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NEW!! 日高丙子郎、大道学館、鳥尾小弥太、川合清丸、本荘宗武、『大同雑誌』、日本国教大道社、長谷川好道、間島、間島省、山崎弁栄、光明会、光明学園、満洲国治外法権撤廃、満鉄附属地行政権移譲、王道書院、鄭孝胥、金珽実
日高丙子郎と王道書院
日高丙子郎-渡満まで
協力貸し出しで京都市立醍醐中央図書館の佐々木到一『ある軍人の自伝』(中国新書 昭和38年)を読んだのだが、この本にたまたま「西谷喜太郎文庫」のラベルが貼ってあったことから、この西谷喜太郎に興味を持ち、『西谷喜太郎論集』を読んでみた。この『論集』には、終戦期満洲の通化で西谷が遭遇した通化事件などの回想が収められてあり、また西谷も教授として勤務した王道書院のこと、書院の副院長日高丙子郎のことにも触れられてあり、たいへん面白く読むことができた。そんなことから、西谷喜太郎の事績とともに日高丙子郎や王道書院のことを少し調べてみようと考えた。それが本稿を書くきっかけである。
日高丙子郎は明治9年長崎県壱岐の生まれ。17歳の明治25(1892)年、壱岐の地で週刊『青年新聞』を刊行、35号まで続いた。その後京都に向かい、禅宗大徳寺の旧般若林・紫野中学に入学、明治28(1895)年には上京して大道学館に入った。大道学館というのは政治結社「日本国教大道社」の教育機関である。日本国教大道社は明治21年に鳥尾小弥太・川合清丸・本荘宗武らが設立した政治結社で、日高はその機関誌『大道叢誌』の編輯を明治37年から2年間務めた。
日高は、壱岐の時代からこの『大道叢誌』を愛読していた。結社の名にある「国教」とは神道・儒教・仏教を融合させたもので、大道社は欧化主義反対を主唱した。日高はこの日本国教大道社の時代に、鳥尾小弥太の影響を大きく受けた。
島尾小弥太は中国間島省に日本人の理想郷を作るという構想を持っていた。日高はその影響を受けて渡満、それは明治39(1906)年1月のことである(以下の論述は、槻木瑞生 北原拓也「中国吉林省 間島光明学校の展開―「満洲」における日本の朝鮮族教育政策と日高丙子郎」『戦前日本の植民地教育政策に関する総合的研究 平成4・5年度科学研究費補助金(総合A)研究成果報告書』研究代表者阿部洋 1994年3月、槻木瑞生「光明会と日高丙子郎」『日中両国の視点から語る 植民地期満洲の宗教』柏書房 2007年、竹中憲一『「満州」における教育の基礎的研究』柏書房 2000年、金珽実「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか―金躍淵と日高丙子郎の教育活動の比較を通して」『韓国言語文化研究』20号2013年6月、「日高丙子郎【宗教・教育】」『満洲・間島における日本人-満洲事変以前の日本語教育と関連して』花書院 2017年に所収、福嶋寛之「「満洲国」治外法権撤廃と朝鮮人在外指定学校」『韓国研究センター年報』22 九州大学 2022年3月、および『西谷喜太郎論集』西谷喜太郎論集刊行委員編刊 1995年、などによる)。
明治39(1906)年満洲に渡った日高は、まず満鉄沿線の鉄嶺に住んだ。2月には尉官相当の参謀本部嘱託という身分で鉄嶺軍政署に勤務する。翌明治40年に間島に移動し、9月には間島天宝山の銅鉱山の主任を務めている。明治43(1910)年7月間島侍天教長、大正元(1912)年には雑貨・穀物などを扱う延吉洋行に関わる。また大正5年には寺内正毅の紹介で鈴木商店嘱託などを務めている。
侍天教というのは朝鮮の民間信仰で、儒教・道教・シャーマニズムを混交の宗教、政治的に先鋭化して東学党になり、その後に李容九が再興した。鈴木商店は神戸で樟脳や砂糖貿易により成功を収めた商社である。
渡満した日高だが、日高はこの渡満およびそれ以降にあっても多くの有力な人脈により支えられていた。前掲の、槻木瑞生 北原拓也「中国吉林省 間島光明学校の展開―「満洲」における日本の朝鮮族教育政策と日高丙子郎」には、島尾小弥太・寺内正毅・斎藤実・明石元二郎・荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎・甘粕正彦らの政界や軍関係、また渋沢栄一・井上準之助・松永安左衛門・熊本利平ら財界人、そして張作霖・楊宇霆・王永江・鄭孝胥など中国の要人、さらには間島の商埠局長や軍団長らの地方の役人らがあげられてある。
