ブログ・エッセイ
三遊亭圓生 (6代)、古今亭志ん生 (5代)、森繁久彌、大連、常盤座、連鎖街、逢坂町
昭和二〇年五月、六代目三遊亭圓生(明治三三年生)および五代目古今亭志ん生(明治二三年生)が慰問で満洲に渡り、終戦となって帰国できず大連でしばらく暮らしたという話は、井上ひさしの戯曲「円生と志ん生」「連鎖街のひとびと」の項で少し述べた。
そのひとり圓生の自伝『寄席育ち』(青蛙選書 昭和四〇年、みたのは平成一一年の新版)に「満洲行き」の項があり、ここから二人の満洲での足取りが細かく読み取れるのでそれを少し書き抜いておきたいと思う。また圓生とともに渡満し大連に移動して苦楽を共にした古今亭志ん生の『びんぼう自慢』にも満洲での体験が書かれているので合わせて記しておきたいと思う(『びんぼう自慢』1969年 立風書房、読んだのは2005年の筑摩文庫版)。
大連のかれらの足跡に興味を持つのも、いま、わたしが教員時代に集めた満洲の写真絵葉書のリストを作成していて、大連の部をちょうど作り終えたところで、ちょうどこのなかに二人の足取りに関連する写真も少しあることから、地図を参照しながらそれを追ってみたいと考えたからである。
この「満洲行き」、圓生の言によれば、実は五代目古今亭今輔(明治三一年生まれ)が行く予定だったという。しかしながら今輔の母親が亡くなったことからその代役で圓生が出かけることとなった。日本にいても落語の席はだんだん下火になっており、先行きも不安な状態でもあることから満洲行きを決意したというわけだ。
志ん生の回想では、大空襲で焼け出されたあと、ある興行師から三千円を出すから満洲に行かないかと誘われたとある。その殺し文句が、満洲にはまだ酒がウンとあるから、というものだった。りん夫人や娘は満洲行きを心配するものの、長男清(昭和3年生まれ、のちの十代目金原亭馬生)は、日本にいてもいいことはない、向こうに行けるなら行った方がよいと勧めたのだという。ちなみに次男は三代目古今亭志ん朝で昭和13年生まれである。
慰問や興行は二ヶ月の約束だった(志ん生の『びんぼう自慢』には「ひと月ばかりの予定」とある。この慰問に同道したのは、この古今亭志ん生のほか、講談師国井紫香(明治二七年生)、夫婦漫才の坂野比呂志(明治四四年生)・妻美津子らである。
出発は昭和二〇年三月の予定だったものが延び延びになって五月六日となった。遺骨を抱えたひとばかりの上野駅を、不安な気分になりながら出発し、新潟へ。ここから白山丸で羅津に向かう。
途中船体にひどくぶつかる音がして、「魚雷だ」と叫ぶ者がいた。これは大変なことだと考え、どうせなら飲み納めを、とばかりにカバンから焼酎を取り出してがぶがぶ飲んだと志ん生は書いている。それも実は、救命ボートが外れて船体にぶつかる音だったとわかる。そうこうして無事に羅津に上陸した。そして列車で奉天、その後に新京へ移動した。新京を拠点として、慰問と興行のため各地を回った。軍隊の駐屯地であれば、午前中に慰問、昼食後の午后一時から五時ぐらいまで興行、夜は夜でさらに興行を務めるというハードなものだった。
兵隊相手の慰問だからと、時には乃木大将や東郷元帥の話をしたら受けるだろうと咄し出すも、とたんにシーンとしてしまったこともある。兵隊さんにしてみたら、乃木大将や東郷元帥の話が出て、それをあぐらをかいて笑って聴いているわけにもいかないということのようだった。
約束だった二ヶ月の七月五日、新京にもどっていよいよ帰国という予定だったが、戦況が厳しく船が出る状況ではない。やむなく新京にとどまるものの、渡満の世話をしていた満洲演芸協会(満芸)との契約も切れて思案をしていた。そこに新京中央放送局から声がかかって放送局に引き取ってもらうこととなった。
満芸は昭和一五年の設立で、資本金五〇万円、株主は満映・満洲電電・弘報協会などで、協会長には「支那劇通の前龍江省長趙鵬第が就任する予定という(昭和一五年五月二一日新京特電、『新聞集成昭和編年史 昭和一五年度 二』新聞資料出版 一九九二年)。
新京放送局のしごとで奉天周辺まで出かけて仕事をした。この放送局には森繁久彌がアナウンサーとして入っていた。ある夜の料亭でのこと、放送局の上役の集まる宴席で、圓生と志ん生、それに森繁との三人が順番に話をする猥談会(小噺会)が開かれる。順番に話をするその小噺があまりに面白いので、次の宴席が待っているにもかかわらず上役は一人も動こうとしない。聴衆は増えるばかりで他の宴席が大変なことになったこともあった。
