ブログ・エッセイ


久保裕、『喘息百話』、西藤なるを、気管支、民間療法、カリン、レンコン、黒豆

一庭啓二の伝記を書くにあたって一庭の三女陸(ろく)のことを調べる必要があり、その過程で守山市にて小児科医院を開業しておられる西藤成雄(なるを)さんとの面識を得ることができた。お会いしたのは4月上旬、同行したのは、一庭啓二の曽孫にあたる加藤啓と岡村慶子で、加藤は『一番丸船長一庭啓二の生涯』の発行元武久出版の社長、慶子はその妹でわたしの奥さんである。
西藤さんのご自宅でいろいろとお話を聞かせていただいたあと、本家筋にあたる西藤安彦さんにご案内をいただいて、西藤安兵衛(九世)の墓所のお参りも果たすことができた。安兵衛は当代の二人にとっては祖父にあたる。当日は天気も良く、念願の墓参もかなってよい一日になった。
ところで、小児科医の西藤成雄さんとお話をしての帰りに、西藤さんがお世話をされて刊行なった久保裕『喘息百話』(喘息フォーラム・日本刊、同朋舎発売 2019年)という本を頂戴した。
著者の久保裕(ひろし)は呼吸器系の医師で、1951年栃木県の生まれ、2014年に64歳で亡くなっている。この本は、久保氏のパソコンに残されてあった執筆途上の原稿をもとにしたもので、久保裕の遺稿集ということになる。西藤氏が編輯を担当され、クラウドファンディングで資金を集めて出版にこぎつけた本だ。
久保裕は、子どものころから喘息に苦しみ、将来の進路を考えるにあたって医者になろうと決意して和歌山県立医科大学に進学した。そして喘息を専門とする医者になったわけだが、久保が医者になろうと考えたその動機は、人を助けるという高邁な人道主義からではなく、単に、喘息が治せない医学に腹が立ったからだ、と書いている。
そんな久保は子どものころから激しい喘息の発作に苦しみ、さまざまな治療を受けてきた。転地療養、皮下注射、扁桃腺の切除、アレルギー反応の原因物質を注射する減感作療法、鍛錬療法、金製剤注射、また神社の御札を浸した水を飲み続け20日目にはお札も一緒に飲むといったお札療法、時には近所の人が生きた雨蛙を持ってきてくれてそれを飲めと言われたりもする。これは父親のおかげで飲まずにすんだのだったが、生きた雨蛙を飲み込むと効用があるという療法が民間に伝わっていたわけである。
この『喘息百話』は、100のエピソードから成り立っている。久保の生い立ちからはじまって、久保自身の喘息治療体験、医師になってからの診療の日々や、また薬の開発とその投薬の事情など、専門的な話題もあるのだが、久保のお人柄も相まって、情愛のこもった読み応えのある本に仕上がっている。
ところで先に書いた、雨蛙を飲むというエピソードだが、それは第11話「雨蛙の涙」に書かれてある。この11話には次のような話も載っていた。久保が開業していた和歌山の診療所で診察をしていた時のこと、だいぶ回復傾向にある76歳のおばあさんを診察した。聴診器を胸に当てようとふと見ると、ある寺のお守りが首にかかっている。この寺は喘息封じの寺で、毎年11月の第一の酉の日に患者は生卵を三つ用意し、それを三日に分けて飲むというものであった。そして久保は、この患者が神仏頼みで良くなったと信じているのかと気づいて「愕然とする」のである。
とはいえ数多くいる患者のなかには一人ぐらいはそんな人がいても不思議ではない、高齢の患者さんでもあるしと、自ら慰めて次の患者を診ることにして診察室から呼び入れた。次の患者さんは若い女性であったが、なんとなんと、その女性の首にも同じお守りが掛かっていたのだった。それをみて久保は再び「慄然とする」。きちんと治療をしてきたつもりだがそれは少々甘かった、神仏には勝てないものだと。こういった筆致で書かれ、重たい病気の話題なのだが、軽妙な筆づかいで読んでいて引き込まれる。
わたしがこの本を読んで、ここにちょっと書き留めておこうと思ったのは、この第11話に、喘息にまつわる三つの民間療法というのが書かれてあったからだった。
一つ目は神仏系、これは先の生卵の件や、他にも「何々封じ」と銘打ったものでよく耳にするものだ。二つ目は植物系でこれが種類も一番多く、カリン・レンコン・ニラ・ヘチマ・黒豆・銀杏・ニンニクなどなど煎じたり食したりするものである。三つめは動物系で久保が子どものころに危うく飲まされそうになった雨蛙の生ま飲み込みの類い。
わたしも子どものころから気管支が弱く、どのような病名をもらったのか覚えてはいないのだが、小さいころから医者に連れていかれ、注射をし、またお灸を据えるなど、さまざまな療法を試された。注射は、皮下注射だったか筋肉注射だったかよくは覚えてはいないが、太ももに打たれたような、いやお尻だったか、そんな記憶があり、ともかく痛かった。
わたしは広島県の三原で幼少期を過ごしたのだが、この注射を打ってくれる医院は家から少し離れた海辺にあった。母親に手を引かれて、痛い思いをするために、とぼとぼと歩いて行った覚えがある。いつも雨が降っていたわけでもあるまいが、海辺のこの医院に手を引かれて出かけて行くときの記憶には、雨がそぼそぼと降っている。その光景はわびしくかなしい。
