ブログ・エッセイ


NEW!! 満洲慰問団、満洲演芸協会、新京残留慰問団、坂野比呂志、藤川公成、許斐氏利、美天勝一座、秋田実、金尾仁三郎、森繁久彌、松浦泉三郎、室町京之介

昭和20年5月、圓生と志ん生が慰問で満洲に渡ったとき、漫才の坂野比呂志(凡児)が一緒だったことは先に書いた。小島貞二の『こんな落語家がいた 戦中・戦後の演芸視』(うなぎ書房 2003年)のなかの「志ん生と圓生」を読むと、圓生らを満洲で世話した満洲演芸協会には秋田実やラッパ・日佐丸らもいたこと、圓生と志ん生が大連に去ったあと、新京には内地から出向いていた芸人らは76名ほどもいたこと、そのなかには舞踊家益田隆らがいて、この芸人で「新京残留慰問団」を結成し、坂野が団長に就いたことなどがわかった。
終戦時満洲の地で留用になった研究者や図書館員、また現地に散在する資料の収集・保全に尽力し中国側に引き渡した文化人や学者のことについてはこれまでにいくつか書いてきた(『終戦時新京 蔵書の行方』など)。そんなことの繫がりから、終戦時に新京で、「新京残留慰問団」をつくり、団長を務めたという坂野比呂志のこと、その活動の実態をもう少し知りたいと思って、いくつか回想記などを読んでみた。
ここではそのうちのひとつ、坂野比呂志の回想記『香具師(やし)の口上(たんか)でしゃべろうか』(草思社 1984年)から、昭和9年最初の渡満のこと、新京での坂野のこと、満洲に同行した芸人やや当地で会った人たちのこと、そして終戦後の「新京残留慰問団」のことをメモとして書き記しておきたい。

最初の渡満
坂野比呂志は浅草を拠点に、活動弁士や漫才・漫談などの芸や、さらには司会業など、さまざまにこなしたいわゆる浅草芸人である。明治44年の生まれ、亡くなったのは平成元(1989)年5月25日である。戦後も漫才や漫談・司会などで活躍したが、ある時期に心を定めてやり始めたのは香具師のタンカ売、つまり油売りやバナナ叩き売り、飴売りなどの大道芸であった。この大道芸で坂野は、昭和57年度の文化庁芸術祭大衆芸能部門の大賞を受賞した。
さてわたしが関心を持ったのは坂野の満洲行きのことである。坂野の最初の渡満は昭和9年10月であった。満洲に向かったその理由は、満洲では稼ぎがよいといった理由の他に、満洲国が掲げた五族協和の理念にも惹かれたのだという。だが渡満に突き動かされた直接のきっかけは、知り合ったダンサーの滝節子が満洲で一旗揚げたいと言ったその言葉によるものであった。渡満の世話をしたのは大連の自転車屋の息子吉ちゃん、かれは新京に出てダンスホール「新京会館」のバンドマンでサックスを吹いていた。
吉ちゃんの世話で新京に向かうことになった坂野だが、東京からまずは下関に向かい、下関からは関釜連絡船で釜山に上陸、列車で安東を経て奉天へ、奉天で乗り換えて新京に向かった。新京駅に到着して坂野は驚いた。駅頭には新京会館のダンサーや芸者衆がずらりと並んで坂野を出迎えている。そして吉ちゃんが見せてくれた当地の新聞には、「只野凡児新京会館に来る」と大きく報道されていた。ここに「坂野凡児」ではなく「只野凡児」とあるのは、これが当時よく読まれていた麻生豊の漫画の主人公で、新聞にはその名前で出ていたのであった。
新京駅から馬車で新京会館に向かう。新京会館は、新京駅から南東に延びる日本橋通の、南広場を超えた日本橋にあった。レンガ造りのビルで一階がダンスホール、階上は46人いたダンサーらの寮だった。

