ブログ・エッセイ
家庭菜園、樟葉、橋本、大住ケ丘、大住時子林、大住八河原、大住稲生山、大住西角
上達しない家庭菜園をもう何十年も続けている。大学を卒業する昭和48年のぎりぎり3月に、大阪府立図書館に司書職として決まったから、急に住まいを探すのも難しく、すでに大阪府庁に就職の決まっていた友人が住むことになっていた樟葉の文化住宅に同居させてもらうこととした。この文化住宅には、もう一人同じ時期に大学を卒業した友人が同居にやって来たから三人住まいとなった。ここで三人目の同居人が、枚方市のいわゆる「一坪農園」を申し込んでくれて借りたのが家庭菜園のはじめであった。
わたしは翌年一月に結婚して、京阪電車の隣駅の橋本に移り住んだ。「同居」は九か月、「一坪農園」も数か月のことだった。橋本の文化住宅は、家賃は高くなかったが、いかんせん一日中陽が当たらない。2年ほどいたが、たまらず同じ町内の男山団地に移った。団地は2DK、10階の住まいで日当たり良好だった。しかしながら10階の、いわば「天上の生活」が面白くなくて、なんとか「地上の暮らし」に代わりたいと考えていた。たまたま新聞に小さく、隣町の田辺町大住ケ丘で京都府住宅供給公社が分譲するという記事をみつけて現地に行き、住宅を購入することに決めて転居した。この大住への転居も、あまり深く考えることなく、男山団地に住んでいた友人が先にこの大住ケ丘に引っ越していたという、しごく単純な動機だった。
そして家庭菜園の話だが、先に移り住んでいたこの友人が畑を借りるというので、わたしも一緒させてもらうこととして、家庭菜園を始めたのだった。その場所は、国土地理院の地図で地名を確認してみると、「大住時子林(とこばやし)」という地域のようだ。その西には「大住塔ノ脇(とうのわき)」という地名もある。ここに少し詳しく地名を記したのも、最近になって、この大住界隈の歴史を書いた本を読んで勉強しているからだ。
田辺郷土史会『田辺郷土史 寺社篇』(昭和38年)によると、この辺りには時子庵という寺があった。時子庵は江戸末期に廃寺となり、祀られていた阿弥陀如来像はいまは近くの来迎寺にあるのだという。時子庵の跡は、新聞販売店裏の大きな家の北側あたり、少しこんもりした場所であろうと今の畑仲間は主張する。そう言われてよくみればそれらしく思われる。
この時子庵跡の西200メートルほどのあたりに五重塔と石灯篭があったらしいが、それは盗難に遭ってしまい、今は残ってない。時子庵ではその時代、時子講が組まれていた。それは、毎年一月に、信徒の持ち回りで、海産物を唐櫃に入れ、三宝に載せて行列を組んで仏前に備え、その後に会食をしたのだという。こんな場所で家庭菜園をやっていたなんてことは、当時は思いもよらないことだった。
この借りていた農地は、三年ほどで追い出された。地主にとって、もっとよい条件で借りてくれる借主が見つかったことから追い出されたという次第だった。時子林という場所でいっしょに菜園をやっていた友人は、大住地域では顔が広くて、今度は大住八河原(はちがわら)に空いている土地があると告げてくれた。ここは少し土地も広いので、数人に呼び掛けてまたぞろ家庭菜園を始めた。近くに八小路というバス停があったから、わたしたちは「八小路農園」と呼んでいたが、実際は「八河原」という場所だったらしい。
この「八小路農園」の時期、わたしたちもまだ若くて仕事もあったから、菜園はどうしても文字通りの「日曜菜園」になり、それもあまり熱心に作業をせず、畑地で宴会なぞをやっているものだから、畑は草だらけという始末だ。
わたしはその対処策として果樹を植えることとして、当時四天王寺の夕陽丘図書館に勤めていたことから、帰宅途中で天王寺の「赤松」に寄り、何本かの果樹の苗を買ってきて植えこんだ。果樹園にしてしまおうという魂胆だった。通りすがりの農家のおじさんに、果樹のことなど聞こうと思ったら、そのおじさんに、「そんなことは図書館にいって本を借りて調べればいいじゃないか」といわれて、いささか恥ずかしい思いもした。
