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NEW!! 5 榛葉英治、満洲国外交部、『満州国崩壊の日』、『八十年の現身』、吉野治夫、林鹿雄、山本永清、下村信貞、下村虻郎、高碕達之助、坂野比呂志、文化財処理委員会

『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
5 榛葉英治
榛葉英治(しんば えいじ)は、昭和11年に早稲田大学英文科を卒業し満洲国外交部調査司二科(欧米)に勤務、昭和19年1月応召となり終戦を迎えたあと新京でソ連軍の捕虜となった。10月南嶺収容所から脱走、引き揚げののちは仙台の東北連絡調整事務局に勤務、退職して本格的に作家生活に入った。『月刊満洲』には、終戦の年の昭和20年5月に「政治について」を書いている。
この榛葉については、自伝的小説『満州国崩壊の日 上・下』(評伝社1982年、1984年)および自伝の『八十年の現身』(新潮社 1993年)がある。榛葉を「小木良平」名で登場させた『満州国崩壊の日 上・下』の「あとがき」には 、「作者の体験、体験者の手記、歴史的記述を基にして創作の一部を除いては、すべて事実を書いたものである」と書かれてある。もうひとつの『八十年の現身』、これは榛葉の自伝で、その「あとがき」に、「すべてが事実であり、創作はいっさいない」と明記している。そんなことから、ここではこの二書によりながら満洲時代の榛葉の履歴を書き留めておきたい。

渡満し大連で憲兵隊の通訳となる
榛葉は大正元(1912)年、静岡県掛川市の生まれ、昭和11年に早稲田大学英文科を卒業した。学生時代から、「満洲には壮大な夢と理想がある」と考えていた榛葉は日本では就職せず、母の異母弟である音楽家の叔父村岡楽童を頼って大連に渡った。村岡楽童は『満州国崩壊の日』では「村野楽堂」の名前で登場する。楽童は本名を村岡祥太郎といい、満洲国国歌を作曲した人物だ。明治40(1907)年に中国に渡り、大連の地では作曲および指揮者として活動した。

(補注)村岡樂童も『月刊満洲』昭和12年1月号に「僕の遺言」を書いている。村岡は明治14年生まれ、青山学院普通科2年から上野音楽学校に転じチェロ科を専修。名古屋の鈴木バイオリン製造所・名古屋県立女学校・淑徳女学校・名古屋裁縫女学校などの音楽教師を経て、明治40年ごろ、エール大学出身の渡邊龍聖の推薦で天津の直隷省立音楽学校の総教習に就任。大正3年、オデッサーに研究に向かう途上世界大戦のため断念し満洲に入って関東庁学務課嘱託。大正4年12月大連ヤマトホテルに村岡管弦楽隊を組織、大正8年満鉄ヤマトホテルの専属となる。その後は大連高等音楽院・第一中学・羽衣女学院で教鞭をとり、山田耕筰主宰の日本交響楽協会大連支部長を務めた。童謡の作曲また満洲国国歌の制作にも関与した(『満洲芸術団の人々』)。

そんな楽童を頼って満洲に渡った榛葉は大連で暮らしをたてようと試みた。志望は満洲日日新聞の記者または満鉄への入社であった。だが満鉄には採用がなく、叔父の楽童もそうした関係者を紹介してくれる様子はない。やむなく中央放送局のアナウンサー試験を受けるも実地試験で落ちた。税関吏の試験も英語会話で合格できなかった。そしてようやく、関東軍の英語通訳の仕事を手に入れ、大連憲兵隊に配属される。仕事は外国船の船員や船客について通訳として調べるというものだった。

