ブログ・エッセイ


木山捷平、『大陸の細道』、鶴立県、図書館、村田は北村謙次郎か

講談社文芸文庫版の木山捷平『大陸の細道』ではもう一か所、図書館のことが出てくる。文庫版の125p。
木山は、昭和19(1944)年12月新京の満洲農地開発公社弘報科嘱託となり、翌年3月、一か月の出張として哈爾浜の北東300キロほどの都市佳木斯(じゃむす)に向かった。それは召集となった木山の弟と面会するためだった。
小説によれば、渡満前に木山(小説では木川)は、岡山の母親に会いに行ったが、その時に、応召で佳木斯に行っていた弟に届けるようにと、吊るし柿をことづかっていたのだった。弟は733部隊に配属されたのだが肺浸潤にかかり、病院に入院していた。母親からは吊るし柿三総(ふさ)をことづかっていたが、道中朝鮮人の子どもに二総をやってしまっていて、佳木斯に着いた時には一総となっていた。病院で弟と話をし、その1総を弟に手渡してその任を果たした。
弟と別れた木山は、本来の目的である、佳木斯の開発公社を訪問する。そこでいわば農地造成の実情見学をしたのだが、案内をしてくれたのは沖縄出身の所という課長であった。木山は、応召で沖縄配属となったもう一人の弟の消息が知れなくなっていることを語ると、所も沖縄に残した家族の音信が途絶えていると心配そうに話す。こうした深刻な会話を行間に滑り込ませながら、淡々とさりげなく論述していく木山の書きぶりに、わたしなどは引き込まれてしまうのだ。
この見学を終えて、その日の夕方に木山は鶴立県に向かう。鶴立は満洲国時代の呼称で、現在は黒竜江省湯原県にあたる。
翌日木山は、鶴立県に赴任して企画室に配属となった村田と会うため県庁に向かう。県庁といっても平屋の小さな建物だ。企画室は開拓課長室と同居で、開拓課長は天地といい、東京外語のフランス語科出身の男で、役人臭さのない好感のもてる人物だった。この日、石川県からの入植者があるということから天地は出かけていく。そのあとでの村田と木山の会話、ここで図書館のことがでてくる。

「それで君はこの企画室でどんな仕事をしているの?やはり開拓事業に関係があるの?」
と正介はきいた。
「開拓には関係ないね。教えてやろうか。ハ、ハ、ハ、ハ」
と村田は笑い出した。
「ハ、ハ、ハ、って何だい?」
「つまりだね。おれは本を集めているんだ。この県庁にはまだ図書館というものがないから、その盲点をねらって、役人の文化向上のために図書館を作ろうという企画ができたんだ」
「ほう、ほう。なるほど」
「バカに感心するなあ。ところでちっとも本が集まらないのだ。それでも赴任以来、十五、六冊は集めたがね」
「そうすると、君が赴任したのが十一月として、十一、十二、一、二と四か月か。その四か月でもって、十六を割ると、月平均四冊ということになるね」
「そういうことになる。まあ、呑気にやるさ」

そう言いながら村田は立ち上がって電話機をぐるぐる回し、秋田書店という本屋に電話をして本の入荷はないかと確かめるのである。もう少し引いてみる。

「もし、もし、秋田さんですね。(中略) ところでまだ荷物は入らないですか。え?当分見込みなしですって。そいつは困りますなあ。でも、もし入荷したらお願いしますよ。ええ、ええ、どんな本でもかまいません。本であれば。文句は言いません。……じゃあ、さようなら」

電話をかけ終わった村田は、何か上気したような面持だった。一日に一ぺん、本屋に電話をかけるのが村田の仕事で、その時はちょっと昂奮(こうふん)状態になるのかも知れなかった。
今日も駄目だ、と言って仕事を終えた村田は木山を誘い、少し時間は早いが満人料理で歓迎会をすることになるのである。木山と酒を飲むために、本屋に電話をするというひとつの仕事を終えて、晴れて飲みに出かけたというわけである。
昭和20年3月のこの時期に、鶴立県に図書館設立の計画があったかどうかわからない。手元の満洲図書館協会機関誌『学叢』(1巻2号)の「全国図書館統計表」(康徳6=1939年2月現在)の龍江省之部をみると、龍江省立斉哈爾図書館と洮南県立図書館とが載っているのみである。ちなみにこの洮南県立図書館は職員数1、蔵書冊数9,946冊、毎月平均館外閲覧数は95件であった。
同じ号の満洲図書館協会会員名簿をみると、そこには龍江省富裕県と開通県の県立民衆教育館長名が載っている。このように、当時の満洲国の教育施策から考えても、あらたに鶴立県に図書館を設置するというよりも、おそらく民衆教育館か、または図書館を兼ねた民衆教育館であったことだろう。つまり、先の村田の会話にある図書館設置の企て、というのは、おそらく富裕県や開通県と同様に、民衆教育館の設置であったと予想される。小説の中に書けば、いくつかの注釈が必要となるような民衆教育館を避けて、図書館設置の企てと、書いたのではないかとひそかに推測している。
それにしても先の会話の、「開拓には関係ないね。…ハ、ハ、ハ、ハ」と村田が答える箇所とか、「ほう、ほう。なるほど」と木山が感心したことに対して、「バカに感心するなあ。ところでちっとも本が集まらないのだ。それでも赴任以来、十五、六冊は集めたがね」と村田が応じるあたり、それこそ何かバカにしたような、また韜晦に過ぎるような書きぶりではある。
だがこの「ハ、ハ、ハ、ハ」「バカに感心するなあ」といった言い回しは、図書館員であったわたしにとっては、不快に感じるというよりは、むしろ共感するところでもある。また電話をかけ終わった村田が、一日に一度、本屋に電話を掛け終えて上気している、という表情にも、どこかで共鳴する気分になってくる。
ここで末尾に一言取り急ぎ言及することがあるとすれば、それは、本を集めてこの県に図書館を作り、役人の文化向上に役立てようとしている、という箇所だろう。先に述べたように、図書館というのは民衆教育館、つまり現地中国人教化のための社会教育施設の設置だったと思うのだが、この「盲点をねらって、役人の文化向上のために図書館を作ろうという企画」は、周囲や上部から、仮に不要不急であるとの意見が出ることがあったとしても、何というか、これは誰からも正面切って反対ができにくい性格の企てであるということである。
図書館という存在は、政治状況のなかに置けば、あるイデオロギー性を持って見えるが、文化とか資料保存・学びといった場面だけから強調すると、それは否定しがたい存在でもあるということであろうか。このことは、満洲をふくめ外地の図書館という存在を考える場合にはひとつのポイントになるのではないかと思っている。
このように、図書館や図書室について、正面からではなく、側面や背後からも考えてみることで、「逆転」ということも可能ではないかとひそかに考えているのだ。だが、図書館という存在を、社会の中でなんとか役立つ存在として位置付けたいとの今どきの風潮からすれば、とうてい支持は得られない思考法であるかもしれない。 (2018年2月1日 記)