ブログ・エッセイ


NEW!! 山田風太郎、山田風太郎記念館、関宮、関神社、銀海酒造、橋本治

就寝前や、夜中に目が覚めて寝られないときなど、スマホアプリの「NHKラジオ 聞き逃し」を聴いている。なかでも「朗読の時間」がお気に入りだ。少し前に、この朗読で、山田風太郎の「あと千回の晩飯」を聞いた。山田風太郎といえば但馬の関宮出身だったことを思い起こした。
わたしの両親の墓が但馬の村岡にあり、年に一度は、旅行がてら、兎和野高原のリゾートヴィラハチ北という宿に泊まって出かける。この宿は、昔は「ロッジかどま」と言っていたが、その時代から泊っているからもうかれこれ20年以上にはなろうか。
関宮が村岡の少し手前に位置していることから、車を運転していた時には、関宮に寄って「銀海酒造」に行き、お酒を買ったり、関神社にお参りしてカヤの木を見学したりしたものだ。ハチ北の宿で飲む「寺田」という酒が旨いので、どこの酒蔵かと思って確認したら、関宮にある銀海酒造の酒だったのだった。
銀海酒蔵や関神社のすぐ近くに山田風太郎の記念館があることは知っていた。以前通った時には火曜開館だったか、週に1、2度しか開けていないと記憶しているのだが、サイトで確認してみたらおおむね毎日開けているようだ。次回の墓参では、全但バスを関宮で降りて記念館に行ってみようと思う。
山田風太郎はこれまであまり読んだことのない作家だった。流行作家だという先入観があり、時代小説ということもあって敬遠していた。食わず嫌いはよくないなと思い、また記念館に行くなら少し読んで山田風太郎のことを少しでも知っておいた方が楽しいだろうとの動機から、京田辺の図書館で『柳生忍法帖』と『戦中派不戦日記』とを借りて読んでみた。
『忍法帖』、これは面白すぎて、読み出したら止まらない。これでは、他のことに手を付けられなくなりそうだなと、意気地のないわたしは、この上下の二冊で打ち止めにしておいた。
そしてもう一冊の『不戦日記』、これはなかなか読み応えのある本だった。昭和20年1月から12月までの日記だが、この敗戦前後、ここには風太郎(山田誠也)青年の、この時期の思いや思考がぎっしりと詰まっている。日付を追った日記ではあるのだが、その一日に書かれた文章の分量はかなりのものだ。山田風太郎の一生の思考スタイルの基礎は確実にここで決まったな、と思わせるほど、壮大で奥深い内部世界がぎっしりと書き込まれてある。何と言ったらいいか、こういう人の文学は、信頼してよいなと思わせる、そんな内容だった。そして、日記自体が文学になっている。
わたしは角川文庫版を読んだが、その巻末についている橋本治の「解説」もよかった。橋本は、この日記については、つぎの二点に触れないわけにはいかないとして、「四十年前にこういうことがあった、ということと、四十年前にこういう記録を綴ったその青年のこと」と述べる。「その青年」についていえば、複雑な家庭環境やそこから生まれ出る孤独がにじみ出ている。そこからは、医学生として出征から免れた「傍観者」性、また状況への「当事者」性、それを記録している「記録者」と、それらが絶えず行き来し錯綜しているさまが読み取れる。
そして、皮肉で逆説的なことだが、運命の年である昭和二十年は、山田青年にとっては、「絶望的状況に日本という国が初めて、歩み寄ってくれた年」となったと橋本は述べる。この皮肉な歩み寄りにより山田青年は、状況への「見事な客観性」と、「率直なる主観性」とを獲得した、というわけである。
この日記を貫いている一つのことは、こんなひどい状況にあってもなお、人が呑気でよく笑うということだった。そのように山田青年が感じることができるようになったのも、日本という国が、初めて山田青年の絶望的状況に見せた「歩み寄り」、まことに皮肉な出来事に根差しているのだと橋本は説明してくれる。
その通りだと思う。敗戦直前の日本の絶望と、山田青年の絶望とは、よく見合っているのだ。個人と国家とは位相が異なるじゃないかといわれるかもしれないが、わたしは断固として、その通りだと考える。個人のそれは、国家のそれと、時に同伴し時に対峙して、よく釣り合っているのだとわたしは強く思っている。
2021年2月2日 記