満洲国外交部の属官に
ある日大連の文話会の文学グループで活動していた満洲日日新聞の記者吉野治夫から文学同人「作文」への入会を勧めらた。しかしながら榛葉はそれを断っている。また日本にいたころに付き合っていた年上の女が大連までやってきて帰国を促したのだが帰国を断わり、気乗りしない憲兵隊の英語通訳を続けた。
榛葉は夕刻にこの女と大連の名門ダンスホール「ペロケ舞踏場」に出かけている。ペロケは、昭和12年にはトランペット奏者の南里文雄がホットペッパーズを率いて出演していた名門のダンスホールである。このことは、坂野比呂志や満洲慰問団の箇所で少し書いた。
さて榛葉だが、昭和14年7月には第二補充兵の召集令状を受け取っている。5月に起こったノモンハン事変のその後にそなえて内蒙古に配備されたのである。それは8月末には解除となった。
憲兵隊の仕事に気乗りのしない榛葉は、この年の秋に吉野を訪ねてあらためて転職を相談する。吉野は満鉄調査部の林鹿雄を紹介してくれ、林から弘報課の翻訳の仕事をもらうことができた。それを「内職」として始めた。そしてある日、大連のバーで満洲国外交部辨事処長の山本永清と出会う。この山本から、満洲国外交部への転職を勧められることになるのである。弘報課の「内職」で翻訳した『アメリカのラジオ放送網』を山本に進呈したところ、それが新京の外交部に回され、庶務科長の目に留まり、下村信貞政務処長に話をしてくれた結果だという。

下村信貞のこと
榛葉は『満州国崩壊の日』では辨事処長「山本一清」と書いているが、これが山本永清のことである。ちなみに、昭和17年の『満洲国官吏録』には「事務官山本永清」と出ている。また同じく『満州国崩壊の日』では、下村信貞のことは「上村信定」の名前で書かれてある。下村は、『官吏録』にはこの時点では「政務司長」として名前があがっている。榛葉英治は属官として名前が出る。
ところでこの下村信貞は虻郎(あぶお)という俳号をもつ俳人でもあった。戦後はハバロフスクに送られ、現地で病没した。下村虻郎の俳句6句が自伝『八十年の現身』に引かれてあるのでここに書いておく。シベリアへの強制連行で苦しんだ下村の無念のさまが目に浮かぶようだ。
春雷や吾にも怒れる心あり
どこまでも非は彼にあり蠅を打つ
夕焼けや虜人何れも黙し居り
星流る吾に佳き人皆遠し
手套縫う吾見れば蓋し妻泣かん
枯草や死に水を取る人得しと

評論を執筆し『月刊満洲』にも寄稿
外交部の採用が決定し、榛葉は欧米関係の調査二科の配属となる。新京に引っ越して南湖近くの独身寮に住み、そこから役所に通った。昭和17年4月には小野寺和久里と結婚する。和久里は奉天女学校の教師で家事と裁縫を教えていた。結婚式を新京神社で挙げ、進化街に新居を構えた。
職場では下村信貞次長が謄写版刷の同人誌「道草」を出すことことを提案、榛葉は編集委員の一人になった。そして榛葉は評論などを書きながら外交部の仕事に精を出す。『満洲公論』に「建国理念の肉体的顕現」を書いてそれが巻頭に掲載されたりもした。こうして新聞や雑誌からも原稿依頼が来るようになり、『満洲評論』からも原稿依頼が来た。満洲文芸家協会の評論部会の会員にもなった。そして昭和17年暮れに書いた論文「英国的知性の黄昏」がドイツ大使館の懸賞に二等に入選する。昭和17年 の暮れには日高元彦科長の推薦で大臣からの表彰も受けた。
昭和19年秋には一ヶ月の北京・南京・上海へと出張にも出た。当時の生々しい、というか不気味に鎮まった状況を体感して帰ってくる。榛葉が『月刊満洲』に「政治について」を寄稿したのは昭和20年5月号であるが、雑誌の編輯責任の城島舟禮は、通常数号先の掲載記事は決めているというから、この原稿はおそらくこの頃に書かれたものであろう。
出張から帰ってきて、榛葉は張家口の副領事に昇進する話があることを内々に聞かされる。しかしながら張家口は危険な地域でもあることから、もし辞令が出たら退職しようと決意していたのだったが、この異動より先に召集令状がきて、昭和20年2月に新京で応召となった。満鉄沿線駅に駐屯して軍の輸送を管理する四十七停司の要員として鞍山駅に配属となる。非番の時間を利用して鞍山市立図書館で『満洲評論』の原稿を書いたりもした。その後内蒙古の鄭家屯、さらに通遼分遣所に移動する。