間島は現在の延辺朝鮮族自治州の一部で多くの朝鮮民族が居住する。明治42(1909)年の日清協約により中国(清国)の支配が確定したが、いずれにしても抗日運動の盛んな地域であった。こうした抗日運動に対して朝鮮総督府は朝鮮族への融和政策を展開する。明治40年には日高は韓国駐箚軍司令官長谷川好道から資金を得、また朝鮮総督からも機密費を獲得して融和活動の一端を担った。そしてその資金により現地で鉱山経営や商店を営んだりしたわけである。
日高丙子郎と光明会
間島地域で抗日運動が活発化し、大正9(1920)年には領事館が襲われる琿春事件が勃発した。日高はこの前年の暮れに光明会に入信している。日高はこの光明会の活動として、間島での教育事業などを展開していくことになるのである。
光明会というのは、浄土宗の僧侶山崎弁栄が開いたもので、弁栄は修行ののちに光明主義を唱え、大正3年(1914年)如来光明会を起こした。これがのちの光明会になる。
日高が光明会に入信したのは大正8年12月のことである。12月31日に知人の誘いで神奈川県の時宗当麻無量光寺の弁栄を訪問したのであるが、弁栄の人柄に打たれて帰依し、すぐさま入信したという。入信してまもなく、日高は間島の地で光明会の活動として教育事業を展開しようとする。
大正10年10月に日高は「光明会設立許可願」を間島総領事館に提出し許可が下りた。満洲の地で「光明会」を設立し、正式に光明会を名乗ることができたのである。そしてこの認可を受けた光明会の名前のもとで教育活動を繰り広げていくことになる。こうした間島の社会事情や日高の光明会入信など考え併せてみると、日高は、行き詰まりを見せていた間島省での融和活動の、理念また中心軸を希求していたちょうどその時に弁栄に出会い、光明会に入信したということになろうか。
ここでこの山崎弁栄および光明会のことを少し述べておく。光明会とは、如来光明主義を唱える山崎弁栄が創設した会である。弁栄は安政六(1859)年、千葉県手賀沼のほとり鷲野谷の生まれである。弁栄は、明治維新期の神仏分離また廃仏毀釈の時にあっても「是々非々の中庸」の態度をもって生き、明治10年代に手賀沼にギリシア正教手賀沼教会が出来たおりにもこの神父たちと行き来があったとされる。東京に出てからも、浄土宗のみならず仏教各宗派について広く学んだ(佐々木有一『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(春秋社 2015年)。
弁栄の光明主義は、明治30年代半ばぐらいからその萌芽がみられ、40年代には宗教体系がまとまり、大正3(1914)年「如来光明会趣意書」、大正4年には「如来光明会礼拝式」が刊行された。大正5年には浄土宗総本山知恩院で僧侶を対象とした教学高等講習会で講師を勤め、大正7年には時宗大本山無量光寺の法主に就任した。弁栄は大正9(1920)年12月4日に死去したのだが、弁栄の光明主義の教えは徐々に広まりを見せてきていた。
このように弁栄の光明主義は、仏教各派だけではなく他の宗教からもその思想を広く受容し、キリスト教やギリシア哲学にも触れていた。弁栄はその出自の浄土宗および仏教一宗派に閉じこもることなく、ただただ光明を求め、力を尽くして精進すべきであると説いたのであった(若松英輔『霊性の哲学』角川書店(選書)2015年)。弁栄は一宗派にとらわれず、人間の内面に存在する霊性や壮大な内部世界、宇宙の大いなる神秘さと共鳴し通じ合うための道筋・道理を説いたのであった。
日高は、大正8年12月31日に神奈川の当麻無量光寺に在った弁栄を訪問し、その場で弁栄の人徳と教えに深く感銘を受けてすぐさま帰依したとされる。日高はこの弁栄の宗教・宗派に対する姿勢にも共感するところが大であったのだろう。日高が入学した大道学館、そして神道・儒教・仏教を融合させた「国教」を旨とする「日本国教大道社」の教えと幾分かは共通性を感じたのかもしれない。このことを前掲の槻木瑞生 北原拓也「中国吉林省 間島光明学校の展開―「満洲」における日本の朝鮮族教育政策と日高丙子郎」では、「光明主義の構造は大道主義の構造と大変よく似ていると言わねばならない」と述べたあとで、間島での実情に鑑みたとき、「大道社と光明会は発想の構造は似ていても、日本から間島を見るのと、間島から日本を見るの違いがあると言わなければならない」と記している。その通りであると思う。
なお、もしも日高が弁栄と会見する以前に接点があったとしたら、大正5(1916)年6月の知恩院での高等講習会講演をまとめて12月に一音社から刊行された『宗祖の皮髓』を日高が読んだか、または大正6年7月から9月まで弁栄が朝鮮・満洲を巡錫したおりに会ったか、といったところであろう。回想には知人に誘われて訪問したということなので白紙からの対面であったかもしれない。
