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NEW!! 山田風太郎、警視庁草紙、明治小説全集、森鷗外、「雁」、西周、佐々布充重

山田風太郎の明治小説全集(ちくま文庫)を少しずつ読んでいる。その9巻にあたる『明治波濤歌上』の「それからの咸臨丸」をおもしろく読んだ。
咸臨丸には、勝海舟・中濱万次郎・福澤諭吉らとともに吉岡艮太夫や小杉雅之進らも乗り組んでいた。この山田風太郎の「最後の咸臨丸」の設定では、吉岡艮太夫が咸臨丸の乗組員だったメンバーに新政府への抗戦を呼びかけ、松岡盤吉・根津欽次郎・小杉雅之進の三人だけがそれに応じたことになっている。
ところで、「最後の咸臨丸」に登場する榎本武揚、榎本は維新政府に抗して函館戦争を戦ったのだが明治2年5月ついに敗北、降伏して下獄した。死罪はまぬがれまいと思われていたのだったが、黒田清隆らの助命歎願により死罪を免れて、明治5年1月には特赦によって出獄している。しばしの謹慎を経て3月8日には早や黒田次官の開拓使に出仕した。
咸臨丸の乗員で函館戦争に加わった小杉雅之進もこの時期におなじく下獄したが、榎本同様に罪を許され東京都の平民となった。一方の明治政府はといえば海軍の増強の必要性を痛感しており、そのための人材を求めていた。そして咸臨丸乗員や函館戦争に加わって赦免となった者に対してまでも政府への出仕を促した。小杉もその才能を見込まれ、政府に仕えるよう幾度も勧誘されたひとりだったが、小杉はこれをかたくなに断ってきた。小杉には、戦いの相手であった維新政府に仕えるなど、考えられないことであったのである。
先に述べたように榎本の方は早くに政府役人として仕えており、小杉はそんな榎本からも、新政府への出仕を強く勧められる。それまで固辞の姿勢をくずさなかった小杉も、榎本の度重なる懇請を断り切れず、明治7年8月ついに政府に仕えることを決意した。しかしながら小杉が選んだのは、榎本の海軍ではなく、内務省の駅逓寮であった。このとき榎本はすでに海軍中将にまで昇格しており、その後も榎本は、明治18年12月に第一次伊藤内閣の逓信大臣まで上り詰め、明治20年には子爵の位までも頂戴する。
一方の小杉はといえば、橋本進『咸臨丸還る』に載る小杉の履歴によれば、明治14年4月商務局事務取扱、8月管船課、明治14年4月管船局登簿課長、翌年登録課長となり、汽船検査などのため全国を出張する毎日を送っていた。
榎本が逓信大臣に就いた明治18年時点での小杉は登録課長で船舶検査員を務め、月俸は10円加増となったものの80円だったようである。このように小杉は、船舶関係といっても海軍への出仕ではなく、汽船の検査・試験といった船舶の実務に携わっていたわけである。これら小杉の履歴や事績については、先の橋本の論述が詳しい。
と、ここまで書いて、わたしは、こうした小杉の事績をなぞろうとしていたのではなかったことを思い出す。一庭啓二の遺した写真資料に、小杉雅之進のブロマイドが遺されてあり、そこにはていねいに裏書がなされていたことから、一庭はこの小杉の生き方に強く共鳴していたのではないかという考えたのだった。大聖寺藩から汽船会社の経営を任され、藩が汽船事業から撤退したあと、同僚が新会社を創設するのに見向きもせず、自身は「生涯一船長」として蒸気船の船長を務め、航海の現場にこだわり続けてきた一庭は、小杉の生き方に自らを引き寄せ、小杉を尊敬していたのではないかと考えたのであった。
そしてここで書いておこうと思ったもうひとつのことは、先の咸臨丸に乗り組んでいた福澤諭吉の『瘦我慢の説』のことである。福澤はこの文章を、のちの榎本武揚や勝海舟に対して書いた。これを山田風太郎が「最後の咸臨丸」で引いていたのである。小説では吉岡と榎本とを牢獄で会わせ、五稜郭で降伏した榎本に対して吉岡が、なぜ切腹しなかったのかと詰問する場面が興味深かったからであった。