新京会館での交友
新京会館がダンスホールとして当局から許可を得たのは満洲で四番目、新京では二番目の施設であった(『新京案内』昭和14年版の復刻、アートランド 昭和61年)。坂野はここでドラムをたたき簡単なショーをやった。メンバーは、バンドマスターでアコーディオン担当の後藤資公、サキソフォンの吉っちゃん、トロンボーンの吉田某らである。
ダンスホールは日本人の社交場になっていて、ここによく出入りしたのは、新京日日新聞の記者中島敬冶、新京日報記者野中進一郎、吉野町の銀座シネマ支配人兼主任弁士の花柳緑(本名中島市蔵)、新京敷島警察保安課長の小林定義、城内各所に壁画を描いた「宮廷画家」高田常次、満洲演劇の創始者とされる藤川公成、ロシアのエリアナ・パヴロワ(帰化し霧島エリ子)の弟子でバレーの中山義雄、満鉄社員倶楽部支配人直塚某、福岡のテキ屋の親分で鬼木某、憲兵隊の安部少佐、吉野町「新杵」の芸者梅香(本名斎藤のい子、のち坂野のい子)らである。これら人物については後日順次書き加えていくこととする。
仕事のないときの坂野は、銀座シネマで映画を観たり、また頼まれて弁士をし、明治製菓の喫茶店にもよく出かけてお茶を飲んだ。昭和10年になり、坂野は藤川公成とひょんなことから意気投合し、舞台美術も演目選定もみな自前で芝居の上演をやることとなる。
藤川は戦後には日本教育テレビ(NETテレビ)の映画部長を務めることとなる人物で、新しい文化の創造を求めて渡満、図案や看板描きで生計を立てながらラジオ放送をやっていた。この藤川や坂野は、他の画家や映画俳優・新聞記者らと連れ立って、吉野町や三笠町などカフェや料亭の立ち並ぶ新京の繁華街を我が物顔で闊歩していたという。
藤川とやることとなった舞台の出し物は、鈴木泉三郎の絶筆「生きてゐる小平治」で、会場は西広場東北角の満鉄社員倶楽部であった。ここは後に新京交響楽団なども演奏会を開いた大きな会場である。上演された昭和10年と言えば満洲国の年号では康徳2年、建国三年目にあたったいる。満洲国にあっては文化面でも草創期で、さまざまな試みが実践可能な、そうした気運に乗ったものであったのであろう。そしてこのころ坂野は、吉野町「新杵」の芸者梅香と知り合っている。

許斐氏利と
その後坂野は、新京で宣撫隊の工作にも手を貸す。少し前に大ゲンカをした許斐(このみ)氏利(うじとし)の関東軍特務機関の仕事を手伝ったりした。大ゲンカの原因は、新京日日新聞の中島敬冶が許斐のゴシップ記事を書いたことによるもので、それに許斐が怒り、中島を殴ったことからその仕返しのけんかであった。
許斐の特務機関の仕事というのは危険極まりないもので、許斐と坂野は、天津に行く途中の山海関付近で「匪賊」に襲われ、捕まる。そこを九死に一生を得て脱出し、雪の中を必死で逃げる。雪の中で睡魔に襲われるなか、坂野は満洲の地で凍死したという田村邦男のことなど思い起こしながら、意識を失うも天津の病院に運ばれ何とか生き延びた。
昭和12年には三井東亜鉱山の仕事を請け負い、現地で採掘したタングステンの原石を鑑定してもらうために極秘で東京に運ぶ仕事をしたりした。そんな仕事をしているとき、敷島警察署の小林定義保安課長から満洲国出国を通告される。新京城内でピストルを撃ったりとさまざまな行状が理由であった。
坂野はとりあえず奉天に移動することとした。満洲行きのきっかけにもなった滝節子が、新京から奉天のブロードウエイに移ったと高田常次から聞いていたからである。坂野は節子を探しに高田ともども奉天へ向かうこととなる。このブロードウエイは、満洲の当局から許可を得た最初のダンスホールであった。
ところがこの奉天でまた事件を起こしてしまう。この年12月に満洲国の治外法権が撤廃されるその機会に日本へ帰国することとした。途上の大連では、かねてより知り合いのトランペット奏者南里文雄と再会する。南里は名門ペロケ舞踏場出演しトランペットを吹いていた。南里に誘われ、しばらく大連で滞在して、南里のバンドでドラムをたたいて二か月ほど過ごした。しかしながら新京で満洲国から出国を要請されていた坂野は、領事館からも呼び出しを食ってついに帰国した。

