に乗り換え、一日乗車券を車内で買って、中伏木駅で降りた。橋も見えているので川を渡ればたどり着けるだろうと高をくくって駅に降り立ったのだが、見えているのに橋の入り口までなかなか遠い。しかも、その橋を歩いて渡るための橋途中の歩行者用階段を作るという配慮もなく、車が渡る橋の入り口まで無駄に歩かねばならない。川岸の道から橋に登れる歩行者用の階段を付けておいてくれてもよさそうなものだが、そんなことは一顧だに、されない。車中心の道路設計者の無配慮さ想像力の無さに腹が立つ。
おまけに小矢部川に架かる橋、伏木万葉大橋という床しい名前が付いているのだが、この橋を渡っても、当面の目標地点である氷見線の伏木駅に出られそうなもう一つの橋ねの道もみあたらない。「左 伏木駅」といった、どの町にも普通にある標識もない。どうなっているのだろうか、この町の道路計画は。
万葉大橋を渡ったものの氷見線の線路に出る道が見つからず、橋を降りてからも道なりにだいぶ歩かされて、ようやく線路の方向に曲がる道を見つけた。ここで左折してまた歩く。どうもずいぶん行き過ぎているみたいだ。町の人に、「念佛寺」「伏木神社」にはどう行きますか?と尋ねると、気の毒そうに「あらまあ、あなた」と言って、教えてくれた。
ともあれなんとか念佛寺に到着する。蒸し暑い日でひどく汗をかいてしまった。
**
さて、山口玄洞没後の一周忌に刊行された『稱禪院略記』には、「昭和9年12月富山県伏木光明会念仏道場新築をなす」と出ているだけで、いまの伏木には念仏道場という名前の寺はない。おそらく現在の念佛寺というのがこの念仏道場であろうと予想を立てて出向いてきたのだったが、それは当たっていた。
念仏寺は浄土宗のお寺である。年配の女性のご住職にお話を伺う。そのお話によると、当寺は念佛堂として念仏会や写経会を行なっていたという。光明会としての活動も行っていたのであろう。先代の高木了円師の昭和8年ごろ、念佛寺と寺号を公称し、道場の再興にあたった。この再興にあたって、当時の総代が、各地に念仏道場や寺社の堂塔を寄附・寄進している玄洞のことを知り、念仏道場の寄進を依頼したとのこと、それが受け入れられるところとなり、昭和9年に念仏道場の新築がなされたのだという。高岡の大仏が完成したのもこの頃のことだったとか。
今は念佛寺の本堂になっている玄洞寄進の念仏道場の写真も撮って、とりあえず初期の目的は達した。万葉線の一日乗車券があるので、あの分かりにくかった二つ目の橋を渡って、万葉大橋への道に無理やり出る。そして万葉線中伏木駅まで到達して終点の越の潟まで行った。今回は疲れてここまでにしたが、この越の潟からは富山市側に渡る渡船が出ている。その乗船は次回のお楽しみにしておこう。
越の潟から高岡駅まで万葉線をもどって、あいの風富山鉄道に乗り富山に向かう。新幹線が開通したという理由で、北陸本線という基幹路線も第三セクターへ移管だ。この措置も気に入らない。気に入らないことばかりで、まったく人生幸朗師匠のようになってしまう。富山では、駅前に新しくできたホテルが、オープン記念とかで少し安くなるのでそこに泊まる。
次の日は、本来の目的である孫の連れ帰りだ。この孫は列車好きなので、10時前の高山線特急ひだ8号で岐阜まで出る。キハ85型だとか。岐阜からは普通列車と快速を乗り継いで無事京田辺の家に帰ることができた。
**
ところで先のご住職さんのお話を聞いていて、作家の堀田善衛がこの伏木の出身で近くに堀田家があることを知った。生家は伏木港の北前船の廻船問屋である。
堀田については、『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』を作るときに、菊池租との関連で、終戦時上海での堀田の消息も調べたことがある。菊池は昭和12年、北京近代科学図書館司書の総務主任に就いた人物でその後上海の国際文化振興会の資料室に勤めた。上海で終戦を迎え、戦後は福岡県立図書館の館長を勤めた。詳細はこの『辞書』の「菊池租」と「船津辰一郎」の項目に詳しく書き込んだから繰り返さない。堀田は、終戦の年の昭和20年3月に上海に向かい、国際文化振興会の資料室に勤めたのだが、その資料室に菊池がいて、菊池は堀田の上司に当たることになる。堀田も上海で終戦を迎える。
今回あらためて堀田善衛のことを調べてみた。すると陳童君『堀田善衛の敗戦文学論』(2017年 鼎書房)という本があることがわかり、その資料編に「堀田善衛上海体験重要事項注解・資料集成」と題されたこの時期の詳細な年譜が付されていることを知った。終戦時の堀田の動向を日にちごとに細かく記して、その出典および引用文を付けてくれている。あり難い著作だ。労作だと思う。
