ブログ・エッセイ


秋田雨雀、「手榴弾」、竹内仁、先駆座、臼井吉見、『安曇野』

「一庭啓二伝」にかかっていて、三度目を読み始めた臼井吉見『安曇野』も、第3巻で足踏みしていたのだったが、この第3巻も昨日ようやく読み終えた。ところで、この第3巻に、中村屋の相馬家が、家の土蔵につくったという先駆座の話が出てくる。
この先駆座というのは、相馬家二階で秋田雨雀と相馬黒光が開催していた朗読の会をもとに、演劇上演にまで発展したもので、大正12(1923)年4月、第一回上演会が持たれた。そこでは、ストリンドベルヒ「火遊び」と雨雀「手榴弾」が上演されている。
この「手榴弾」は、大正11年、歳の若い許婚者の両親を刺殺し、自分も自死した若き哲学徒竹内仁(たけのうちまさし)の事件をもとに書かれたものである。この観劇会には、島崎藤村や有島武郎も参加して、『安曇野』の作中では、それぞれに論評をしたことになっている。中村屋のホームページをみると、この観劇会は会員制で申込み順、その一番が島崎藤村、二番が有島武郎だったと教えてくれる。
竹内は、大正教養派の代表的文学者阿部次郎の人格主義を痛烈に批判した論文を発表したことでも知られる。この竹内がどのような人物だったのか、またどんな評価なのかと少し興味を持ち、平野謙の全集所載の「竹内仁」を読んでみた。
平野の全集には、昭和39年10月と翌年1月に書かれた二編、そしてその後の昭和47年4月に書かれた一編が収められてあった。後年の評論は、竹内の書簡を引用しながら書かれたもので、前二編に比べて幾分か読みやすく、文学評論が不得手なわたしにも、すこしわかった気がした。
ところで、この平野の文章の中に、先駆座や雨雀の「手榴弾」、そして竹内の一件については、臼井吉見『安曇野』に詳しい経緯が書かれてあるので省略したいと書かれてある。そしてまた、この臼井の論述は、佐々木孝丸『風雪新劇志』に拠っていると述べたうえで、この佐々木の文章からはみ出るデータも採用されていること、とりわけ島崎藤村や有島武郎の先駆座上演への演劇評や感想などについては心当たりがないことから、平野は臼井にその出典を尋ねてみた。そうしたところ、臼井はあっさりと、「あれはフィクションですよ」と、つきはなされたのだという。
『安曇野』のなかの文章として、「雨雀に声をかけられて、羽織袴に白足袋姿の藤村は、手を前で組み、眼鏡を光らせながら、そう言った」と、藤村の長い発言が書かれてある。藤村のあと、有島も雨雀から発言を乞われて論評をしている。
わたしも『安曇野』のこの箇所を読んだとき、藤村や有島の文章のなかになにか出典があってそれを小説に援用したのだなと思った。だが先の臼井の平野への返答を見ると、「フィクション」ということのようだ。
『安曇野』では、有島が発言した内容について、大学生の一人が、「いまの有島先生のお話は、失礼ですが、ご自身に引き寄せ過ぎたきらいがあるように思いますが、いかがですか?…」と雨雀に発言を促している。これもフィクションということなのだろうか。
文学史に詳しい臼井でもあるし、これら藤村や有島、また参会者の発言にはそれぞれ、「裏付け」のようなものはあるのであろう。こうしたことに明るくないわたしにはわからない。だが、「小説」「フィクション」であるとしても、島崎藤村や有島武郎といった著名な小説家の発言を、このように書いていくのは、どうなのかなと思ったりする。
「羽織袴に白足袋姿の藤村」とか、「手を前で組み、眼鏡を光らせながら」というのは叙述としてよいとしても、有島は、「本人は(竹内は)コンミュニストになったつもりでも、生来の気質や育ちのために、かえって自分を滅ぼしてしまった、……僕なぞ身につまされて、思わず涙が出て困った…」とも発言しているのである。
臼井は晩年に『事故のてんまつ』で川端康成のことを取り上げたりもしているが、こうした手法、つまり「あれはフィクションですよ」という、小説と史実との間の取り扱い方が臼井独特の叙述であるということかもしれない。
こうした問題は、学者のあいだでも取りざたされているかもしれない。もうこれ以上は追って行かないつもりだが、国文学者や評論家の臼井吉見論や『安曇野』論もいくつかあるようだし、小説と伝記のあいだを論じた研究もあるようにも思われる。
一庭啓二の生涯を、資料や文書をもとに書き終わったあとだけに、なんだか気になる一こまではあった。 2020年9月13日 記