二度目は朝鮮、帰国
東京に戻って坂野は美津子と漫才のコンビを組む。ところが美津子が結核で倒れしまい、ひとり芸人として司会などもこなすこととなった。 そんなとき、美天勝一座とともに朝鮮から満洲を回るという興業の話がきた。美天勝一座といっても、奇術の松旭斎天勝一座をまねて立ち上げた一座である。バンド七人ほどを含めて総勢30人の大所帯だった。釜山・大邱・京城と公演しながら北上して満洲に入る予定だ。
ところが京城で一座の中から天然痘がでたことから興行は頓挫し解散の憂き目となる。このとき満洲には、この美天勝一座のような松旭斎天勝一座に似せた一座も巡回公演をしていたが、この天然痘騒ぎのせいで客も入らず、どの興行もうまく回らなかったという。
坂野はやむなく、特務機関の知り合が天津にいることをたよりに京城から天津へと向かう。そしてここで、天津劇場に出ていた松旭斎天勝の弟子松旭斎天左一座に入いることとなった。ところが天津でもまた事件に巻き込まれ、憲兵隊から呼び出されて帰国命令を受ける。この命令を伝えたのが天津特務機関長でのちに陸軍次官となった柴山兼四郎であったという。

昭和20年5月の慰問団
いったん東京に帰り美津子も回復してしばらく寄席の仕事をする。東宝名人会で各地の巡業もした。戦況は悪化の一途をたどり、昭和20年3月10日の東京大空襲、これで坂野は家も焼かれ、多くの人たちが焼け出されてしまう。
そんな5月のある日、陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)という、軍隊への寄付や慰問などを担当する機関から満洲慰問団の要請がきた。坂野は、自分も焼け出されて慰問どころではないと断ったが、何度も要請される。
慰問団の団長に坂野を推薦したのは新京憲兵隊であった。坂野が満洲にも出かけたことがあり適任であるとの連絡が入ったからだった。この慰問団はメンバーもよく揃っていて給料もよいのだという。そのメンバーというのは、古今亭志ん生や三遊亭圓生のほかに、活動写真の弁士国井紫香、漫才の荒川芳夫・千枝子、そして団長坂野比呂志と小林美津子らであった。軍との契約では5月5日から8月までの四か月、一日800円だった。結局承諾することとなって坂野は再び満洲へと向かうこととなる。
5月5日、新潟から白山丸で出発し、朝鮮北部の清津に上陸、ここから列車に乗り換え、吉林を経て11日新京に入った。新京では漫才作家の秋田實と打ち合わせをする。秋田は昭和20年3月に満洲映画協会演芸部員として渡満、満洲演芸協会文芸部長として、新京から各地に出向いて慰問の演芸をおこなっていた。ここで坂野は藤川公成とも再会している。
さっそく吉野町三丁目南広場の新京記念公会堂でお披露目公演が行われた。公演は大盛況をおさめ、終了後の夜は、志ん生、圓生、国井紫香らと宴を囲んだりした。そしてその後は、吉林・牡丹江・哈爾浜・斉斉哈爾から国境付近までの軍隊駐屯地をくまなく慰問で回った。
いったん新京にもどり、今度は四平街・開原・撫順・奉天へと向かう。奉天では住吉町の奉天ビルに落ち着き、奉天劇場で一回公演をおこなって慰問団は解散ということになった。契約は少し残っていたが、列車の移動もままならず、ここで解散することとしたのである。
ここで志ん生と圓生は、大連で二人会をやるということから奉天を去り大連に向かった。国井は、斉斉哈爾で会った部隊長から、日本に帰るときには飛行機に乗せてやると約束されていると言いい、斉斉哈爾へ去った。坂野はというと、残った慰問団をまとめ、一団を引き連れて新京へ、ところがその途中の四平街公演をこなしたあと、この四平街の地でソ連参戦を知ることとなる。

