ブログ・エッセイ


NEW!!(ブログ)2020年5月18日 一庭啓二、幹、陸、菊枝、佐々布充重、福羽美静、福羽逸人、亀井貫太郎、森鷗外

一庭啓二には三人の娘があった。そのうち長女文は生後一ヶ月で亡くなっている。次女は幹、三女は陸(ろく)といった。一庭姓を継いだのは陸で、その子が菊枝、そして菊枝には長男・長女がいて、これが当代、わたしはこの当代と結婚し、一庭関係の文書なども引き継いでいることから、こうして一庭啓二伝を書いている次第となった。
一庭姓をなんとか守り抜こうと腐心した陸と、その子菊枝については、伝記のなかで少し触れたところであり、ここでは次女一庭幹と、幹が嫁した佐々布充重のことを少し記しておきたいと思う。
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一庭の次女幹は明治10年2月10日の生まれ、明治31年12月に結婚して大津の家を出ている。幹と結婚したのは佐々布充重、彼の写真は一庭資料に何枚も残されてあるのだが、「四十一年三月九日 於京都柊屋旅館」と裏書きのある写真などみると、なかなかの男性である(一庭―写真―42)。
佐々布充重は島根県鹿足郡津和野町大字森村の出身、明治3年1月の生まれである。一庭は京都寺町今出川上ルの小川家から大津百艘船の舟屋太郎兵衛家に養子に出て大津上平蔵町に住んでいたから、どのようなことから幹がこの佐々布に縁づいたかはわからない。
入籍は明治32年2月14日であった。一庭の残した備忘録にこの時の婚姻届を写したものがあり、充重のことが少し書かれてある。充重は東京都小石川区小石川駕籠町に住まい、伯爵亀井茲常(これつね)家職員、父は佐々布利雄、母ツナという。
茲常は石見国津和野藩主亀井家の一四代にあたり、佐々布家は代々津和野藩の藩士で、そうしたことから佐々布充重は亀井伯家に仕えたわけである。
ちなみにこの婚姻届の証人は市川亮明と福羽逸人(ふくばはやと)であった。市川は、一庭資料にも多くの写真が遺されてあり、そのうちの一枚の裏書きには、「明治廿六年二月二十七日 東京市川亮功 市庭叔母上様」とあることから、一庭の甥にあたる人物であることがわかる(陸―写真―36)。またインターネットの「渋沢社史データベース」に、明治28年7月1日に横浜正金銀行リヨン出張所詰の主任心得を申付けられたとあり、さらに先の写真には、台紙に「LYON」と印刷されていて、他にも「LYON」とある写真がたくさんあることから、この市川亮明でほぼまちがいないと思う。まだ出典を確認していないが『横浜正金銀行全史』に載っているのだろう。
そしてもう一人の福羽逸人、温室栽培で著名な農学者であるが、この逸人は津和野藩の佐々布利厚の三男で、明治五年に福羽美静(ふくば びせいまたよししずとも)の養子となっている。この美静も津和野藩士で、大国隆正や平田銕胤に学び国粋保存をとなえた国学者であった。一庭とは、幹の結婚が縁となったからか、年賀や書簡、盆歳暮のやり取りをしている。
佐々布充重の父親が利雄、逸人の父親が利厚ということになる。逸人には、『福羽逸人回顧録』(国民公園協会新宿御苑 2006年)とその『解説編』などがあるようなので、このあたり、もう少し調べないといけない。
そして当の佐々布充重であるが、伯爵亀井家では、家乗編纂にあたっていたようで、これもまだ現物にあたっていないが、伯爵亀井家家乗編纂所編の『道月餘影』(大正元年)の発行者として名前があがっている。亀井家の記録を編成する仕事についていたのである。
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と、ここまでながなが書いてきてしまった。わたしがこのメモを書いておこうと思ったのは、実は、「おたどん」というひとの「神保町オタオタ日記」(2006-11-21)に佐々布充重の名前がでているのをみつけたからである。
「一庭啓二伝」の本文は大体できていて、一庭資料についても、目録化し、その一部の翻刻もほぼ完了というところまでたどり着いているのだが、いくつか確認したい資料があり、また記述に出てくる史跡などの写真も掲載したいと考えていて、決定稿には至らない。いまは新コロナウイルスの蔓延で外出しづらく、どうしたものかと思いながら、つれづれに、一庭資料にでてくる人物のことをもう少し調べてみようと、あれこれ見よう見まねで、インターネットで手がかりを探っていたら、この記事を見つけたというわけであった。
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おたどんに教えられてここにメモを書いておく。森鷗外の娘茉莉によれば、亀井伯爵家の亀井貫一郎は、一時期森鷗外の家に預けられていたという。そして、「オタオタ日記」にはこの件について鷗外の日記が書き抜かれている。それによれば、明治43年8月15日鷗外は佐々布充重を訪問して、亀井貫一郎一家の事を言い、8月29日に今度は 佐々布充重が鷗外の家に来て、亀井貫一郎一家の事や亀井家乗の事を話した、という。貫一郎のことで、亀井家の事情などを充重に聞いたということなのだろう。
こんなこと、まったく知らなかった。充重が亀井家で仕事をしていたことはわかっていたが、鷗外の日記に名前が出てくるとは、また亀井家のことで行き来があったことなど、思いもよらぬことであった。
まだまだ不十分で、調べないといけない事がらがいっぱいあるのだが、外出自粛のおもわぬ副産物として獲得できた知識を、どうも我慢できずにここに書いてしまった。もう少し調べて書き直すつもりで、とりあえず本日掲げることとした。 (2020年5月18日記)