山田の小説では、咸臨丸乗員のひとりだった吉岡艮太夫が、明治維新政府に抗するための資金集めを目的とし、悪徳に金品を得ていた官軍のお偉方や商家を襲い、反政府運動の資金を調達し蓄積していたのだったが、ひょんなことで捕えられてしまい小伝馬町の牢につながれる羽目におちいる。そしてその牢獄にたまたま函館戦争で罪を得た榎本武揚が入ってくるという設定になっている。この牢で榎本はたちまち牢名主となったのだが、その同じ牢に居た吉岡は榎本にこう問いかける。
「榎本どの、どうしてあなたは降伏されたのでござる?」
「なぜ、将兵すべて城を枕に最後まで戦うか、よしかりに降伏のやむなきに至ったとしても、主将としての責任をとって、ただちに切腹なされなんだのでござる」。
山田風太郎は、榎本武揚に対し吉岡にこうした会話をさせたあと、福澤諭吉の「瘦我慢の説」の福澤の論難を紹介し、そののちに榎本に次のように答えさせている。
「お前さんは笑うかも知れんが、おれは大まじめでいう。榎本はこのままで死ぬにゃ、日本のために惜し過ぎるよ」「(造船、電信、化学などの)科学的技術的知識にかけては、おれはいまの日本では第一人者であり、かけがえのない人間だと思っているのさ」
「士道のために死ぬべきか、お国のために生きるべきか。もういちど考えて、おれは後者を選ぶことにしたんだ」。
実のところ榎本は、降伏するにあたって、責任は自分一人にと考えて切腹をしようとしたのだった。しかしながら近くの者に刀を取り上げられて自刃はならず、結局捕らわれの身となった。そしてその後の榎本は先に記したように、明治政府に仕えて、俗に言えば栄進・栄達を重ねていくことになったというわけである。
このことに対し、福澤諭吉が「瘦我慢の説」を書いて勝海舟およびこの榎本武揚を批判した。山田風太郎は、この「瘦我慢の説」を下敷きにして、またそれを先取りするかたちで、吉岡と榎本とを牢獄で対峙させ、福澤と同じ問いを吉岡に発せさせているのである。
「瘦我慢の説」のなかで福澤は、勝海舟に対して、士風維持の観点から論ずるとき、国家存亡の危急の時にあっては勝算の有無など語るべきでないにもかかわらず、勝はあらかじめ敗北を想定し、実際にはまだ敗れていないにもかかわらず、国家の大権を放棄して江戸城開城に向かったのは「瘦我慢」の士風を損なうものであると論難する。
そして榎本武揚に対しては、戊辰戦争のあとのことであってみれば勝算はなかったものの、そんな函館戦争を戦ったということは、武士の意気地つまり「瘦我慢」の情を持っていたと言える、しかしながら、釈放された後には青雲の志を起こし、ましてや大臣にまで昇進するというのは、往時の函館戦争を思い起こすとするならば、戦争で犠牲となった同志たちの冥福を祈るために遁世出家して死者の菩提を弔うべきでもあり、もしそれがならずとも、社会から身を隠して生活を質素にし、世間の耳目に触れぬように生きて然るべきであろうと難詰する。
実はこの福沢の論難の文章は、明治24年の時点でその心情を書き留めたものであった。当初は公表するつもりのないものだった。親しい友人に示したものが図らずも写本として流布してしまうこととなったため、福沢はこれを公表することを決意し明治34年1月の『時事新報』に掲載、同年5月には『丁丑公論』を合本して、『明治十年丁丑公論 瘦我慢の説』として刊行したのである。この経緯は同書に収められた石河幹明「福澤先生の手簡及勝、榎本両氏の答書 瘠我慢の説に對する評論に就て」にくわしい。
この福沢の論難に対して勝海舟は、議論してもらってありがたいが、褒めるも貶すも他人のすることで、自分はあずかり知らぬことと韜晦した回答をし、もうひとりの榎本武揚は、多忙につきそのうち返答する、とこれも聞き流した風の返事している。
この「痩我慢の説」の公表経緯を考えてみると、福澤にとってはそれを公刊するというのは本意であったわけではなかったかもしれない。しかしながら、ともかく人の目に触れてしまった後に、活字化することを了承しているわけだから、これは福澤の持論であったことには違いないだろう。