四平街で終戦、新京へ
そして15日の終戦の詔勅、四平街で終戦を迎えた坂野は思案した。その結果、もともと慰問団として呼ばれた本拠地、満洲演芸協会のある新京に戻る決心をして、新京に向かう。新京に到着するとすぐに、満芸の親会社満洲映画協会に行った。そこでは甘粕正彦理事長が満映の関係者を送り出す指揮を執っていた。
甘粕からは、慰問団も通化に向かうようにと指示されたのだが、坂野はそれを拒否して新京に残る。宿舎として満映の寮を提供してもらうことになって、ここにいったん落ち着いた。食料も満映のものを支給された。そのお礼を言うために満映に出向くと、そこには、甘粕のほか満洲新聞社長和田日出吉、協和会幹部や満映の幹部らが部屋にいた。ここで坂野は甘粕が引き出した預金のなかから五万円の金を受け取っている。その後甘粕は、青酸カリを飲んで自死するのである。昭和20年8月20日早朝のことであった。
さて、この満映の寮にいたのは18人。そこに軍服姿の将校と軍曹が訪ねてきた。同胞が南嶺の捕虜収容所にいる、みな先を見通せず意気消沈しているから収容所に慰問に来てほしいと依頼をされる。将来の見通しが立たず日々の生活に不安を抱えているのは自分たちとて同じで、慰問どころではないと断るも、シベリア連行の同胞のためにもぜひ慰問をと懇願され、やむなく引き受ける。そして浜田リナ・リサ、泉けい子、坂野・美津子ら総勢8人で南嶺へと慰問に向かった。
午前中に、シベリア送りの決まった将兵らの前で一席やり、夜になると今度は、ソ連兵が食事をとるときに歌ったり踊ったり芝居までさせられて、なかなか帰れない。やむなく、化粧道具などをそろえるために繁華街のデパートに買い出しに行きたいと申し出で、許可をもらって吉野町に出かけた。そこで、「新杵」の芸者梅香、本名斎藤のい子に偶然う。のい子は公会堂前の弓岡ビルに住んでいるという。
南嶺で慰問をしていると、慰問団も軍属とみなすとされて軍服を着せられる。そして南嶺の収容所も徐々に食糧不足となってきたことから、慰問団は孟家屯の陸軍病院に移動した。ここでしばらく慰問を行なったが、時には病死者の埋葬を手伝い、寒くなって薪など燃料の調達などの手伝いもした。
陸軍病院で、妻で相方の美津子の結核が再発する。病院で薬をもらったうえで、のい子の弓岡ビルの部屋に移ることとした。部屋は六畳一間で、ここにのい子のほか、坂野比呂志・美津子、二村定一、浜田リナ・リサ、泉けい子と七人が住んだ。
妻の美津子の結核はよくもならず、まずは稼がなければならない。この新京には、坂野たちとは別の団で満洲に入った芸人たちが集まっていて、益田隆・斎田愛子・上野耐史ら総勢76人いた。そのなかに大阪の松竹から派遣された漫才の平和ラッパ・比佐丸(初代)もいたのだが、この比佐丸は、発疹チフスでこの地で亡くなってしまった。坂野はこの芸人らの「新京残留慰問団」の団長格で、なんとかかれらの暮らしも成り立たせていかなければならなかった。

映画館を改造しダンスホールに
そのころ、南広場西の西本願寺・太子堂の向かいあたりに屋台や夜店がよく立つようになった。人も集まるというので、太子堂にほど近い公会堂横の映画館長春座を改造し、そこでダンスホール・演芸館を作ることとした。バンドマンはたくさんいたし踊りの女性もいる。ここで坂野らは寸劇もやった。
ここで、博打打ちの一家を立てようと渡満した福岡の出身の金尾仁三郎と知り合う。金尾は芸人の面倒をよく見てくれる。ある日その金尾から、芝居をやったらどうか、そのための芝居小屋をつくったらどうかと提案される。そこで今度は太子堂を改造して舞台を作り劇場とした。76人も芸人がいるから、メンバーのなかには女剣劇もあれば浪花節、漫才・寸劇もいる。バラエティに富んだ舞台が可能だった。この舞台には森繁久彌も登場したことがある。これを「新京残留慰問団」と銘打ったものかどうかはわからぬが、こうして坂野は、当地に残された芸人らともども演芸により食いつなぎながら帰国の日を待ったのであった。
ところでこの舞台に登場したという森繁久彌の自伝には、その舞台のことは次のように描かれてある。新京の放送局勤務の森繁ら学芸課の課員らは、出入りの放送劇団のメンバーや新京残留の俳優を集めて劇団を作って芝居を上演した。ところがもう一方では、舞踊家の益田隆が、斎田愛子・上野耐史らと一団を組み、「カルメン」やスペインものの立派な舞台を披露した。益田らは、物資のないなか靴や衣装を用意して30名ほどの編成でまことに華やかな舞台であったという。それに比べて森繁らの芝居はと言えば地味そのもので、それに見かねた文化座の団員が助っ人として登場してくれたのだという(森繁久彌『森繁自伝』中央公論社 昭和37年)。