お灸は「やいと」といわれて母親から据えられた。台所の隅で据えられる。その台所も昔は電球で、ほの暗い。おくどさんの横には消し炭を入れる壺もあった。ここで熱いのをひたすら我慢するのであった。少し大きくなってから母親から、「やいとをしようとすると、あんたは決まって台所でしくしく泣きだした。外に逃げていけばいいのに」と笑いながら言われた覚えがある。逃げるったって、しないといけないと言い聞かされていて、逃げるわけにはいかないではないか。逃げおおせるわけもなし。
そんなこんなで大きくなり、中学・高校・大学と、よく風邪をひいて、その都度熱も出し、咳もひどかったが、まず人より体が弱いというほどのことで過ごしていった。気管支の咳で再び悩んだのは、大阪府立図書館の司書になってからだった。府立図書館では、大半の蔵書は書庫に納められてある。書庫に置かれた本は、全部が全部、利用者から出納の要求があるわけではなく、なかには取り出されることもなく、そんな本には自然とほこりが溜まってくる。このほこりにわたしは苦しんだ。
書庫の本のほこりが原因ではなかったかもしれないが、それしか思い当たることがない。仕事でも書庫の本はさわるし、またわたし自身も古い本が好きで調べものにも使うから書庫から取り出して読んだりする。風邪をひくと、それが長引き、咳が出始めて、最後までその咳が取れない。しまいには気管支の奥というか、胸の下・腹の上あたりから身をよじるようにして咳をするようになる。そうしないと咳をする手ごたえがないのだ。そして夜寝るときには、横になるとせき込むから少し身を起こして寝る。何とかならないものかと思い悩んだ。ひどくなり長引いてくると医者に行くのだが、薬をもらってそれを飲む。薬が効くのか時期が来たからのか、それでしばらくすると収まった。そのときの医者は、この本に書いてあるような吸入薬は処方しなかったな。
当時から、あんまり薬に頼るのも如何なものかと考え、安易に抗生剤を飲むのもためらわれるようになった。できれば自然治癒力で治したいといった思いを持っていたわたしは、長引いて苦しくはあったが、そんなにも重症化するというわけでもなく、仕事にも出かけていたから、実は先に久保が書いている「植物系の療法」の幾つかを試してみたりしたものだ。そしてこの「植物系民間療法」の類いは、実のところ今なお信じて熱心に実践しているのだった。
カリンが喉にいいと聞いてそれを蜂蜜に漬けて飲んでいる。今でも秋にスーパーなどでカリンを売っていたら買うし、友人の親戚にカリンの木があって実がなると聞くともらってくる。一昨年は近くの市立図書館のカウンターに「お持ちください」と書かれてカリン一盛りが置いてあったので一番大きいのをひとつもらってきて蜂蜜に漬けた。またボケの実も同じような効用があると聞いて、庭のボケには過剰なばかりの肥料を与えて花のあとに実となるのを心待ちにしている。
レンコンも試してみた。レンコンの連結部の節の部分を煎じて飲むと良いらしいと聞き、近くの八百屋で尋ねてみたところ、その部分は捨てるとのであげようと言ってくれて、それをしばらく試したこともあった。
ヘチマは、ヘチマ水なのだろうか。正岡子規の句に「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」というのがあるので、喉に効くと言うわけなのだろう。わたしはヘチマを何度か作ったこともあるが、喉のために試したことはなかった。
黒豆の煮汁は子どものころから飲んだ。正月に煮た黒豆のあの残った煮汁が喉にいいと母親が言うので、一度にたくさんではないが飲んだ。今でもお正月の黒豆の煮汁は、飲んだり他の料理に使ったりして捨てないでいる。
先の本のなかで久保先生は、植物系の中には咳止めの効果があるものもあるが、喘息に対してはこれら植物系の効果は限定的であると述べている。迷信というわけではないが、喘息にはあまり効用はない、ただ喉や咳をとめるのに少しは効果があるというほどのことなのだろう。そういえばわたしは、久保がここに挙げているもの以外にも、柿の葉や枇杷の葉も試してみたりした。
これらに効果があるのか、それほどでもないのか、実際のところはよく分からない。いまではありがたいことに、咳き込んだり咳が長引いたりすることもあまりなくなった。この「植物系」のおかげなのか、歳を取って喉などが敏感でなくなったのか、それもよく分からない。とはいえ、「植物系」も、何か安心感のようなものは確かにあって、それが精神衛生上よいのかもしれない。
すこし自分のことを書きすぎてしまった、久保裕は1951年の生まれでわたしより4歳年下だ。幼い頃は栃木県の氏家町で過ごしたという。わたしは広島県三原市で過ごした。地域は異なるが、子ども時代の社会環境も、その地域でも、まず似たような医療環境だったかと思う。わたしは久保ほどもひどくはなかったものの、両親は、大きくなれるかとずいぶん心配したみたいで、ここに書いたような療法を試みたというわけである。
風邪などで学校を休んだりした場合、おおむね回復してきているのに、母親は大事を取って最低一週間は休ませた。今にして思えば過保護に育てられたわけだが、両親にしてみたら、ぶり返したりするのが怖かったのだろう。
久保裕の『喘息百話』を読んで、あれこれと由なしごとを書いてしまった。ともあれこの本はずいぶん面白かった。商業出版であっても、十分に読まれる種類の本ではないかなと思ったりした。 2022年5月23日 記