終戦、新京の南嶺で捕虜に
昭和20年8月、通遼分遣所でソ連軍の南下を知る。13日に撤退命令がきて列車で鄭家屯へ移動、ここで終戦となった。榛葉らはさらに梅河口に移動し新京の鉄道司令部の指揮下に入った。新京(長春)でようやく妻子と再会するも榛葉は司令官の中佐の当番兵となっており、鉄道部隊を除隊にならず、建国大学・大同学院・師道大学のあった南嶺地域に移動、師道大学に自分たちの手で有刺鉄線の工事をした捕虜収容所に収容されることとなった。このままではシベリア送りになると考えた榛葉は脱出を考える。10月になり長春駅で使役があると聞かされ、一番に希望し作業に出て、ここで脱出に成功した。
こうしてようやく新京進化街の家族とも会うことができ一緒に暮らすのだが、「脱走者」である榛葉は、そのことがばれるとソ連兵に引っ張られてしまう。そこで榛葉はは長谷川濬の助言で公安局の区分署の白という主任を訪ね、居住証明を発行してもらった。この長谷川濬は、大阪外国語大学を卒業後、資政局自治指導部訓練所(のち大同学院)で訓練を受け、修了後の昭和7年、満洲国外交部文書係に勤務した。濬の弟は長谷川四郎で、大連図書館・満鉄調査部にも勤めた作家である。長谷川濬は昭和12年満洲映画協会に移り、終戦時には理事長甘粕正彦の自殺場面を目撃している。

慰問の演劇、演芸
長春と改称した新京では元満洲重工業開発会社総裁の高碕達之助が日本人会会長として、残留と引き揚げの活動していた。高碕にはその貴重な体験を記した『満洲の終焉』(実業之日本社 1953年)の著作がある。榛葉も高碕のことを『夕日に立つ』(日本経済新聞社 1975年)で描いている。
戦後の新京には、慰問団として来満した役者や芸人も多く取り残されて在住していた。そんなこともあり、榛葉は長谷川濬と相談して芝居の上演を計画する。劇団は文化座、演し物は三好十郎「彦六大いに笑う」であった。これは3月23日から29日まで吉野町の新京の公会堂で上演された。山形勲・河村久子・鈴木光枝らの出演であった。
文化座というのは昭和17年2月に井上正夫演劇道場を脱退した佐佐木隆・鈴木光枝らによって結成された劇団である。文化座は昭和20年6月に東京新聞からの満洲巡演の企画に応じて渡満し、20日には新京公会堂で公演を行っている。その後、哈爾浜・牡丹江・佳木斯・奉天・撫順・大連・鞍山・安東などの公演予定であったが奉天公演に備えて奉天に移動したところでソ連の参戦を知ることとなり、以降の公演は中止となった。この文化座に、榛葉と長谷川が依頼し実現したというものであった(大笹吉雄『女優二代 鈴木光枝と佐々木愛』集英社)。
ところで少し寄り道になるが、新京には終戦前に慰問団として渡満した坂野比呂志らも取り残されていた。その手記によれば坂野は四平街で終戦を迎え、満洲演芸協会のある新京に戻り、満芸の親会社満洲映画協会に出向き、そこで甘粕が引き出した預金から五万円を受け取っている。そのあと甘粕は自死するのだが、ある日、満映の寮に居住していた坂野のもとに軍服姿の将校と軍曹が訪ねてくる。南嶺の捕虜収容所にいる同胞を慰問してくれと依頼したのだった。そこで坂野は、浜田リナ・リサ、泉けい子、坂野・美津子ら総勢8人で南嶺の収容所で慰問の演芸を行なった(『香具師(やし)の口上(たんか)でしゃべろうか』草思社 1984年)。榛葉の小説にはこの坂野らの興行は出てこないが、慰問の時期は、良平(榛葉)が収容されていた時期と重なっていたのではないかと思う。

