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NEW!! 建国大学閉学宣言の起草者三人のうちのひとり― 江頭恒治

江頭恒治は建国大学の教授で日本経済史を講じた人物である。そして昭和20年8月23日に発表された建国大学閉学宣言起草者三人のうちの一人である。
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8月9日にソ連が不可侵条約を破棄して満洲国に進軍してきた。それに対応して建国大学では、11日午前中に日系のみの秘密緊急教授会を開催したのだが、ここで尾高亀蔵副総長は教員の意向聴取のうえ、教職員・学生による建国大学戦闘隊の結成を決定した。この戦闘隊は、統率が尾高亀蔵で、大隊長兼第一中隊長に安倍三郎、第二中隊長西元宗助、第三中隊長には寺田剛が任命されている。これら三人の人物についてはすでに述べた。
そして続く15日「終戦の詔」が発せられ、終戦となった。このことにより満洲国は崩壊、建国大学もその存立基盤を失うに至る。
終戦による事態の急変により、建国大学では18日に教職員会議を開催、先に結成した建国大学戦闘隊の解散、また協和青年奉公隊も解散を決定した。またゲリラ戦のため吉林方面に向かうという尾高副総長の決別式も行なわれている。20日には建大の武装解除、23日建国大学の解散式が執り行われる。この解散式で卒業証書・修了証書・在学証明書の授与が行なわれ、尾高副総長に代わる千葉胤成副総長代理が訓示、さらには建国大学の閉学宣文が読み上げられたのである。この閉学宣言は、森信三教授・小糸夏次郎助教授、江頭恒治教授の起草になるものであった。そんなことから、先述した森信三、小糸夏次郎に続いてここに江頭恒治の事績を書いていくこととしたのである。

江頭恒治の略歴
江頭は明治33(1900)年佐賀県杵島郡大字佐留志の生まれ。祖父の要左衛門に子どもがいなかったことから、要左衛門の姉の三女トミを養女として育てた。トミが成人すると富村才一郎の三男徳右衛門を婿養子として迎えて結婚、要左衛門が亡くなり徳右衛門が家督を継いだおりに名前を穠(みのる)と改めている。江頭恒治はこの穠とトミの長男として生まれたのである(江頭恒治『わが家の歴史』私家版 昭和51年9月、ここには江頭家や穠の事績が詳しく書かれてある)。
父の穠は村会議員から助役、さらに村長となり郡の農会長も務めた。ただ「自分の学識の不足をいたく不便」に感じていた穠は、子どもたちにはできるだけ教養や学識を身につけさせたいと考えて上級学校に進学させようと務めた。
そんな穠の期待に応え、恒治は佐賀県立小城(おぎ)中学から佐賀高等学校文科乙類に進学、大正13(1924)年4月には京都帝国大学経済学部に進んだ。大学では本庄栄治郎の演習に入り日本経済史を専攻、昭和2(1927)年4月に大学院へ。昭和4年には浪速高等学校講師を嘱託されて経済学を担当。昭和6年岸和田中学講師、ここでは法制経済を担当した。5月から京都帝国大学の副手を1年間務める。昭和8年5月、黒正(こくしょう)巌創設の日本経済史研究所の所員となった。なお恩師本庄栄治郎はこの研究所の代表理事であった。昭和10年彦根高商講師、商業史を担当。
昭和14(康徳6、1939)年3月、建国大学助教授薦任官二等に任じられ4月に家族とともに渡満する。なおこの渡満に対して父の穠はたいそう喜び、病気で震える手から愛用の金時計を恒治に贈ったという。この金時計が後の敗戦時「満洲での苦しい生活を支えるうえで大きな頼み」となった。
