ブログ・エッセイ
白菜、つぼみ、菜花、おひたし、負け惜しみ
暖かくなった。畑の雑草も思い出したように激しく茂ってきた。そして、冬場の葉物野菜は一気にトウ立ちして花をつけ始めた。そして「待望の」白菜もつぼみを持ってきた。
「待望の」白菜というのは、言うまでもなく負け惜しみである。今冬の白菜は全敗で一つもまともなものは獲れなかった。かろうじて、開いた白菜の頭を無理からくくって、強制的に巻くように仕掛けものが3,4本。お愛想で中の方だけ白い文字通りの白菜になったが、そんなもの一度の湯豆腐で消費してしまう。ともあれ、白菜は言い訳の余地もなく大失敗であった。
だからこそ、つぎのねらい目は、白菜のつぼみを「菜花」として収穫することだ。白菜のつぼみはけっこう大きくて食べ甲斐がある。失敗白菜はおおむね20本ほどもあるので、これで白菜さい栽培もまずまずだったということにしておきたい。
それにしても、頭をくくった「無理から白菜」は、決して白菜とは言えるしろものではないい。固いし「白菜」とは名ばかりの、緑ミドリした白菜
である。仕方がない。失敗したのだからやむを得ない。それでも食べること以外に選択肢はない。
そんな固くて緑の白菜だが、鍋にしても細く切り、煮びたしにしてもクタクタになるまで煮る。けっこう美味しいのだが、どうも栽培して調理するものにとっては、いささか後ろめたい気持ちもぬぐい切れない。
奥方には、「こんなものまで食卓に上げてすまんのう」と言うのだが、そういうと奥方は、「そんな謝られたら、わたしはよっぽどみじめな野菜を食べている気分になるから、もう言うな」という、やさしいというかきびしいというか、そんなお言葉だ。
そうだそうだ。失敗しても旬の野菜を食しているということは幸せなことだ。そして、自分のつくった野菜、栽培過程がよくわかっている野菜、農薬も化学肥料も使っていない野菜、時に虫が入っていたりゴミがくっついた野菜を食べるということは、素晴らしくぜいたくで素敵なものなのだと自分に無理から言い聞かせている早春なのであった。 2025年3月14日 記
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