ここでは、堀田が菊池のことに言及している事がらで、先のわたしの『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』に書き洩らしたことなど、少し補記しておくことにしたい。
堀田が上海の国際文化振興会上海資料室に行く場面。
「ぼくが上海に行ったのは、一九四五年の三月ですから(略)事務所には、いまはなにをしていらっしゃるかな、福岡の県立図書館の館長さんだった、菊池租さんという方が室長(上海資料室の-筆者注)だったわけで、ぼくはその人の下に入ったわけです」(『対話・私はもう中国を語らない』朝日新聞社)』。
同じく上海行きのこと。
「いま博多の図書館の館長さんをしている菊池租さんという人がその室長とやらというものになって一人だけ行っていたんだ。そしてだれか行くやつがいないかということになっていまして(略)これが、つまり上海に行ったことの事実上の理由ですね」(『文学的立場 9号』1966年)。
また菊池租の上海での仕事についても出ている。『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』の昭和20年11月5日の条。
「菊池氏が中国籍の古本屋(日本堂)の番頭になった。」
堀田が書いている「番頭」というのは、店を任された雇われ店長のようなものなのであろう。日本堂というから、日本語の書物を扱ったり、また上海に残された日本人向けの中国語資料を扱っていた古書店ということか。
そしてまた、菊池租がこの時期に、茅盾の『腐蝕』を訳出していたことを新しく知ることができた。この『腐蝕』は1941年に書かれた作品で、5月から9月まで『週刊生活』に連載されている。戦後の1946年に上海の知識出版社から単行本として出版された。
堀田善衛が日本に引き揚げるとき、自分の買い集めた資料とともに、一足先に引き揚げた武田泰淳の依頼で、武田が収集した資料もあわせてトランク一杯持ち帰ったといい、その中に『腐蝕』も入っていたという(陳童君前掲書)。
この本は堀田の引き揚げ後、武田に渡され、武田から小野忍の手に渡った。それに感動した小野は、この茅盾の『腐蝕』は訳出する価値があると感じたが、終戦間もないことでその全訳の刊行は不可能に近く、当時多くがそうであったようにダイジェスト版として翻訳したものが雑誌に掲載された。
そしてその後の昭和29(1954)年に筑摩書房から刊行することになる。あらためて作品のすべてを翻訳するにあたって、小野は、この『腐蝕』が終戦時に上海にいた菊池租によりすでに訳出されていることを知った。このことを小野は筑摩版『腐蝕』に解説で次にように書いている。
「この作品の翻訳を菊池租(現在福岡県立図書館長)が敗戦後上海で完成していたことがわかった。そのころはもう占領時代も過ぎ、中国から翻訳許可の通知もきていて、とざされていた道が開け始めていた。そこで、たまたまわたしがこの小説の紹介をしたという理由から、適任者とされてその訳稿の加筆をゆだねられた。そういうわけだから、この翻訳はわたしひとりの仕事ではなく、本来共訳として発表すべき性質のものだが、遠慮深い菊池さんの希望によってわたしひとりの名で発表されることになった。菊池さんがこの翻訳を企てたくわしい事情はまだ聞いていないが、敗戦後の上海で、日本人が置かれた困難な状況のなかでこの翻訳を完成された理由の一つは、この小説が日本人にも強く訴える力を持っているからだと考えてさしつかえあるまい。そのもう一つの例証として、やはり敗戦後上海でこの小説を読んだ堀田善衛氏がこの小説の構想を氏の「歯車」のなかに取り入れていることをあげておこう」
と述べている。長い引用になったが、菊池がこの小説を敗戦直後の上海で翻訳していたという事実はあまり知られてもいないことであり、少し長く引用した。
菊池が共訳者として名前を出さなくてよいといった理由を小野は「遠慮深い菊池さんの希望」と言っている。菊池は文学者でもなく昭和23(1948)年には福岡県立図書館の館長として図書館の世界で生きていこうと考えていたと思われる。そんな菊池にしてみれば、もう小野さんの単独の訳業で結構です、と言ったというわけなのである。
菊池はこの茅盾『腐蝕』を、昭和20年11月に古本屋日本堂の「番頭」になった時期に訳出したと思われる。小野が言うように、敗戦後の上海、日本人が困難な状況にあるなか、どのようないきさつでこの翻訳を完成せることになったか、菊池租に尋ねてみたいものである。
2022年7月28日 記、2023年10月16日一部修正