なお先の『わが家の歴史』では、江頭が小城中学在学中にある「志」を立てたと記してある。この「志」というのは、「立身出世」というものではなく、「名利栄達」でもない、また「世のため人のため」といった通俗的なものでもない。それはいわば「人間精神の根底に迫る求道の精神であり、現れては経世済民ともなる魂の沸騰」といったものであった。江頭はこの「志」に従って、「求道の道」や「経世済民」の道に進んだわけではなく、それとは別の学究の道を歩んだのだった。ただ建国大学赴任の話が持ち上がったとき、江頭は「満洲に新設された建国大学に喜び勇んで赴任した」といい、この赴任の決意も、中学時代の「志」また「宿志」を満洲の建国大学で果たそうとした「心意気」からであったと述べている。そして建国大学では「副総長作田荘一先生の御声咳に親しく接するにおよび、私は深く先生の思想に傾倒し、経世の志は再び燃え盛った」とも書いている。つまり、この五族協和の建学精神を掲げた満洲国の建国大学での教育研究生活が、いわば中学時代に胸奥に灯した江頭の「志」に基づくものであったというわけである。そう考えてみると、江頭の満洲国および建国大学の理念への信奉は、青年時代の「志」と心の奥深で堅く結びついたものであったといえようか。
以下、江頭の建国大学時代の活動を『建国大学年表』から拾ってみる。

建国大学での江頭恒治
江頭が建国大学助教授として渡満したのは昭和14(康徳6、1939)年4月、家族ともどものことであった。
康徳6(1939、昭和14)年
1月に作田荘一が建国大学副総長に就任、あわせて研究院長に就いた。6月16日には研究院各領域の班員の任命ならびに嘱託が発表された。6月30日には康徳6年1月から6月までの建国大学研究院要報(㊙)も発表されている。江頭助教授は研究院資料室常務に任じられた。また研究院の研究実施の概要も発表となり江頭は(五)満洲経済研究班に所属して満洲国の経済の実態・実相を研究することとなった。研究班員は作田院長・岡野鑑記・向井章・天澤不二郎らであった。また(六)会社企業研究班にも所属し公社や会社歴史的発展、国策会社・特殊会社などを研究するとした。
康徳7(1940、昭和15)年
4月15日、企画委員会が作田公館で開催され江頭はこれに企画室委員として参加している。また27日には満鉄調査部と建国大学研究院との懇談会が中銀倶楽部で開催され、建大側17名、満鉄側16名に参加があり、江頭もこの会に参加している。5月3日には日本経済学研究の資料収集のため京都に出張、9月1日まで長期の予定であった。不在中の5月17日には研究部総会で決定された各研究班の発表があった。江頭は経済研究部 1経済原理班(班長は作田荘一)に属し、また、2 満洲経済実態班では班長に指名されている。さらに3 公社企業班(班長山本安次郎)、4 経済組織及制度班(班長岡野鑑記)、5計画経済班(班長向井章)にも属した。そして満洲経済実態班では「大豆の綜合的研究」と題し共同研究が公刊される予定であり江頭は「満洲大豆経済の発達」を分担している。このように江頭は、経済・経済史分野で建国大学から嘱望されていたわけであった。続いて7月12日付で教授に昇格した。7月25日には資料室主任となる。8月17日には後期授業研究班全体会議・研究班研究会が開催され、江頭は「経済の会」に参加した。24日には第2回後期授業研究班全体会議が開催されているが、江頭は経済史1単位を担当。10月30日には黒松助教授とともに鞍山における調査機関連合会総会に出席するため11月2日まで出張。
康徳8(1941、昭和16年)
2月、後期授業が始まり江頭は経済史を受け持った。2月25日には授業科目に連動させるために設けられた「学生研究会」において「満洲農村研究班」の世話人となっている。3月10日には建国大学研究院の第一回評議員会が作田公館において開催され、「研究編成に関する件」が協議された。ここで「国民精神研究班」「国民構成及編制研究班」など6つの研究班の設置が確認されている。江頭はこの評議員会に作田荘一・瀧川政次郎・森信三・安倍三郎ら重鎮と共に参加して協議した。4月1日付「常置研究班所属班員一覧」が定められ江頭は「第三 経済研究部の 一、経済原理研究班(班長作田荘一)」および、「二 満洲経済実態及経済史研究班(班長須永秀爾)」の経済史分班の班長に選ばれている。さらにまた「第五 綜合研究部 一国民生活実態研究班(班長大間知篤三)」にも属している。この研究会が4月18日に開催され江頭も出席、経済関係の調査事務にあたることとなった。6月12日には「国民構成並に編成研究班」の第一回研究会が作田公館において開催され、中野清一教授「満洲に於ける回教徒の政治意義」の発表があったが江頭はこの会に参加している。