こうしたことを踏まえた上のことであろうが、山田風太郎はこの福沢について、「これは、一生転向というものを経験せず、しかも論理的に士道という主義を讃美する論客が、いちどは死を賭して士道という主義に殉じようとし、その後転向した行動者に対して投げた弾劾状であった」と、微妙な言い回しながら、榎本の行き方、生き方を肯定している。しかしながら山田の考察は鋭く次のようにも小説の中で述べている。
「ただ。-それでもなおかつ。/ がんじがらめの薩長閥の中で、前政権の残党というハンディキャップを認めてやっても、彼が日本の近代化に貢献した業績は、果たして彼があえて生きのびたにふさわしいものであったかどうか」
「オランダ帰りのこの海将が、義と侠の旗の下に五稜郭で壮絶な死をとげていたら、あるいは彼こそ、維新の嵐における最大のヒーローとなり、それどころか永遠に日本人を鼓舞する幾人かの叙事詩的英雄の一人として残ったのではあるまいか、と作者は思う。―福澤の長嘆は、あながちまとはずれではなかったのである。」
長い引用になってしまった。これはもちろん、後世からの結果論ではある。しかしながら山田が福澤のことを、「転向」というものを経験せず、理論上において士道という主義を讃美する論客、と断じていることは興味深い。そして榎本に対しては、義と侠の旗の下に五稜郭で壮絶な死をとげていたならば、叙事詩的英雄の一人になって語り継がれたであろうと述べているのである。
ここには、日本の敗戦を23歳の医大生として迎えた山田誠也の原像と、50歳代半ばに作家としてこのように書いた山田風太郎のすがたとがないまぜになって書き込まれてある。榎本は最後まで戦うべきだったという気持ち、非業の死をとげた叙事詩的英雄として語り継がれるという感情、しかしながら「榎本はこのままで死ぬにゃ、日本のために惜し過ぎるよ」という発言をいったん肯定しようという気分、それらが、なにかよそ者の客観的な観測ではなく、山田にとっては自身の体験に基づいた切実なものであったということがよく読み取れる。
というのも、日本敗戦前日の8月14日(火)の日記に山田は次のような長い文章を書きつけているからである。山田はこう書いている。
「(アメリカの国民は世界の警察権を掌握するために無限の血を流しつづけることを了承しないという)この弱点を衝くには、今後十年とは言わない。僕の信じるところでは、あと三年戦いつづければよい。日本人はもう三年辛抱すればいいのだ。もう三十六ヶ月、もう一千日ばかり殺し合いに堪えればいいのだ。/ 敗北したときを思え」(『戦中派不戦日記』)。
悲壮感にみちた極限の日であったわけだが、山田誠也は、日本人としての誇りを守るために、確かにこのように書いたのである。そして山田風太郎は、この「青年山田誠也」をずっと引きずって、それ以降も生きてきたのであった。
吉岡艮太夫・榎本武揚・福沢諭吉らそれぞれに対して、鋭くときに辛辣な筆致ながらも、そのどこかに、こころ優しく、またいたわりのこもった細やかな筆遣いを感じるのも、山田はこんな時代を生きてきたがゆえのことであった。
そのように書き綴っていく山田風太郎に、わたしはこころから共感する。 
2022年5月13日 記

補記1:
『山田風太郎明治小説全集 6』に所収の「東京南町奉行」のなかでも山田は、勝海舟と福澤諭吉の「瘦我慢の説」の前哨戦の舞台をしつらえていた。万延元年1月に咸臨丸でアメリカに渡った連中の何人かが、軍艦奉行だった木村摂津守宅で懐旧談をするという席でのことであった。ここに福澤も出席したことになって、そこに遅れて勝も参加してくる。
この場で福澤は、「瘦我慢の説」を先取りする形で勝に食って掛かるのであった。内容は「最後の咸臨丸」で山田が述べているのと同様であって、勝は実際にはまだ敗れていない徳川勢に対してあらかじめ敗北を想定し国家の大権を放棄して江戸城開城に向かったがそれは「瘦我慢」の士風を損なう、というものである。