光明会の教育活動
大正10年10月8日、光明会の設立許可が間島総領事館から下りて「光明会」が正式にの設立となった。日高は間島での光明会の活動として、まず苦学する朝鮮族のための寄宿舎光明学園を設立する。そして 日本語・中国語・朝鮮語を教える光明語学校(大正11年2月開校)をはじめ、 光明女学校(5月開校)、さらに幼稚園や修養団・青年会・児童会を順次設立していった。民族や宗教の範囲を越えた道徳光明主義を掲げ、官憲にも好意を持たれるように武力を排し、もっぱら教育産業の振興を図ることで生活民度を高めようとしたのである。こうしたことから大正11年3月10日、金躍淵は光明会の賛助人になっている(前掲金珽実「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか―金躍淵と日高丙子郎の教育活動の比較を通して」所収の日高の意見書)。
いずれにせよ、これが日高の渡満の原点であり、中国間島省に日本人の理想郷を作るという島尾小弥太の構想に大きく影響を受けたものであった。その理想郷の建設の一つの手立てとして光明会の名のもとに朝鮮人教育活動を展開しようと考えたわけである。
このころから、間島朝鮮族の運動にあっても、日本との直接対決から民族自彊へと方向を変え、そのための教育事業が盛んとなる。大正9(1920)年3月の恩真中学校開校、大正10年4月の東興中学、5月永新中学、8月には大成中学が開校となった。しかしながらこれらの中学も資金の不足で学校の経営は困難となる。永新中学はやむなく朝鮮の蘇教総会に援助を求めた。そして苦しい学校経営のなか教育制度を改編し、より高次の教育を追求しようとした。
しかしながら大正14(1925)年4月1日、龍井村にあった朝鮮人中等学校である永新中学校はついに光明会の手に移ることとなる。光明会が永新学校を買収したのである。その資金は、朝鮮総督府や外務省によるものであった。反日運動の拠点でもあった永新中学を買収することで抗日運動を抑え込もうとしたわけである(このあたりの事情は金珽実「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか―金躍淵と日高丙子郎の教育活動の比較を通して」、また「日高丙子郎【宗教・教育】」『満洲・間島における日本人』所収に詳述される)。
こうして、日高の若かりし頃の夢、つまり間島の地での理想郷の建設は、日高が帰依した弁栄の光明主義・光明会の教えをバックボーンとして教育事業の中で展開されていったのであった。
日本と中国という二重の抑圧に苦しんでいた間島の朝鮮人にとっては、それはある意味では希望でもあった。間島の地で同じく教育事業を展開した金躍淵も大正11年3月10日には光明会の賛助人になった。また延吉道尹・延吉鎮守使・延吉警察署長が間島光明会の名誉会員に、延吉県知事・陸軍団長・龍井商埠局長が賛助会員として名を連ねている(金「日高丙子郎と光明語学校」『東アジア日本語教育・日本文化研究』24 2022年3月)。こうした事態を金珽実は、「「理想郷」建設は日高と間島朝鮮人との間の「同床異夢」であったと言える」と述べている(前掲「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか」)。
日高丙子郎と臨済宗
日高が帰依した弁栄の光明会は浄土宗から出たものであったが、日高はそれとは別に、臨済宗など禅宗関係にも多くの人脈を持っていた。少し後のことであるが、日高は満洲国の建国理念を築き上げるひとつの手立てとして禅宗の存在を考えてもいたという。斎藤実とも懇意であった日高は、斎藤が首相であった昭和7年5月から昭和9年7月の間に、臨済宗の方広寺や妙心寺・伊豆の龍沢寺などをよく訪問した(前掲槻木瑞生「光明会と日高丙子郎」)。方広寺は浜松市引佐町奥山にある臨済宗の寺で、昭和2年まで間宮英宗が管長を務めた寺である。英宗は国内だけでなく台湾・朝鮮・満洲・南洋などにも布教に出ている。龍沢寺は三島市の臨済宗妙心寺派の寺院で修行道場として僧堂を持っている。日高は、満洲国を「道の国」とするため、自らの人脈をたよって臨済宗の寺を回り、臨済宗山本玄峰の出馬を依頼しようとしたのである(前掲の槻木瑞生「光明会と日高丙子郎」)。
