ブログ・エッセイ
『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 48 筒井俊一、49 関合正明、50大庭さち子
48 筒井俊一
筒井は『月刊満洲』康德12(1945)年5月号(第18巻第5号)に 「長編小説 璦琿城」を書いている。挿絵は今井一郎(既述)である。この『月刊満洲』康德12(1945)年5月号というのがわたしのみることのできた最終号で、奥付の発行人は城島英一、編輯人は工清定である。
筒井俊一は明治42年大阪市の生まれ。東京府立四中を卒業し明治学院高等部英文科で学んだ。税関吏・夜学の講師・新聞記者などを経て昭和13年渡満。満洲日日新聞文化部次長、同新聞こども新聞編集長として新京支社に勤務。満洲文芸家協会委員(川端康成ら編 『満洲国各民族創作選集 第1』(昭和16・康徳8年版 創元社 昭和17年)。なお北村謙次郎『長篇随筆 北辺慕情記』に所収の記事「ふたたび「文話会通信」―後藤和夫と筒井俊一―バイコフ登場―「偉大なる王」」によれば、筒井は満洲日日新聞の記者で昭和15年ごろ大連から新京に移り、後藤和夫理事の励ましで新京の学芸面の充実に力を注いでいたという。北村はバイコフのインタビュー記事をとるため、昭和17年暮れにこの筒井記者を伴ない、哈爾浜の馬家溝のバイコフの家を訪問したと出ている。バイコフは満洲に亡命した白系ロシア人で、『偉大なる王(ワン)』(1936年)などで知られる動物小説の作家である。
戦後のことだが、満洲国弘報処長だった武藤富雄と会ったとき、防空壕で焼け残った小説集を手渡してくれたと明治学院同窓会報10号(昭和38年3月)の「防空壕の中の一冊」で回想しているという(村上文昭「筒井俊一 満州で新進作家となった」『藤村から始まる白銀文学誌』明治学院キリスト教研究所編刊 2011年)。 2025年2月4日 記
49 関合正明
関合(せきあい)正明は画家。『月刊満洲』康德9(昭和17)年12月号(第15卷12號)の「芸文祭素描」に池邊靑李・郡菊夫・斎藤英一らとともに寄稿し、また『月刊満洲』康德11(昭和19)年6月(第17卷第6號)掲載の今川謙「儲蓄小説入選作品 いり豆」の挿絵を担当している。さらに『月刊満洲』康德12(昭和20)年5月号(第18巻第5)の 鈴木總明「当選小説 黒土の薫り」にも挿絵を描いている。
関合正明は、神奈川県立近代美術館の「慈しみのまなざし 関合正明展」(2009年1月4日―3月22日)の解説によると、大正元(1912)年東京の明石町の生まれ。川端画学校で学び27歳で渡満、満洲国文教部嘱託画家として働いた。満洲国美術展覧会で特賞をとったのち、「黄土坡美術協会」の結成にかかわった。北村謙次郎『北辺慕情記』の 「黄土坡美術協会―三人会―ふたたび城島舟礼と同英一―甘粕正彦の横顔」によれば、「黄土坡美術協会」は近藤清治・赤羽末吉・山代象二郎の三人会から発展したものでその命名は城島英一によるものという。
この城島英一は月刊満洲社の城島舟禮の婿養子で旧姓は齋藤である。関合はこの受賞を契機として、白崎海紀・佐竹禹南・境野一之・郡菊男・高田義雄・浜田長正ら洋画家と、先の三人会の赤羽・近藤、それに彫刻の長浜虎雄、客員として甲斐巳八郎が入って黄土坡美術協会が結成した。
関合は終戦後引き揚げて国画会で活動したのだが二年余りで画壇を離れ、挿絵や装丁、個展の開催、随筆などの執筆活動に重きを置いた。満洲時代に知り合った檀一雄と交流があり、その縁で『リツ子・その愛』『リツ子・その死』などの挿画を担当した。
ここでこの檀一雄と関合正明の満洲での出会いについて書いておく。檀は昭和11年8月に坪井與を頼って渡満し満洲各地を回り、満鉄入社が内定していたのだったがこの時は勤めることなく帰国している。その後の昭和15年12月に除隊となりふたたび満洲へ向かう。逸見猶吉の紹介で満洲生活必需品会社弘報科に入いり機関誌『物資と配給』に文章を書いていた。昭和16年には、新京の文人たちが多く住んでいた寛城子に移り住んでいる(沖山明徳「檀一雄年譜」『檀一雄全集 別巻』沖積社 平成4年)。