ところがそんな矢先、この八小路農園からも立ち退き通告があって、仕方なく退去、すると農地は埋め戻されて貸土地となってしまった。果樹園にしようと果樹を植えたりしたものだから、地主が不安になって退去を通告したのかもしれない。しかたなく植え込んだ果樹の苗木は家に移し替えたものの、多くは枯らしてしまった。
次に移ったのは、JRの線路沿い、「大住稲生山(いないやま)」という場所だ。ここも先の数人で始めた。ここで何年やっただろうか。少しは長く続いたかと思う、しかしながら、ここもある日地主から退去の通告が来た。なんでも、農地を父親から名義変更するとか、近くに児童センターが建つから土地の貸借を清算しておきたいからというのがその理由だと聞いた。そうした理由もあったとは思うのだが、わたしは、菜園家のひとりが「稲生山農園」と書いた木の看板を入り口に勝手に建てたからではないかとひそかに考えている。看板などを建てて貸していると宣言するとなれば、いろいろとまずいのだろう。
ところでこの農園の地域が「大住稲生山」ということは、この仲間の菜園家の看板で初めて知った。「稲生」という地名は全国にありそうだが、由緒のあるなかなかよい名前だと思う。
この「稲生山農園」を立ち退いて、さすらいの家庭菜園家たちは、そのあと、「大住西角(にしかど)」の貸農地に移る。ここが今も続いている場所だ。
この農園は4人で始めた。定年後も楽しくやろうと相談して移ったのだったが、数年たってそのうちの一人が急逝してしまった。やむなくその彼の持分の土地を三人で分けて、まことに不本意ながら、耕地が増えてしまう結果となった。歳をとるばかりで体力が落ちていくのに、農地が増えるのはしんどいのだが仕方がない。
そして、ともあれ定年を迎えたわたしたち三人は、ここで楽しく老後の家庭菜園をやっているというわけなのである。
この「大住西角」の農園の場所は、式内社月読神社の東300メートルほどの場所にある。月読神社の北は、明治時代の大住役場のあったところで、石碑も建っている。農園の北に300メートルほどのところには、大嘗料(だいしょうりょう)という地名を持つ御霊神社がある。御料地から「御霊」と言い慣わされたという神社だ。また府道沿いには明治初期の愛光義塾跡の石碑も建っている。
夕べの5時になると畑に鐘の音が聞こえてくる。それは農園の西500メートルほどにある来迎寺の晩鐘である。来迎寺の近くには天神社(てんじんじゃ、あまつかみのやしろ)もある。その境外末社として諏訪が原に小さいながらも諏訪神社もある。菜園から東の方に300メートルほど歩くと、史跡チコンヂ山古墳、その先には重要文化財の澤井家住宅がある。その隣には天津神社があり境内には末社水分神社がある。そのすぐ近隣には、法華寺・圓照寺・来迎寺が集まって寺町を成している。この来迎寺は先の天神社近くの寺とはまったく別の寺である。
そしてこの南が、はじめに書いた時子庵跡だ。その東側が小高い山があり、大住の庄人が自衛のために築いたとされる山城がある。西田直二郎の本によれば、城山の山頂は平らかで、城濠のあとも残っているそうだ。小高い山で、頂上に登れば木津川や山城大もが一望できそうなのだが、いまは私有地で山裾もだいぶ掘り進められていて、登れそうもない。
このように、いまわたしたちがやっている菜園は、半径500メートルほどのところに、歴史史跡がたくさんあつまっている。図書館で本を借りて読んでみると、この大住の地は。歴史的にも由緒もあり、なかなかの地域であることも分かった。こうして本を読んでいるばかりであると、ますます菜園作業がおろそかになるわけだが、また本で調べて、史跡を歩いてみることにしよう。
2021年2月7日 記
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