日高が壱岐から京都に向かい、禅宗大徳寺の旧般若林・紫野中学に入学したこと、上京して大道学館に入り、神道・儒教・仏教を合わせた日本国教大道社に在籍したこと、宗派に大きなこだわりをもたなかった光明会などからその影響を受けていることから考え併せてみると、こうした複線の思考も別段不思議なことではないであろう。
その後の光明学園
昭和6(1931)年9月の満洲事変そして翌昭和7年3月の満洲国成立にあわせて間島地域の教育事情は大きく変わる。版図の上では間島地域が満洲国の管理下となったからである。それにあわせて間島光明会の教育活動の意義は対的に薄れていく。
外務省は光明学園に対し財団法人化を指示した。個人経営よりも法人の方が管理しやすいからである。その結果、昭和9年10月には、財団法人の光明学園となり、永新中学校は光明学園中学部に、光明高等女学校は光明学園高等女学校となった。
これより少し前の昭和9(1934)年5月、光明学園中学部(当時は永新中学校)・高等女学部(当時は光明高等女学校)は専門学校入学者検定の指定校認定の申請を文部省宛に提出している。日本の高等教育機関への進学の道を確保しておこうと考えたのである。しかしながらそれは文部省に却下された。ただ文部省は、指定校認定を却下したのだったが、教員待遇の改善を目的とした在外指定学校の申請を示唆した。光明学園はこの申請を昭和9年11月に行なったところ認可されるにいたった。この結果、光明学園の中等部などは内地の中等学校と同じ資格を獲得したことになった。光明学園中学部から旧制高校・帝大といった進学への道が開けることとなったわけである(前掲の福嶋寛之「「満洲国」治外法権撤廃と朝鮮人在外指定学校」)。
財団法人光明学園となったことから、永新中学校は光明学園中学部に、光明高等女学校は光明学園高等女学校になった。これら光明学園には、日本人教員として安部恒平・松岡雄三・市山善美・片岡景二・佐々木敬介・樋口寛次郎・工藤重雄らが顔をそろえていた(竹中憲一『「満州」における教育の基礎的研究』)。
光明会のこうした教育活動は、一面では朝鮮族にとって利点として感じられる部分もあった。反発を受けやすい朝鮮総督府の直接的な資金投与ではなく、表面上は光明会また日高丙子郎の手になる経営と見られていた。朝鮮族の教育への要望もよく踏まえられていて、欽躍淵・孫鴻慶らも光明会の協賛者となり、そうしたことも光明学園が好意的に受け止められた理由の一つになった。大正11(1922)年3月10日には金躍淵も光明会の賛助人になっている。
ただもちろん、光明学校は平穏無事に経営されたわけではなかった。永新中学の買収および引き継ぎの問題、改組改編の問題、学生の抗日運動や同盟休校などなど様々な問題が絶えず噴き出していた。光明学園が、表面上は朝鮮族の教育についての要求にも応えていたとはいえ、日本の植民地支配といういわば根源的な問題が底流に流れている以上、真に平穏無事であるはずもなかった。
昭和12年12月には満洲国の治外法権撤廃、満鉄附属地の行政権移譲が実施される。満鉄などの管理下にあった機関も設置主体が満洲国へと移管された。財団法人光明学園も満洲国管轄下の法人となり、あわせてさきに獲得していた在外指定学校も解除となった。そして昭和14(1939)年1月には、光明学園小学部は満洲国の公立学校、中学部は満洲国 間島省立高等国民学校、女子部は関東省立女子高等国民学校に改組となったのであった。
なおカナダ長老教会が大正2(1913)年に設立した明信女学校があるが、これは後の昭和10年2月、その中等科を明信高等女学校と改称した。昭和12年12月の満洲国治外法権撤廃により同女学校は間島省立龍井明信女子国民高等学校と改称、さらに戦局が進んで昭和16年にはカナダ人宣教師が帰国、昭和18年5月に同女学校は、龍井市内の関東省立龍井女子国民高等学校に併合されている。この龍井女子国民高等学校は、日高丙子郎の運営していた旧光明学園高等女学部の後身であった。この時期には丙子郎はすでに新京の王道書院に転出しており、日高丙子郎の次男健三(明治35年生まれ) が女学校の学校長となった(花井みわ「満洲移住の朝鮮人女性-女子教育に焦点を絞って」、生田美智子編『女たちの満洲-多民族空間を生きて』大阪大学出版会 2015年)。
日高丙子郎、間島から新京へ
昭和12年12月の満洲国治外法権撤廃、満鉄附属地の行政権移譲によって光明学園の教育が満洲国の管理下に入るという大きな変化が起こったわけだが、ちょうどその時期の、昭和13(1938)年、日高丙子郎は間島での教育活動に見切りをつけるかたちで間島光明会の理事を辞し新京に向かった。満洲国元国務総理鄭孝胥の提唱する王道書院の副院長に就任してあらたに活路を開こうとしたのである。