引き揚げまで
日々の生活に精一杯であった榛葉は、蓄蔵してきた本を風呂場に積み上げ、風呂の焚き付けに使った。それらの中には、石原莞爾『大東亜聯盟論』や『世界最終戦争論』、またヒトラーの『マイン・カンプ』などもあったという。このことを榛葉は自伝の中で、「これは私の「焚書」でもあった」と述べている。それは生きていくための榛葉の焚書であった。
長春には、八路軍と国民党軍の内戦が波及し穏やかならぬ日々が続いた。長春の日本人らは、終戦時ソ連の進駐に対してはソ連の国旗、国民党軍の入城の折には青天白日旗、八路軍にとって代われば赤旗を用意し、その時期の支配者に合わせてその旗を掲げた。
やがてソ連軍は、略奪や強姦の限りを尽くしたうえで撤退する。撤退に当たっては、工業資材や家具までも戦利品と称して持ち帰っている。このソ連軍の撤退により、国民党軍と八路軍との内戦は一層激しさを増していった。
そして昭和21年6月になり、ようやく内地引き揚げの情報がもたらされる。長春の「日本人居留民会」の看板は「長春市日僑善後連絡処」と付け替えられた。引き揚げの中継地は瀋陽で、ここの日僑俘管理処と連絡を密にして引き揚げを待つ。引き揚げ港は葫芦島で、途中の錦西の街が引き揚げの集合地であった。
引き揚げは7月25日と決定、榛葉は長春市第49大隊中隊長に指名され、引き揚げの任務に励んだ。持ち帰り品は厳しく制限されていて、榛葉は裏の畑で学生時代からの日記、ノート類、原稿を焼いた。論文が掲載された『満洲評論』も焼いている。買いためた本は二階の部屋に残したままにしておいた。
実は戦後の昭和 21年初夏、この新京(長春)の地では、日本人の所持していた絵画や美術品・図書などを、杉村勇造(満日文化協会常務主事)や藤山一雄(満洲国立博物館副館長)、瀧川政次郎(満洲国立中央図書館籌備処長)らが相談して収集し保全しようと試みた。日僑俘善後連絡処の予算で買い上げて整理し中国側に引き渡すための「文化財処理委員会」を結成して活動していたのである(『資料展示図録 終戦時新京 蔵書の行方』)。そんなことからこの榛葉の蔵書も、その「文化財処理委員会」の収集資料のなかに組み込まれた可能性がないでもない。
引き揚げの決まった榛葉一家は列車に乗り、中継地の錦西にまでたどり着いた。ここでも引き揚げ者にまじっていた芸人たちにより、夜には演芸会も開かれたのだという。こうして榛葉らは内地の土を踏むことができたというわけであった。