それに対して勝は、これも後年の「瘦我慢の説」による批判を先取りしたものだが、「進退は私の責任、御批判は他人の自由」といったきり、煙管から煙の輪を吹いているだけだった、その鷹揚さに根負けした福澤は憤然として席を蹴って逃げ出した、と山田はその顛末をしつらえている。
そして書き手の山田はといえば、この福沢の「瘦我慢の説」で述べられた福澤の持論をわが身に引き寄せ、「それから約五十年を経て昭和十六年、あるいはさらに四年を経て昭和二十年、それぞれ最後の選択を迫られた経験を持つ後代われわれの心をなお立往生させるものがある」と書く。山田はこの戦争の開始と終戦という場面を体験して、いまなお「立ち往生」をしているのである。
ところでこの「東京南町奉行」は、これら咸臨丸のメンバーが主人公であるというわけではなく、この会の席に同席した林頑固斎がいわば主役であった。山田はこの小説の最後で、林頑固斎というのが、明治にまで生き延びた鳥居耀蔵であるとあかす。
鳥居耀蔵は、林述斎の第七子で旗本の鳥居家の養子となり、幕府に出仕して昇進し、目付や南町奉行として厳しく市中を取り締まった。水野忠邦の天保の改革のもとで、時の蘭学者渡辺崋山・高野長英・小関三英らを摘発・弾圧をした人物として知られる。庶民にとってもまた学者文人にあっても、蛇蝎の如くに嫌われていたとされる人物である。
小説では、明治維新後の社会情勢を見続けていた鳥居が、維新後の咸臨丸乗員の意見・識見を聞き、心乱れ動かされるという設定になっている。

補記2:
わたしは山田風太郎のこの小説を『山田風太郎明治小説全集 3』(筑摩書房 愛蔵版 1979年)で読んだが、この巻末に、山田風太郎と森まゆみの対談が載っていた。その最後のところで、森が、「しかし相当調べられたんでしょう。うれしそうに楽しそうに書いてらっしゃいますよ。手品みたいに、人物を出すときなど。」といったあと、森が「資料はどうやって集められたんですか」と聞くと、「いやそのころ、出入りの親切な古本屋がいてね。しょい呉服じゃないけど、古本を風呂敷包みにどっさりしょって、ここまで上ってくると、山の上だから玄関に倒れたっきり、もう動けん、ちゅうから、じゃあ全部置いてけ、と」と言ったと答えている。この山田の斜に構えてけむに巻くといった受け答えが、いかにも山田らしい。
ところで、同じように古本屋から本を買い集めて一大蔵書を形成した国文学者松井簡治の場合は、こんな風には言わない。
松井は、帝国大学国文学科選科を卒業後に学習院の国文学教授となっていたが、在学中には利用できた帝国大学の図書館の利用ができない。やむなく松井は、他を頼りにせず自分で集めよう、とばかりに高倉屋から古書を購入する。国語国文関係の本を持参するよう頼んだところ、朝倉屋は人力車一台分を運び込んできた。代金はと聞くと百円という。平凡な書物ばかりだったが松井はそれをすべて購入する。一週間後にまた一台分、これも大したものはなかったが全部を購入した。三度目に持ってきたときにはもう選んでもいいだろうと考えて良いものだけを買うことにしたのだという(松井簡治「わが蒐書の歴史」『書誌学』第七巻第二号)。
これらの松井蔵書の和書 5902部17016冊は昭和11年に静嘉堂文庫に入れられた。そして昭和14年には索引共で六百頁の『静嘉堂文庫国書分類目録 続』が編まれたのである。
山田風太郎の資料集めも、松井簡治の資料集めも、ともに古書店からの運び入れであったが、資料をどうやって集めたのか、その古本屋にたいしていかに対応したかwということを説明するとき、このお二人の姿勢が大きく異なっていることに興味を覚える。
そんなことも考えながら、山田風太郎の「地の果ての獄」のあとに載せられてあった「東京南町奉行」を読んだのであった。 2022年6月19日 記