いまここでわたしは、「見切りをつけるかたちで」と書いたのだが、日高が、間島の光明学園を辞して新京の王道書院へ移ったことについて、日高は間島の教育活動に「見切りをつけた」、少なくとも「切りを付けた」と思われてならないのである。
その理由と意味は次のとおりである。一つは、ここまで述べたように、満洲国の成立および治外法権の撤廃により、間島の教育活動・教育事情が大きく変化したことにあるだろう。間島で「理想郷」を築こうと渡満し、豊富な人脈を活用して資金を獲得して、教育活動や畜産・農園などの経営を行なった日高である。それらの事業が日高の思い描いた「理想郷」であったかどうか、またその一部でも実現したのかどうかはさておき、少なくとも間島のこれらの活動は、日高の手の届く範囲での活動であったということは言ってよいだろう。
それが満洲国の成立、なかんずく満洲国の治外法権撤廃により、光明学園の管轄が満洲国またその自治体に移っていくわけである。光明学園が、満洲国という大きな官僚機構の末端に位置するということに日高は耐えられなかった。これが日高の転身の大きな理由であろうと思う。
もう一つは「理想郷」といういわば美しい理念と、「現実」という狡猾でどうしようもない日々の出来事との落差に悩んだということではないか。もともと他国に乗り込んできて「理想郷」を建設するというのは、矛盾に満ち満ちた行動でもあり、「落差」も何もないことかもしれない。山崎弁栄の光明会の理念を掲げた教育事業ではあったが、そして一部に朝鮮人の共感を得た活動でもあったが、やはり目の前に次々と起こってくる現実の諸問題、たとえば、朝鮮族の抗日運動・抗日意識、学園での改組改編に伴う反対運動や同盟休校などなど、面倒な問題そして解決不可能な問題が絶えず噴出していた。日高はそうした現実問題に直面して、理想と現実との「落差」に心迷ったのだと思う。
満洲の一地方で朝鮮族が多く住む間島という場所から、満洲国の国都である新京への異動(移動)は、外から見れば「華麗なる転身」に見えるやもしれぬ。地方から中央へ、初等中等教育から高等教育へといういわば上昇気流ではある。しかしながら日高にとっては、それは、挫折感にもさいなまれた「都落ち」ならぬ「都行き」であったであったのではないか。若き日渡満の目的は、間島の地に理想郷を築くということであったわけであるから、である。
王道書院
日高が移っていった王道書院は、元満洲国国務総理鄭孝胥が創設した「満系」つまり中国人の子弟を養成する文科系の私立大学である。王道学院については、東方文化学院京都研究所の研究員から大同学院教授となった松浦嘉三郎の文章がある。それによれば、鄭孝胥が「大学」や「春秋」「孟子」などを中心とした儒学教育を行なう学校の設立を思い立ったのは昭和11年春ぐらいのことであったという(「王道書院を紹介す」『大亞細亜』5巻7号 昭和12年7月)。鄭孝胥は昭和10年5月まで国務総理を務めているから、この発起は総理の職を辞したあとのことになる。
昭和12年春ごろからその設立は具体化する。設立資金については、鄭孝胥が「建国功労金」として満洲国政府から受け取っていた公債から10万円を拠出した。松浦によれば、王道書院の設立については、蔡運升・馬冠標・曾恪・太田外世雄・金崎賢らと相談して準備をしたのだという。理事長には田辺治通が就いた。
王道書院は昭和12年5月2日、新京の軍人会館で発会式が開催され、6月1日には東五馬路の鄭孝胥邸で開講の運びとなる。王道書院では「講書」が重んじられ、「大学」や「春秋」「孟子」などが講じられた。
王道学院の院長には蔡運升が就いた。蔡運升は昭和9年間島省長、昭和11年満州中央銀行副総裁のち昭和15年5月に経済部大臣に就任し昭和17年9月には参議府参議となっている。
副院長に就いたのは昭和13(1938)年に間島から新京にやってきた日高丙子郎であった。そしてこの日高が王道書院の実務上の運営者となった。なお創設者の鄭孝胥は設立翌年の昭和13年3月に死 去している。
王道書院は中国系の学校であったが事務員には朝鮮人も多く、朝鮮の子弟の訪問も絶えなかった。間島省で朝鮮人教育に力を尽くした日高の人徳にも由ったのかもしれない。
「満洲唯一の満系子弟養成の文科系の私立大学」であった王道学院には、全満の中学を卒業してきた学生たちが入学してきた。一学年50名ほどの3学年構成で合計150名、女子学生は約30名いた。寄宿舎がありそこには50名ほどが起居していた(「日高丙子郎先生」『西谷喜太郎論集』西谷喜太郎論集刊行委員会 1995年)。