6月20日には国民生活実態研究班第二回研究会が開催され参加。6月25日には『研究院月報 10号』が刊行されたが江頭はここに「幕末の軍事工業」を寄稿している。9月25日には福島政雄・森信三・大森志朗らとともに編纂室委員に任命され大学刊行物の刊行計画を立案した。12月12日には現代科学研究の過程 新研究班創設の提唱があり参加。ここでは宮川教授から「現代科学研究の過程」と題した報告があり、近代科学から現代科学へ、社会科学から国民科学へ、自然科学から意思科学への移行が提唱された。とりわけ宮川善造教授の専門領域の地理学では黒河地理学へとその立場を明らかにすると述べられた。12月27日には図書科長に任命されている(康徳9年9月9日まで)。
康徳9(1942、昭和17)年
2月3日には後期の二学年一学期の授業が開始となり、江頭は経済学科の専門科目のうち「日本経済史Ⅱ」を、また一学年の専門科目の「西洋経済史Ⅰ」を担当した。2月28日には満洲建国十年史編纂の役員・執筆者が決定し、江頭は執筆委員として「経済篇 概観」の担当となった。この執筆委員の任務を江頭は鋭意果たそうと力を尽くした。3月7日第二回評議員会が「現時局下の学生問題」をテーマに開催され、江頭図書科長も出席した。3月9日の建国十年史編纂の第2回経済篇執筆委員会が中銀クラブで開催され江頭も出席している。3月11日には建国十年史経済篇のうち「概観」「金融」「計画経済」などの執筆者を中心に「民生部次長源田松三の話を聴く会」が持たれ、江頭らは建国直後の満洲経済また金融界の整備など苦心談を聴いた。

註: ちなみに松田源蔵の長男も建国大学に入学している。終戦による建国大学は閉学となり、最後の教授会で、建大教員は新京に残った建大生を引き取って引き揚げまで責任を持つことが決定された。建大教授の森信三は、学生の金森と新京から奉天に移動した際、金森の友人であったこの松田源蔵の子息を伝手に訪ねてしばらくの間滞在した。ただこの子息も病気で亡くなったことから森と金森は源田宅を後にしている。

3月20日には「第一回 編纂委員会」が開催され作田副総長・森信三らとともに江頭も出席し『研究期報 第3輯』『第4輯』『新秩序建設叢書』などの大学の出版計画について協議した。5月中旬に第一期生の卒業論文の題目が決定となったが、江頭の担当する日本経済史・満洲経済史の学生は二人で、「満洲に於ける地方産業の変遷」「明治維新の経済史的研究」の題目で執筆することとなった。7月には学生を引率し、皇軍慰問と見学を兼ねた北支研修旅行を行なった。行き先は、天津・北京・張家口から大同の石仏、長城の要衝の太原娘子関を巡った。8月16日、建国十周年記念事業の満洲百科辞典編纂準備会が開催され江頭は向井章・宮川善造・大間知篤三・森克己らと協議し、「編纂の目的」「内容の程度」などを検討した。8月25日には各種刊行物についての編纂委員会が開催され江頭も出席して『研究期報』などの出版について検討した。9月12日には卒業論文審査委員に任命。15日満洲建国十周年記念式典に参列した。
康徳10(1943、昭和18)年
1月4日には康徳10年度の「年度研究題目」六項目が決定となり研究部会の新部会員の発令があった。このうち江頭は「四、満洲国固有産業研究班」の班長に任命されている。また同日に満洲百科辞典編纂会の役員の発令があり江頭は常任委員となっている。なおこの役員は会長尾高亀蔵研究院長、副会長千葉胤成教授、編纂委員長岡野鑑記教授・副委員長大間知篤三助教授ら重鎮や気鋭の教員が務めている。さらに今年度の経済研究部「戦時経済国策研究班」の班員にもなっている。1月21日満洲百科辞典編纂会常任委員会が開催され経済編纂主任の江頭も出席した。3月1日薦任官一等に叙せられる。4月国務院総務庁参事官を兼任。4月25日江頭が班長を務める「満洲国固有産業研究班」は新京駅から卡倫村に向かい「土法製紙場および焼鍋などの実態調査を行なった。8月3日第13回満洲百科事典編纂会常任編纂委員会が開催され江頭も参加している。10月12日には学内巡視補助官後期一年の担当者の一人として任命されている。これには森信三や安倍三郎向井章ら建大の重鎮教授も選ばれており、16日に尾高副総長を先頭に学内巡視が実施され、寮内学生の架蔵図書を点検し清掃整頓、設備の整備点検が行われた。