八月になり、二人会と称して円生と志ん生は各地域を巡回した。当初は二ヶ月と言われたが、それは大変なので一ヶ月にしてもらって奉天・本渓湖などを回る。二人会といっても、初めに文化映画を上映し、そのあと二人が落語をやるという会だった。興行先から奉天に戻り、巡回先でもらった酒を飲み、電灯を点けたまますっかりと寝込んでいた。ところが、夜中か朝方にドンドン戸をたたかれて、電気を消してくださいとしきりに言われる。うるせえなと電灯を消してまたそのまま寝入ってしまった。朝起きてみるとソ連軍が南下してきたことが判明したのだという。八月九日朝のことであろうか。この日のうちに大連に行くことになっていたのだが、ソ連軍の南下で列車は出ない。やむなくそのまま奉天ビルに滞在することとなった。
しばらくして満芸の職員が、圓生と志ん生の二人で、大連に行ってくれと切符を持ってきた。大連に行ったってしょうがないと一旦は断ったが、志ん生が、「松っちゃん、なんだぜ、こりアそういう使いが来るってことア、これア大連に行けってえ辻占かもしれねえから、ここにいるより大連に行った方がよくアねえか」と言う。「うウんあたしアどっちでもかまわねえが」ということで、大連に向かうことになった。戦後からの回想ではあるが、まったく落語みたいな決断である。
大連では、日本館という宿屋に泊まっている。そして大連駅の南西に続く連鎖街の常盤座では、八月一二日、一三日と落語を演(や)っている。そのあと大石橋にいくという話だったが当地は危ないと強く止められて大連に留まり、大連西の沙河口で二日ほど興行した。
そして八月一五日を迎えることになる。日本館からは出て行ってくれと言われる。敗戦となり、住宅の困窮者が出ることを見越して、闇の値段で貸そうという持主の魂胆だった。用事で大連の観光協会に出向いたとき、森岡というひとから、困っているなら協会事務所の二階に置いてあげようといわれてここに逗留することとなった。一八日か一九日だったという。大連観光協会刊行の『大連』(昭和一二年)の著作兼発行人の住所が「大連市近江町九十一番地」とあるからここが協会の所在地であるとすれば、西広場から南へ西本願寺につながる近江町の、広場から三筋目ほどの角にあったのかもしれない。いずれにしても大広場からもほど近い繁華な場所である。
大連では八月二二日にソ連軍が進駐するという話で、その前夜の二一日に隣組の組合長の家にてお別れ会をすることとなり、余興に来てくれと頼まれた。出かけて演(や)ろうとすると町会長さんが入ってきて、ちょっと待ってください、皆さんにお別れを、と言って、天皇の写真を持ってきた。そして、ソ連軍が進駐してきてもしも陛下に不敬なことがあるといけないから焼き捨てることにすると言ってこう話しをした。
「陛下のお顔もこれが見納め、どうか皆さんよく奉拝しておいてください。(涙声で)このお写真を焼かなければならんという、なんたることで…」と泣き出したのである。隣組の一同もみなわっと泣きはじめた。そして町会長は圓生に向かって、「実にもったいないが焼き捨てます。さ、君、皆さんをわらわしてくれ」とうながす。圓生は「弱りましたねエ、これア。前でさんざん泣かしちゃって、すぐ笑わせろってね。… 焼き捨てる方はあとにしてくれりゃよかったのにって、志ん生と顔を見合わして、しょうがないから演るには演りましたが、あんな演りにくかったことは、あとにも先にもありませんでした」と書いている。
このことを志ん生も回想しているが、高座に先に上がったのは圓生だったという。「お笑いを一席申し上げます」と型どおりに始めると、お客は「ワーッ」と泣き出してしまう。すこしおいてまたしゃべるとまたワーッとくる。こんなに困った高座は初めてだった、と述べている。
大連の街でも、ソ連兵の略奪や暴行がはびこり、どうしようもなく、商売もできない。そうしていると観光協会の森岡さんが、志ん生と圓生の二人会を協会でやったらどうかと話をもってきた。そこで協会に畳を入れて屏風や毛氈を借り、二席ずつを三時間ほど演った。この回を五日また一週間ずつ、二、三回ほどやったというから、一五日から二〇日ほど約三〇の出し物で演じたことになる。咄のネタは十分に仕入れてあるから二人とも大丈夫だった。
しばらくして滞在していた観光協会も中国人に譲り渡されることとなり、退出しなければならなくなった。とはいえ行く当てもなく、帰国のための密航船が出ると聞きつけては金を払い込み、そしてだまされたりしながら過ごしていた。隣組に出かけては演じて少しの稼ぎを得るそんな毎日である。