昭和18(1943)年4月には 西谷喜太郎が王道書院の講師に就任、翌年1月教授に昇進している。西谷は日高を慕い日高のもとで片腕となって働いた。昭和20(1945)年8月9日 ソ連が参戦しソ連軍が南下してくる。8月11日 王道書院の家族は通化に疎開、日高夫人と四男大三ら通化へ疎開した。西谷の家族も疎開した。
西谷喜太郎の事績をここに書いておく。西谷は大正6(1917)年京都府峰山町の生まれ。同志社中学、第三高等学校文化乙類から東京帝国大学文学部教育学科に進んだ。在学中には「アジア研究会」を結成、昭和15(1940)の大学在学中に友人数名と橘樸(たちばなしらき)を尋ね、また卒業論文の資料収集のため満洲国・蒙疆地区・華北を旅行した。大同の普北政庁最高顧問前島昇の官舎に滞在していたのだが、ここで、帰路には日高丙子郎に会ったらよいと薦められたことから、当初からの予定の中江丑吉と会ったのち、新京に立ち寄って王道書院副院長の日高丙子郎にも会っている。
西谷は東京帝大を昭和16年3月に卒業し4月には満洲に渡っている。満洲国熱河省隆化県属経済股長、そして昭和17年3月には熱河省地方職員訓練所教官を務めた。昭和18年4月には新京の王道書院講師となり翌年1月に教授兼総務科長となった。西谷は大学卒業後すぐに渡満したのだが、そのことについて、「祖国の不滅を信じ、満洲国の建設のために骨を埋める覚悟で、学窓をでるなり渡満して来た」と書いている。この西谷の渡満もいわば「筋金入り」であった。
さて王道書院だが、昭和20年8月9日のソ連軍参戦を受けて11日の午後、無期休学つまり解散式が執り行われた。ここで日高副院長の訓示なされ、西谷は学生に注意事項を述べている。
14日に日高は国務院を訪問し、その後王道書院にも立ち寄っている。王道書院の家族らはこのときすでに通化へ避難していたのだが、西谷は日高に対して、通化また東辺道方面への後退を進言した。日高はそれに答えて、「ここの所ですぞ。電光影裏斬春風という境地は」と、いま後退など考えるべき時ではないと「後退」を一喝した。斬る太刀も空、切られる自分も空、切るといっても光る稲妻が春風を斬るようなものだ、泰然自若、いま動く時ではないということなのであろう。
15日終戦。日高は文教部の帰路協和会に立ち寄っている。頭陀袋(ずたぶくろ)をさげた日高は協和会を出て王道書院の北の方角の総領事館方面に歩いて行った。しかしながらこの領事館付近では暴動が起きており、日高は暴動に巻き込まれて行方不明となった。西谷ら教職員はこの一帯をくまなく探してまわったのだが消息は知れなかった。ここで日高は亡くなったのだろう。日高の戒名は光明院殿心阿訥翁大居士。
まとめ
以上、日高の事績を先行研究に導かれて読んでいくと、日高が間島から帰国したときに山崎弁栄と会う機会があり、弁栄の人柄や教えに強く惹かれてすぐさま入信したこと、間島の地で光明会設立の認可を申請し、認可を受けた光明会の名のもとに間島での教育活動を展開したこともわかった。
弁栄の光明会については、たまたま今わたしが本にしようと準備している山口玄洞も大きく影響を受けている。玄洞は尾道の出身で、早くに父親を亡くし、大阪に出て丁稚奉公をし、独立して商店を起こして成功した人物である。光明会や念仏修行、禅道から大きく感化を受け、大正から昭和の初めにかけて、社会事業や教育事業、寺社とりわけ廃仏毀釈で荒廃していた寺院の再建や建立のため、一代で築いた私財を惜しげもなく投げ打ち、寄附・寄進に生きた実業家であった。
日高が、間島の地で融和事業を展開していた大正8(1919)年ごろ、事業を進めていくにあたり困難にぶつかり、そんなことから、何か強固なバックボーンを求めていたとそんなタイミングであったのだろう、日高が光明会に拠ったというそんな事情もよく理解できる。
昭和7年には満洲国が成立し、昭和12年12月には満洲国の治外法権が撤廃となった。光明会の名のもとに展開してきた日高の教育事業もこれで満洲国の管理下に入る。そんな変化を嫌ってのことであろうが、日高は昭和13(1938)年には間島光明会の理事を辞し、鄭孝胥元国務総理が創設した王道書院の副院長に就任した。王道書院は昭和12年5月に創設されている。
この王道書院副院長への就任というのは、日高にとっては大きな転機でありまた重大な決心であった。明治28(1895)年 の大道学館への入学、そこで鳥尾小弥太の影響を受けての渡満、そして大正8(1919)年12月の光明会への入信、これらと並んで王道書院への転身は日高の生涯の大きな画期で あったといえる。