引き揚げ
10月になりようやく帰国命令が出た。第72団だった。南新京駅から貨物列車の貨車に乗り葫蘆島埠頭まで行く。そこから船である。妻の美津子は相変わらず結核の状態がよくなく、輸送もきわめて悪い状況で心配であった。乗ったのは船底の船倉で空気も悪く混み合っている。
美津子の体を心配していたそんななか、東京にいたころ坂野の世話になったという椎名という男性が現れる。この帰国船の事務長になっているという。そこで椎名の申し出で病人への配慮をしてもらい、なんとか美津子も病床につかせることができた。そして出航。坂野は思わず、「バカ野郎!もう二度とこんなところへ来るもんか」と叫んだという。いろいろな動機を抱え、慰問とはいえ、文字通り他国の「満洲国」にやってきて終戦を迎え、帰国までのあいだ、辛酸の日々を過ごすこととなった坂野比呂志の、偽りのない叫びであったろう。
坂野らは、この帰国船の中でも演芸をやった。坂野は、漫才・漫談・浪花節などなんでもこなしたという。これも「新京残留慰問団」の一環ということになろうか。
そして5日目の朝、船は無事佐世保の港に着船する。九州各地に帰る人とは佐世保で別れ、山陽・東海・東京方面に向かう人たちと行動を共にして東京駅へ。さらに東北方面に変える人たちを見送って、バンザイ、バンザイと叫んで解散した。妻の美津子はこうして無事に帰国はすることができた。しかしながらこの美津子も数年後に亡くなってしまう。

大道芸開眼
坂野は自らの芸を考え、古き良き浅草の空気を引き継ぐために、テキ屋の口上(たんか)をやろうと考えた。そして台東区下谷の大津お万の家に住んでいた「室旦那」(室町京之介)にその口上を聞いてもらうため出かける。このあたりには落語家などの芸人がたくさん住んでいた地域だ。室町は、ちょうど演芸作家の松浦泉三郎がきているからここで実演をしてみたらどうだと提案され、坂野はやってみることとした。
聴衆は、室町京之介・松浦泉三郎をはじめとし、大津お万や七代目林家正蔵夫妻、またすでに亡くなっていた中村不折の妻いと未亡人とお手伝いさん、さらには正岡子規の弟子寒川鼠骨も垣根越しに見物したという。坂野は、「数は少ないけど、何てすばらしい客だろう」と思いながら、バナナのたたき売りと薬草屋をやった。松浦からは、「やってみろ。敵はないぞ。」と言われ、坂野は自らの行く末を思い定めたのであった。坂野比呂志の大道芸開眼というわけである。
坂野の大道芸については、下平富士男『坂野比呂志の大道芸』(亜洲企画 昭和57年)があるが、この本の序文を秋田實が書いていて、「とにかく、坂野さんとはいつでも会いたい」「私にとって彼の存在は大きなもので、遠いような、すぐ、このあいだのような懐かしい思い出ばかりがめぐって来ては会いたくなってしまう」とかいているが、漫才作家と芸人というつながりだけでなく、戦後に満洲で共有した体験がそのよに感じさせることでもあるだろう。
引き揚げ後の坂野の演芸にまで言い及んでしまった。これが坂野比呂志の自伝『香具師の口上でしゃべろうか』に出てくる坂野の満洲慰問と終戦直後の「新京残留慰問団」のあらましである。 2020年11月3日 記