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NEW!! 41 佐久間晃、『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち

41 佐久間晃- 『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
佐久間晃は『月刊満洲』昭和8年8月号に「陣中漫畫腕くらべ 菊池一等兵」、12月号に「マンガの兵隊」、昭和9年3月に「月刊漫畫」、昭和20年5月号には「今ぞ出せ(漫画)」を描いている。
佐久間は明治44年福島県の生まれ。満洲事変の昭和6年、徴兵検査で甲種合格、千葉の鉄道一連隊に入隊のち満洲派遣軍。この間に「事務の寸暇をぬすんでは兵隊漫画家として『月刊満洲』に原稿を送った」という(佐久間晃 富山衛 『絵と文 おもいでの満洲』恵雅堂出版 昭和46年)。これが縁で『月刊満洲』の城島舟禮とつながりができて、除隊後の昭和10年にふたたび渡満する。奉天日日新聞、合併した満洲日日新聞に在籍、新京日日、満洲新聞、満洲日報にも籍を置いた。昭和14年2月ごろ協和会主催の調査団が長白山脈に派遣されたが、これに佐久間は奥行雄とともに参加している(「白色地帯」『絵と文 おもいでの満洲』)。
戦後はソ連抑留を経て昭和23年12月に引き揚げ、東京タイムズ社編集局嘱託。日本基督教團農村傳道特別委員會刊行の『農民クラブ』昭和24年7月号などの岩本洋「しべりあ物語」などにも挿絵を描いている。昭和46年4月田無市市会議員当選した。
*佐久間晃「満洲時代の漫画家仲間」(前掲『絵と文 おもいでの満洲』所収)の回想によれば、当時の漫画家仲間として次の人物が挙げられている。ビルマ戦線で亡くなった藤井図夢、敗戦から引揚げ前後に亡くなった今井一郎・梅林秀麿・久保山天津生・高田義雄・陣内春夫ら、そして戦後も健在で漫画を描いた人たちでは、昭和製鋼所弘報課にいた青島生まれの中村伊助(五味川順平と弘報課で機関誌を編輯、漫画集団)・哈爾浜鉄路局の西島武郎・満毛(満蒙毛織)百貨店宣伝部の松岡しげる(九州漫画協会)、満洲新聞の吉田行雄(旧姓奥、戦後夕刊フクニチ、九州漫画協会)・日満商事の今村主税・満洲日報(のち満洲日日)の富山衛らであった。ほかに消息不明とされる満洲日報の河野久・武田一路がいた。
ここに佐久間が挙げた漫画家のうち、『月刊満洲』に描いたことがわかっている人物は次の通りである。
梅林秀麿「桂玉さんの夫君 陶振寰中兵に逢ふ」(康德9年6月)
高田義雄は、山本絃之介の小説「孀はなぜ怒ったか」に挿絵を描いた(康德11年6月)
中村伊助「川柳漫畫」(康德9年1月)
西島武郎「ある日曜日の朝(漫書)」(康徳7年12月)
今村主税は、康德6年10月、康徳7年12月号『月刊満洲』の表紙を描いた

*前掲『絵と文 おもいでの満洲』の共著者富山衛についても書いておく。
富山は明治41年栃木県の生まれ,川端画学校に学び、国民新聞・毎夕・時事・読売の各紙に寄稿。昭和13年9月に渡満し大連へ、東公園の満鉄本社向かいにあった満洲日日新聞に入社し学芸部。常盤橋通りの連鎖街にあった大阪屋號書店にもよく行ったが書店はいつも人であふれかえっていたという。連鎖街のバー「バコダ」には今井一郎の娘々祭の絵が飾ってありよく出かけた。この店のママは女優で岩田専太郎の妹湊明子であった。またトランペット奏者南里文雄が出ていた電気遊園向かいのダンスホール「ペロケ」にもよく行ったという。12月に奉天本社に異動。
終戦となり昭和21年7月引き揚げ、読売新聞社出版局、ダイヤモンド社に専属しのちフリー。鎌倉市に在住した。