この、満洲の一地方である間島の地から、国都である新京への日高の転身、これは外面的に見ると、〈地方〉から〈中央〉へ、朝鮮族の教育から五族協和という満洲国の掲げた国家理念へ、というように、より高次でより大きな目標・理念を目指すいわば立身出世であったように見えるかもしれない。またそれを、間島の朝鮮族の教育を踏み台にして、国都新京での高等教育へ、つまり五族協和の高度な理念へと飛びついたのだと人は言うかもしれない。しかしながらわたしは、本文でも少し述べたように、日高にとって、この間島での教育事業からの撤退は、それが中央に向かったものであっても、五族協和という高次の理念に向かうものに見えたとしても、だからこそ日高にとっては忸怩たる思い、挫折感・敗北感を伴なう「逃走劇」であったのではないかと思われてならない。なぜなら若き日の日高の渡満の目標は、間島の地で理想郷を建設するという所にあり、これが初発の目標であり原電であったからである。そして自ら帰依した山崎弁栄の光明主義をもって展開したものの、結局はそこから撤退をしていったわけであるからだからである。
王道書院において日高のもとで働いた西谷喜太郎の回想文には日高のことが時折出てくる。そこには西谷が日高を敬慕していたこと、そして日高の人格を高く評価していた様子が随所に描かれる。
西谷は熱河省地方職員訓練所教官を務めたあと。昭和18年4月に新京の王道書院の講師となり、翌年1月に教授兼総務科長となっている。「満洲国の建設のために骨を埋める覚悟で学窓をでるなり渡満して来た」と、信念をもっての渡満組である。そんな西谷は、若き日に同じような「理想」を持ち渡満した日高に尊敬の念を持ったわけである。
西谷の「理想」も、日高の「覚悟」もいずれ幻影であり、満洲国の消滅とともに潰えた。
西谷の『論集』の文章などを読むと、西谷がいかに読書家であったかもよくわかる。そして前半に置かれた「歴史編」の文章などを読むと、西谷が、文献を読み、思索を重ねてそれを文字に起こして文章化していったその堅実なさまがよく読み取れる(前田光嘉「序」)。西谷は蔵書家でもあった。そして西谷は、まことの「ディレッタント」であったと思う。わたしはそんな『論集』から読み取れる西谷の人柄を評価する。しかしながら、だからといって、日高の人柄や人格、思想が「良きもの」「良質なもの」であったと言えるわけではない。
ただわたしは、確たる根拠があるわけではないのだが、そしてそうしたことも分かっているつもりであるのだが、間島での朝鮮族の教育事業から撤退して新京の王道書院の副院長に転身した日高のことを、「間島」を踏み台にして「新京」へと駆け上がった人物であったとはどうも思えないのである。
いずれにしても、王道書院のことを含めてまだまだま材料はそろっていないし、不明なことも多い。そんな日高丙子郎のこと、間島での光明会のこと、王道書院のことなど、もう少し考え続けてみたいと思う。
日高丙子郎略年譜
(前掲の槻木瑞生「光明会と日高丙子郎」、竹中憲一『「満州」における教育の基礎的研究』、金珽実「間島朝鮮人が求めていた教育は何であったか―金躍淵と日高丙子郎の教育活動の比較を通して」および『西谷喜太郎論集』などから作成)
明治9(1876)年10月 長崎県壱岐那賀村の秋山家に生まれる。
明治25(1892)年 壱岐で週刊『青年新聞』を刊行35号まで、のち京都大徳寺の紫野中学入学
明治28(1895)年 上京し日本国教大道社の大道学館に入学
明治31(1898)年 日高静と結婚。二人の間に明治32(1899)年長男壮三、明治35(1902)年次男健三、明治39(1906)年三男鉄三、大正元(1912)年四男大三、大正4(1915)年長女孝、大正9(1920)年次女千恵
明治37(1904)年 『大道叢誌』編集発行人、この間に間島省に日本人の理想郷を作るという構想を持つ鳥尾小弥太の影響を受ける。島尾は明治38(1905)年死去。
明治39(1906)年2月 尉官相当の参謀本部嘱託という身分で鉄嶺軍政署に勤務
明治40(1907)年9月 間島天宝山の鉱山主任
明治42(1909)年 日清協約により間島は中国(清国)の支配下と確定
明治43(1910)年7月 間島侍天教長
明治44(1911)年10月 永新学校の前身の広東義塾が設立
大正元(1912)年9月 カナダ長老会が広東義塾を引き継ぎ永新学校と改称
大正元(1912) 年 雑貨・穀物などを扱う延吉洋行
大正5(1916)年10月 寺内正毅の紹介で鈴木商店嘱託