別の密航船が出るという話をしてくれた知り合いが、自分も帰国するから、特段持ち帰る荷物がない圓生と志ん生に、荷物の名義を貸してくれという。それじゃと名前を貸して、そのかわりに、船が出るときにここに泊めてくれ、港まで駆けつけるのが大変だから、と交渉し、ようやく観光協会からこの知人宅に移ることができた。ところが船はまた出ないこととなり、この家から退去しなければいけなくなる。やむなく二、三度顔を合わせたことのある長唄の杵屋佐一郎宅に行ったが家が狭くて泊めてもらえない(註)。やむなく荷物だけを預かってもらって、大連の三越に務めていた山田さんという人に相談したところ、志ん生は泊めてもらうこととなり、圓生は川柳仲間を紹介してもらってそこに滞在することができた。
いつまでも居候というわけにもいかず、方々頼んでみて、「大阪町」という遊廓、正しくは逢坂町の遊廓であるが、そこの福助の六畳が空いていると長唄の三味線弾きの六春雄が教えてくれてそこに入った。
註:大連で居候を打診した「長唄の杵屋佐一郎」については詳しいことはわからない。昭和7年9月18日午後のAKの放送で、杵屋佐吉作曲の「肉弾散華」に唄方として出演している。ちなみにこのときの出演者は、唄が杵屋勝五郎・杵屋佐一郎・杵屋佐五郎、三味線が杵屋佐吉・杵屋佐助・杵屋三四郎、囃子は福原百之助・梅屋佐十郎であった(杵屋佐久吉『四世杵屋佐吉研究』糸遊書院 昭和57年)。終戦前に佐一郎が満洲に渡ったのか、どのようにして大連に残されたかについては不明である。
なお長唄の杵屋佐吉の一行は、昭和7年6月上旬に満洲慰問に出発している。昭和7年4月25日付の朝日新聞の記事(「杵屋佐吉さん 長唄報国 満洲へ慰問の旅に」)によれば、かねて長唄の杵屋佐吉は「音楽報国」を信条とし、従来の廓ものを廃して、大楠公・小楠公・日蓮などを題材とした「大和心」の長唄を世に広めてきたが、持ち前の祖国愛から在満兵士の慰問を思い立ち、陸軍省に申し出た。すると陸軍省新聞班の大久保大尉がその誠心に感激して、「北進」「鉄道巡邏兵」「歩哨」「入城式」などの歌詞を書き下ろし、今津如山は「肉弾三勇士」をもとにして「肉弾散華」を書いてくれた。そしてマネージャーの下村清次郎を関東軍司令部に差し向けて交渉した結果、慰問について賛意を得て、6月上旬に満洲への慰問の旅に出た。唄は佐登、佐和子、三味線の佐代、佐枝、佐喜琴、踊りの花柳寿栄弥らを引き連れての慰問であった。回った地域は、奉天・吉林・新京・哈爾浜・斉斉哈爾・錦州などである。ここに佐一郎は同道していないようである(杵屋佐久吉『四世杵屋佐吉研究』糸遊書院 昭和57年)。
このころのはなしであろうか、今年の正月に、「カラーで蘇(よみがえ)る古今亭志ん生」というNHKの番組で、五街道雲助が次のようなエピソードを話していた。大連で志ん生が圓生とカフェの二階で住んでいた時、ソ連兵が階下に来た。圓生が様子を見に行ったがそのまま帰ってこない。どうしたことかと志ん生が見に行ったところ、圓生がソ連兵のダンスの相手をさせられ踊っていたという。どうも落語のオチのような話だが、それに近いようなこともあったのかもしれない。
根っからの博打好きの志ん生は、佐一郎の家で博打をして三千五百円をすってきたり、また台湾人の持ち船で帰れるという話に騙されたりしながら過ごしていた。そして逢坂町の福助にも居られなくなり、大連の大野さんという人に頼み込んで屋根裏部屋のようなところに引っ越した。志ん生とは別に住んだりもしていた。
そして昭和二二年になり、ようやく引き揚げが決まる。今回は間違いなさそうだ。一月二六日には志ん生が先に帰ることになり、約一か月遅れの三月一七日に圓生が帰国の途に就いた。船への乗り込みに時間もなく、「戦(いく)さみたいにして」ようやく乗り込み、タラップがあがって、五分としない間に出航した。船が出てから圓生は、「大連の馬鹿野郎ツ」とどなり、「もう二度とふたたび来ねえ」と言い放ったのだという。
その圓生が諫早の港に着いたのは三月一七日のことであった。こうして、昭和二〇年五月六日に渡満し、二ヶ月の予定だった慰問・興行は、終戦をはさんで一年と十か月に及んだ。まことに思いがけない満洲滞在となったのである。
(2020年10月9日 記、2024年1月8日、2025年1月24日 追記)