むすび
以上、榛葉英治『満州国崩壊の日』および『八十年の現身』をもとに、かれの満洲での足跡を辿ってみた。『満州国崩壊の日』の「あとがき」では、「実在でも小説化した人物は別名にした」とある。先に述べたように、榛葉英治は「小木良平」、作中名の叔父「村野楽堂」は本名が祥太郎の村岡楽童である。満洲映画協会で巡映課長を務めた大塚有章も「大塚雄章」、外交部の下村信貞は「上村信定」と書かれてある。ただこの下村に関しては、「上村信定」と作中名で書いてきたあとに、「下村信定」と出たりする(61p)。うっかりと書いて校正で見逃したのであろう。よく似た作中の登場人物として登場させて混乱したのかもしれない。
わたしはこの二作を読んだが、1993年に書かれた自伝『八十年現身の記』(新潮社)よりも、1982年の『満州国崩壊の日』(評伝社)の方が面白く読めた。描かれている場面が戦前の満洲であり、歴史的事象として読むことができたからであろうか。
一方の『八十年現身の記』は、とりわけ戦後に登場する文壇仲間や親類縁者などが実名で書かれてあり、読んでいて時に辛くなる場面もある。文壇仲間や出版関係者は、いわば表現に連なる仕事をしている人たちであり、著作や刊行物を読むこともできることからやむを得ない気もするのだが、親類縁者の場合はちょっと様子が異なるかと思う。あしざまに書かれた箇所を読んだりすると、思わず視線をそらせたくもなる。
ところで、そうした榛葉が厳しい視線を送っている人物の一人に、『満州国崩壊の日』を刊行した評伝社社長緒形隆司がいる。榛葉は緒形のことを憤懣やるかたない筆致で書き綴っている。
この『満州国崩壊の日』は上下巻の1100枚ほどもある大作であるのだが、榛葉の書くところによると、これは緒形から満洲体験を交えて満洲国のことを書いてみないかと言われて書いたものであった。ところが緒形は、出来上がったこの本を取次店経由とせず、書店を歩いて配本したのだという。すべてではないであろうが、その流通経費を惜しんで一部を直接書店に持ち込んだということなのかもしれない。
その結果というか、ある日榛葉は、この『満州国崩壊の日 上下』が神田の古本屋にゾッキ本として積まれているのを目にするのである。ゾッキ本というのは、再販制度で守られた「定価」を外した本のことで、自由価格本・バーゲン本・見切り本のことである。
この『満州国崩壊の日』は、ここまで書いてきたように、渡満して満洲国外交部に勤務し、当地で終戦を迎えて苦難のすえ引き揚げまでの全過程を書いた榛葉渾身の自伝的小説である。榛葉はこの本のことを、「自分の生涯にとって貴重な本」「生涯の本」と書いている。その通りであろう。終戦の後、引き揚げまでのあいだに榛葉は新京で子どもを病気で亡くしている。そんなつらい思いを交え、満洲時代の体験や交友関係のすべてを描き切った作品であった。それが古本屋の店頭でゾッキ本として売られていたのである。その怒りのほどはいかばかりであったろうか。榛葉には心から同情する。

蛇足-わたしのゾッキ本
というのも、実はわたしも同じ経験をしたことがあるからである。1986年に青弓社から処女出版として刊行することのできた『表現としての図書館』のことだが、これが発売後しばらくたってから、自由定価本として難波の本屋に出ていると同僚から教えられたのであった。それを聞いた時、著者のわたしに無断で自由定価本として流した版元の社長に対し、怒りにふるえた。
わたしはすぐさま出版社に連絡して社長に、「残りの本がまだ出版社にあるようならそれを自由価格本として出した原価でわたしがすべて買い取る」と言ってしまった。そんなことから版元にあった残りの本のすべて引き取ることになってしまったのである。狭い家にうず高く積まれた自著の山に、しばし呆然としたものである。そしてさらに、その時自由価格本として市場に出した原価が、これまたまことに安価で、ここでわたしはもう一度がっくりきたのであった。
自由価格本で自著が流通すると古書市場でもその本は「荒れる」。本の小口には「B」の赤印が押され、目録などでは「地に丸B印」などと記される。自由価格本であるという烙印が押されるのである。それからというもの、わたしは古書店でそんな自著を見つけたらためらいなくその本を購入してきた。
そんな切ない体験だが、役に立ったこともあるにはある。大学では、「現代出版論」や「図書館資料論」などの授業を担当したが、その授業で、出版物の定価販売制度、つまり再販売価格維持制度の授業を行う時に、「これが再販外れになった残念な本です」と、「地に丸B印」の自著を見本として示すことができたのである。役に立ったといっても、これくらいのことであった。
余計なことを書いてしまった。榛葉英治が、自分の「生涯の本」であると考えて出版した『満州国崩壊の日』が、神田の古書店でゾッキ本として並んでいるのを見たときの、愕然とした思い、その怒りに共感するあまり、自分のことまで書いてしまった。
この榛葉英治の『満州国崩壊の日 上下』をわたしは、京都府立図書館経由の相互貸借で借りて読んだ。実はこの本は、京都府立図書館にも所蔵がなく、府内の図書館では長岡京市の図書館にしか所蔵がなかった。通常であれば、府内の図書館でももう少し購入されてしかるべき本であると思われるのにと不思議に思った記憶がある。そこには先のような裏事情があったのかもしれない。 2023年2月17日 記