大正8(1919)年 12月 日高は光明会山崎弁栄に会い入信。なお弁栄は大正3年に如来光明会を起こしている
このころから間島の朝鮮族は直接対決から民族自彊へと方向を変え、大正9(1920)年3月恩真中学校開校、大正10年4月東興中学、5月永新中学、8月大成中学が開校
大正9(1920)年9月から 琿春領事館襲撃事件および日本軍派遣
大正10(1921)年2月 『間島対策卑見』執筆
3月 『内鮮人融合機関設立卑見』
10月 間島総領事館に「光明会設立許可願」を提出、許可され光明会が成立
大正11(1922)年3月 光明語学校開校
3月10日 金躍淵は光明会の賛助人になる、また多くの朝鮮人も光明会に入会。中国側の有力者孫鴻慶も賛同。
5月 光明女学校開校、大正14年4月に高等科が独立して光明高等女学校
11月 光明幼稚園開園、その後に修養団・青年会・児童会を順次設立
大正12(1923)年3月 光明学園師範部設置 、5月 対支文化事業費からの支出を要請、結局外務省から在外鮮人保護取締費から支出が決定
大正13(1924)3月 日曜児童会、光明学校師範科、4月小学科を開設。
4月 光明農園1万坪を開園、これまでに養豚・牧羊・養蚕をおこない以後に養蜂・養鶏 などの事業を行なった
12月 永新学校の経営が苦しくなりカナダ長老会と光明会との間で、龍井村朝鮮人中等学校永新学校および付属小学校の譲渡契約が結ばれる。反対運動。光明中学校を設立、資金は鮮総督府や外務省から拠出された。
大正15(1926)年3月 外務省に補助費の申請
4月 光明高等女学校開校、さらに光明農園4万坪を開園
昭和2(1927)年3月 光明学校師範科を休校(昭和8年再開)、11月永新学校学友会を解散、同盟休校発生
昭和6(1931)年9月 満洲事変、昭和7年3月 満洲国成立により間島地域の教育も満洲国の管理下となり外務省から光明学園の財団法人化の指示。
昭和9(1934)年5月 光明学園中学部(永新中学校)・高等女学部(光明高等女学校)は専門学校入学者検定の指定校認定を求め申請するも却下、これにかわり文部省が示唆した在外指定学校化を昭和9年11月に申請し認可され、中等学校と同じ公認資格を獲得した。これにより光明学園中学部から旧制高校・帝大といった進学が可能となった。
昭和9年11月 財団法人光明学園となり永新中学校は光明学園中学部に、光明高等女学校は光明学園高等女学校になる
(日本人教員に安部恒平・松岡雄三・市山善美・片岡景二・佐々木敬介・樋口寛次郎・工藤重雄ら)
昭和11年春ごろ 満洲国元国務総理鄭孝胥が「大学」や「春秋」「孟子」などを中心とした儒学教育を行なう学校の設立を構想
昭和12年春ごろ 王道書院設立が具体化、蔡運升・馬冠標・曾恪・太田外世雄・金崎賢らが協議、理事長は田辺治通
昭和12年5月2日 王道書院の発会式、6月1日城内東五馬路の鄭孝胥公館で開講、院長は蔡運升
昭和12年12月 満洲国治外法権撤廃。これに合わせて財団法人光明学園は満洲国の法人とみなされる。また昭和10年1月に受けた朝鮮人在外指定を解除された。
昭和13(1938)年 日高は間島光明会の理事を辞し王道書院の副院長に就任、実質的な運営者。書院は「満洲唯一の満系子弟養成の文科系も私立大学」であったが事務員には朝鮮人も多く朝鮮の子弟の訪問も絶えなかったという
昭和13(1938)年3月 鄭孝胥死去、日高が運営を担う
昭和14(1939)年1月 光明学園小学部は満洲国の公立学校、中学部は省立高等国民学校、女子部は女子高等国民学校に改組
昭和18(1943)年4月 西谷喜太郎、王道書院の講師に就任、翌年1月教授に昇進
昭和20(1945)年 8月9日 ソ連参戦、ソ連軍南下
8月11日 王道書院の家族も通化に疎開、日高夫人と四男大三も通化へ疎開。
11日 午後、王道書院無期休学(解散式)、日高副院長訓示、西谷は学生に注意事項を述べる。
14日 西谷、国務院訪問のあと王道書院に立ち寄る。西谷は日高に東辺道方面への後退を進言、日高は、「ここの所ですぞ。電光影裏斬春風という境地は」と「後退」を一喝。
15日 この日も日高は文教部の帰路協和会に立ち寄る。そのあと協和会から出て王道書院北
の総領事館付近での暴動に巻き込まれ行方不明。
戒名は光明院殿心阿訥翁大居士
2024年8月20日記
2024年8月25日 一部加筆
2024年9月2日 一部加筆
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