この巡視の主眼は学生の読む図書のチェックにあった。19日には第17回編纂委員会が開催された。この場で、岡野鑑記編纂委員長が横浜高等商業学校校長として転任するための送別会も行なわれている。江頭は編纂委員として出席している。10月27日には研究院企画室企画委員に任じられた。11月2日には満洲百科辞典編纂会の第18回委員会が開催され、経済担当の江頭からは学問系統別に整理中でありこれは12月中旬には完了する旨の報告を行なった。この満洲百科辞典編纂委員会はひんぱんに開催されている。12月22日には研究院企画部員に任命されている。
康徳11(1944、昭和19)年
2月19日から日本経済史の研究のため東京・京都に出張した。2月29日には満洲国政府の「満洲調査機関連合会」武部六蔵会長から満洲国の各種調査についての依頼があり委託費1万5千円が支弁されている。江頭も研究が委嘱されて「東三省時代の経済政策」の題目で担当することとなった。3月11日には康徳11年卒業論文審査員を命じられ、3月31日には後期第三学年の学生読書指導委員を任命された。この指導委員はほかに千葉胤成・向井章らも担当した。4月13日には経済研究部会の会合が開催され、江頭の「日本経済の諸問題」をもとに議論がなされた。6月27日には満洲百科辞典編纂会の「項目決定委員」として尾高副総長・千葉胤成らと7月5日まで下九台に出張した。12月5日から9日まで宮川宮川善三教授・大村助教授とともに固有産業研究資料収集のため奉天・大連・熊岳城に出張した。12月25日には『研究院月報 44号』が刊行となり江頭は「満洲塩政小史」を寄稿している。
終戦の康徳12(1945、昭和20)年
7月簡任官二等。8月9日ソ連軍参戦。10日に関東軍は邦人避難に関する方針を決定し東辺道から北朝鮮地区に輸送することとなる。11日から在留邦人の引揚げが始まり、建国大学の家族も一部移動した。関東軍指令部も通化に移転し、満洲国政府も移動。
11日午前中に日系のみの秘密緊急教授会が開催されるのだがこの次第はすでに書いた。ここで尾高副総長は情勢の報告をしたうえで、用紙を配付して、我ら教職員はいかにすべきかの所見を記載するように要請した。そして尾高副総長の統率のもと、ソ連軍の進撃を食い止めるべく建国大学戦闘隊を結成することなどが決定された。戦闘隊は統率尾高亀蔵・大隊長兼第一中隊長安倍三郎・第二中隊長西元宗助・第三中隊長寺田剛が任命された。関東軍総司令部は順次通化に移動、12日には建大教職員の家族の一部が大学に避難してきた。
そして15日「終戦の詔」。日本は敗戦、満洲国は瓦解、拠って立つ建国大学も存立基盤を失った。18日に建国大学教職員会議が開催され、協和青年奉公隊解散、建国大学戦闘隊解散、そしてゲリラ戦に向かうという尾高副総長決別式がこの場で行なわれた。尾高は式に集まった学生の一人一人に対し握手をして去ったという。20日建大武装解除、23日には建国大学解散式が行われ、卒業証書・修了証書・在学証明書の授与が行なわれ、千葉胤成副総長代理が訓示を行ない閉学宣文が読み上げられた。この閉学宣言は、森信三教授・小糸夏次郎助教授、そしてここに述べてきた江頭恒治がその起草にあたったのであった。

引き揚げ
江頭恒治の建国大学での仕事はおおむね以上のようなものであった。「江頭恒治博士略歴・著作目録」『彦根論叢 第70・71・72号 江頭恒治博士 還暦紀念論文集』(昭和35年10月)には、建国大学での職務について、「建国大学在職中は、後期塾頭・研究院企画委員・資料室主任・図書科長・満洲国高等文官試験委員等を兼務した」と書かれて在り、ここに書き出した職務と一致している。
江頭は大きな役職に就いたわけではなかったが、それでも専門の経済領域の研究では重要な役割を果たした。また各種委員なども担当し、よく仕事をこなしたといいう印象である。建国大学で信頼されていたことも読み取れる。
