ブログ・エッセイ


「三人わかってくれる人がいたら大丈夫だから」、玄田有史、『希望のつくり方』

玄田有史『希望のつくり方』のなかに出ている事例を読んで、なるほど、自分とおなじようなことを考えている人がいるんだな、と思った。
釜石市の再興を期して天然水の事業をはじめた八幡登志男さんという人の話だ。生まれた町釜石を元気にするという目的から、林業で蓄えた資金で遊園地を開業するも水害により閉園、大きな借金は林業で返し、こんどは天然水の事業をはじめたのだという。まわりの反対も大きかったが敢然挑戦する。
そんな八幡さんに玄田は尋ねる。「苦しいときや試練というのは、どうすれば、乗り越えられるものなんですか」と聞くと、八幡さんは、「三人わかってくれる人がいたら大丈夫だから」と答えたという。かれの場合、自分を信頼し、助言をしてくれたり真剣に意見をしてくれる幼馴染が三人いたのだという。
なるほど、八幡さんの場合は三人か、とわたしは思った。わたしなどの仕事は、こんな切羽詰まったものでもないし、膨大な損失が生じるわけではない。
私の場合、満洲の地に遺された蔵書のことを調べたり、蔵書の集積にについて調べたり、戦前期に外地で活動した図書館職員の事典をつくったり、とそんな仕事だ。本にするときは、場合によるが、いくらかの自己資金も準備しなくてはならない。ちなみに、『日満文化協会の歴史』は後日制作した索引を含めて約100万円、『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』は140万円ほどの出費だ。あまり売れない本だから、全額回収の見込みなどとうていない。
とはいえ、このようなわたしの出費など、それはしれている。累積されず一回きりだし、我が家の貯金から拠出すればなんとかなる金額だ。まあ時間と労力を考えるとそれは果てしないが、それは好きでやっているんじゃないか、といわれればその通りである。
八幡さんの場合、信頼できる幼馴染が三人か、とふたたび考える。ささやかながら、わたしも昔から同じようなことを考えていた。自分の仕事は、資料を基にしたいわば書誌的な仕事であり、あまり人からは振り向かれない仕事だ。意義ある仕事だと思ってはいるが、今流のことばでいうと、どこかなにか「不要不急」かもしれないと考えたりもする。
30年ほども前、たまたま東京で、中学時代の同級生四人と会う機会があった。一人は公認会計士、一人は証券会社だったか金融関係の仕事、一人は東洋経済新報社の雑誌記者、もう一人は製造業だ。
そのころわたしは図書館司書だったが、何かの話題から、「こんなことを調べたり本にしたりしている」と言った。するとそのとき金融関係が、「それが何の役に立つか」と一言。この研究がどんなことに役立つかと聞かれてとっさに返答できない。ゆっくりと整理して語れば説明できないわけではないのだが、こんな場所ではそうもいかない。その会話ではすごすごと撤退したという気分だった。
その時以来、わたしは考えた。生涯にわたって自分の仕事を心から評価してくれる友人知人が、五人確保できたら良いことにしよう、そのように考えてここまでなんとかやってきた。
八幡さんとは内容もレベルもちがうが、わたしの場合はそういうことだった。そしてこれまで幾冊かの本も出すことができた。しからばこの「五人」の確保はいかがであろうか。指折り数えてみると、亡くなった人も入れて、五人は確保できているのではないかと思ったりしている。八幡さんの言にならえば、自分の仕事を真に評価してくれ、時に意見や助言をくれたりする人だ。
そしてまたわたしは考える。もしも生涯の目標の五人を確保できたとしたら、わたしの仕事も終わりとなってしまうではないか、ならばこれからは十人にしようか、いやこれは多いかもしれないから八人と目標を設定しなおそう。この目標ぬ向けていっそう精進していこうかと決意を新たにしているところだ。 (2020年8月24日 記)