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new!! 森光子、慰問、南方、満洲、東海林太郎、松平晃、藤山一郎

森光子、慰問、南方、満洲、東海林太郎、松平晃、藤山一郎

これまで、戦前期の満洲へ慰問に出かけ、終戦後もそのまま満洲の地に残された芸人や作家、歌手やジャズメン、学芸関係の人たちを中心に調べ、順次このブログに書いてきた。それに合わせて、満洲だけでなく南方や中国で慰問活動を展開した芸人や歌手らについても少しずつ調べてそれを年表化してきている。
今回はそのなかの、戦前期にいく度か南方や中国各地を慰問で訪れた森光子のことを少し書いてみる。森光子の伝記事項はよく知られているので、ここでは戦時慰問に関連することを中心に述べる。
森光子は大正9(1920)年京都木屋町二条に生まれた。京都市立銅駝小学校を卒業し、昭和8年京都府立第一高等女学校(現鴨沂高校)に進んだ。しかしながら女学校1年生の時に母親を亡くし気力も失せて女学校を中退する。その年には続けて父親も亡くなってしまった。
昭和10年嵐寛壽郎プロダクションに入り映画に出たものの、昭和12年にはこの嵐寛壽郎プロダクションは解散してしまい、他の俳優とともに新興キネマに移籍した。ここでさまざまな映画に娘役の役で出演したのだが満足することができず、昭和16年には歌手を目指して上京、プロダクションに属して歌のレッスンも受けた。そして歌手として、東海林太郎や松平晃、淡谷のり子、渡辺はま子・林伊佐緒らの前座として全国を回るのである。
昭和17(1942)年3月になり、東海林太郎らは陸軍恤兵部の派遣で満洲慰問に出ることとなった。団長は東海林太郎、弁士の西村小楽天、歌手松平晃、それに楽団を加えて総勢13人である。西村小楽天は漫談家で司会業、東海林太郎や霧島昇の歌の司会を務めた人物だ。松平晃は藤山一郎・東海林太郎と並ぶ戦前昭和期の歌手である。東海林太郎らの前座を務めていた森光子もこの慰問団に加わって満洲に出かけることとなった。

一行は下関を出航し、釜山・京城・平壌・新儀州を経由して満洲に入る。そして、鞍山・安東・奉天・四平街・新京・哈爾浜・斉斉哈爾と満洲各地を慰問して回ったのであった。この慰問の時の集合写真が『森光子 大正・昭和・平成-八十八年 激動の軌跡-』(集英社 2009年)に載っている。ここには森とならんで、東海林太郎・松平晃・西村小楽天らも並んで写っている。
翌年の昭和18年7月に森光子は南方慰問に向かう。松平晃・林伊佐緒・楽団ハットボンボンズと同道だった。今回は海軍戦線からの要請で、南方で戦う将校に向けての慰問であり、それを新興演芸部が受けたのであった。戦局は徐々に悪化してきており、昨年の満洲への慰問とはちがってこの南方慰問は厳しいものとなった。
メンバーは、世話人の中山団長以下、楽団ハットボンボンズ、松平晃・林伊佐緒のほかに曲芸丸の一小鉄、浪花節の天中軒月子、洋舞の天草みどり、日舞の三田幸子、それに三味線師や女剣舞などであった。
浅間丸で神戸港を出港し、駆逐艦二隻に護衛され輸送船5隻で出発した。途中2隻の輸送船は撃沈されたが残りの船は高雄港に入港を果たした。
その後はシンガポール・セントジョンストン島・ボルネオ・ジャワ・バリ島などの海軍部隊また時に陸軍の部隊を慰問し、セレベス島のマカッサルからジョンホール・ペナンを巡ってシンガポールへと至る。こうして南方の各地域を回り、昭和19年2月にようやく帰国したのである(大森盛太郎『日本の洋楽1 ペリー来航から130年の歴史ドキュメント』 新門出版社1986年、『森光子 大正・昭和・平成-八十八年 激動の軌跡-』)。この『森光子 大正・昭和・平成』)でチモール島クパンの飛行場や、セレベス島ケンダリー海軍宿舎前での集合写真を見ることができる。
ところでこの慰問でシンガポールに上陸したおり、同じく南方へ慰問に来ていた藤山一郎の一行にたまたま出会っている。藤山一郎らは、海軍南方財務部からの要請で昭和18年11月に日本を出発しセレベス島マカッサル市海軍民政部に向かっていたのだった。シンガポールに到着した藤山一郎およびその楽団の海軍民政部音楽隊は、第十特別根拠地隊の広場で海軍兵を前に演奏会を開催していた。
このシンガポールに、森光子をふくむ松平晃・林伊佐緒・楽団ハットボンボンズら一行がもどってきたわけである。そのことを知った藤山は自らの指揮で、松平晃や森光子一行の下船にあわせて軍隊行進曲を演奏したのであった(馬場マコト『従軍歌謡慰問団』白水社 2012年)。
二つの大きな南方慰問団が、期せずしてシンガポールで顔を合わせたということになる。当時、少なからぬ数の慰問団が結成され各地域を巡っていたわけだが、こうして現地で出会うということもあったというわけだ。
この南方への慰問を終えて森光子は昭和19年2月に帰国する。しかしながらその2か月後の4月末に今度は南支那の慰問に出かけている。漢口・江州・南京と巡回したのだが、無理がたたったのか南京で体調を崩し陸軍病院に入院してしまった。病名は肺浸潤であった。そんなことから森光子はここで南方慰問を中断して7月に帰国した。
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森光子は群馬県高崎で終戦を迎えた。病気で帰国したことにより、外地での終戦を免れた、ともいえようか。
戦後すぐに米軍キャンプで歌を歌ったが、翌昭和21年には京都にもどっている。そして大阪の劇場や演芸場で歌手として活動していていたのだが、昭和24年の肺結核を発症してしまい、療養生活に入った。昭和19年の中国大陸への慰問時に発病した肺浸潤が治りきっていなかったのである。
昭和27年に復帰するも思うように仕事も入らず苦戦した。しかしながら折しもテレビ放送がはじまる時期にもあたっていて、徐々に仕事も入り始める。そして昭和33年7月、梅田コマ劇場で中田ダイマル・ラケットと「あまから人生」の舞台に出ていた時、たまたまその舞台を観た菊田一夫の目に留まり、ここから一気に売り出していったのである(『森光子 大正・昭和・平成-八十八年 激動の軌跡-』)。 2025年3月16日 記