関合は自身の回想で、二人がはじめて会ったのは終戦の4,5年前といっている。おそらくそれは昭和16年ごろ、この寛城子時代でのことであろう。ここで関合は、とある日、興安大路のレストランで友人の白崎と食事をしていた。そこに黒いソフト帽をかぶった背丈のある男と、小太りの男が入ってきたという。背が高い方が檀一雄でもう一人は逸見猶吉であった。ここで関合は初めて檀を紹介されたわけである(関合正明「檀さんの想い出」『檀一雄全集 別巻』)。
この寛城子に住んでいたころのエピ ソードが檀の回想『青春放浪』(筑摩書房 昭和51年)出ている。寛城子に住んでいた壇が、ロシア人の売りに出していた蜜蜂の巣箱70箱付の家を購入しようかよそうかとその可否を聞きまわったとのくだりがあり、そこに関合の名前は上がらないが、山崎新京図書館長・藤山満洲国立中央博物館副館長・杉村満日文化協会常務主事・武藤弘報処長・坪井與らの名前がでている。檀一雄の新京での広範な交友関係が知れる。こうした檀の広範な交友関係のなかに関合も混じっていたのであろう。
以降関合は檀と交流を持ち、石神井の檀の家にも関合は訪問したことが先の回想からも知れる。そして檀一雄『リツ子・その愛』などの挿画を担当するに至ったのである。
檀は昭和45年11月にヨーロッパに旅立ってポルトガルのサンタクルスに滞在したのだが、その檀に誘われて関合もポルトガルに渡っている。関合は昭和46年に帰国、檀もその翌年に帰国している。
檀一雄は昭和51年1月2日に亡くなった。関合が亡くなったのは平成16(2004)年のことである。に亡くなっている(神奈川県立近代美術館「慈しみのまなざし 関合正明展」2009年1月4日―3月22日)解説、田中益三「ポルトガルに無言歌は流れたー関合正明と檀一雄」『日本文学誌要』2013年3月)。 2025年2月4日 記 2025年3月19日 補記
50 大庭さち子
大庭さち子は『月刊満洲』康徳12(1945)年5月号(第18巻5号)に「長編小説 白蘭は散らず」を書いている。挿絵は堀内巌の手になる。
大庭は明治37年京都府の生まれ。本名は片桐君子。京都府立第二高女から同志社女子専門学校英文科を卒業。「文検に合格し華頂高女で教員を勤めた。昭和8年5月の「光、闇を貫いて―ある国際娘の手記」(『サンデー毎日』「新作大衆文芸賞」)において岬洋子の名前でデビュー、昭和14年「妻と戦争」でサンデー毎日大衆文芸の首席入選。同じ作品で直木賞候補、新潮社文芸賞第二部受賞、「花開くグライダー」で直木賞候補(『出身県別 現代人物事典 西日本版』サン・データ・システム 1980年)。なお昭和6年4月号『主婦之友』に発表した「(読者の実験談)恋愛結婚と媒酌結婚と果たして何方がよかったか?」が復刻版『「婦人雑誌」が つくる大正・昭和の女性像 3』ゆまに書房 2014年)に収録される。また昭和15年刊行の吉屋信子編『女流作家十佳選』(興亜日本社)に「戦場の贈物」が林芙美子・森田たま・窪川稲子らの作分とともに収録され、これは『〈戦時下〉の女流文学 4』としてゆまに書房から2002年に復刻されている。戦後の大庭だが、創作を続け、副田賢二によれば「〈前線/銃後〉という〈情動〉の源泉を失った後も、大庭は破砕された断片を収集し、メロドラマを生み続ける」(「差異を架橋する「メロドラマ的想像力」―大庭さち子の戦時下テクストにおける〈情動〉の機能」『日本近代文学』109 2023年11月) 。
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