なお昭和51年に刊行した『わが家の歴史』(私家版)は滋賀県立図書館に寄贈されたものだが、それに付載の著作目録のうちの「編著寄稿」の末尾に「満洲建国十年史 満洲帝国政府 昭和四四・三 原書房」と万年筆で追記されている。ここに書き出した建国大学での仕事のうち、この「満洲建国十年史」は経済篇の執筆委員として幾度も会議を重ねてきたもので、江頭が力を入れてきた仕事でもあった。「編著寄稿」の項目で書き落としてしまい、本書を滋賀県立図書館に寄贈するにあたって万年筆で追記するに至ったわけである。この仕事には熱心に取り組んだことがうかがえる。
終戦時の新京では、昭和20年12月になり満洲国高等官の大検挙が行なわれた。建国大学の同僚も多く検挙され、なかにはシベリア抑留の憂き目をみた同僚も数多くいた。江頭は辛うじて検挙を免れ、シベリア送還の憂き目にも遭わなかった。昭和21年6月あたりから引き揚げのうわさが立っていたが、7月になり22日南新京駅に集まるように通告される。かくて南新京駅から無蓋貨車に乗せられ、25日錦州に到着、ようやく8月3日には葫蘆島から巡洋艦鹿島に乗船、10日には家族四人で横須賀市の久里浜に上陸することができたのであった。
帰国してから江頭は就職先を探すことになる。昭和22年1月20日の近畿北部地区学校集団教員資格審査会の教員審査では、委員長名で「公職よりの除去に関する件に掲げてある条項にあたらない者である」との判定を得た。建国大学教授の中には引き揚げ後に公職追放に掛かって教職に就けない者もいるなかで、江頭は公職追放からまぬがれたのである。
建国大学では学術研究に励み、校務にも熱心に取り組んできた江頭であったが、建国大学でいわば中枢の役職に就かなかったことから公職追放に該当しないとの裁定であったのであろう。そして2月28日には彦根経済専門学校講師を委嘱、3月には同校教授となったのである。9月には京都帝国大学から経済学博士の学位が授与され、23年12月には大学設置委員会の審査により正式に教授の判定を受けている。5月には国立学校法により滋賀大学が設置となり彦根経済専門学校はこれに包摂され、江頭は滋賀大学教授として経済史概論・日本経済史・経済史演習などの科目を担当することとなった。
以後滋賀大学での江頭の事績は先の『わが家の歴史』に付載の年譜に詳細に期されているのでここでは述べないこととする。そんな江頭が亡くなったのは昭和53(1978)年10月5日のことであった。

まとめ
江頭恒治が建国大学時代のことを振り返った論述はあまりみあたらない。そんななかでいささかなりとも関わりのありそうなものを以下に書き出してみる。
1.
江頭が建国大学在職中の康徳9(1942、昭和17)年12月に有斐閣から刊行した『日本荘園経済史論 (日本経済史研究所研究叢書 第16冊)』の終章の末尾には「2602・2・10・午前5時、新京至聖大路の僑居に於て擱筆」と書かれてある。1940(昭和15)年が皇紀2600年であったことから、ここに書かれている「2602」というのは皇紀2602年のことである。また江頭の「僑居」の「至誠大路」は大同広場からさらに南、至誠広場を東西に走る大路のことで、勤務校の建国大学はここよりさらに南に位置していた。この至誠大路あたりには、動物園や運動場のほか、新京医科大学・新京工業大学・新京法政大学・大同学院・大陸科学院などが立ち並ぶ文教地区であった。大同大街の西に走る順天大街には国務院をはじめ司法部・経済部・交通部などの官庁が建ち並んでおり、順天大街と大同大街の間には多くの官舎や社宅があった。江頭もこの官舎に住んでいたのであろう。
序や後記の末尾に、「苫屋にて」「寓居にて」などと書き、書き終えた年月日を記載する例は多くあるが、江頭の日付は、満洲国の元号である「康徳」を使わず、2602年と「皇紀」で書いてある。前々年の康徳7(1940、昭和15)年が皇紀2600年にあたっていて、満洲国にあってもこの皇紀2600年の記念式典や記念行事が数多く催されていたことから、ちょうど執筆していた時期にもあたっていて、そのことが脳裏にあったのかもしれない。必要以上に深読みすることもないが、ともあれ江頭にとっての年号は「皇紀」であったということなのかもしれない。江頭は引き揚げ後に、この「日本荘園経済史論」により京都大学から経済学博士の学位を授与されている。
2.
戦後の著述であるが、滋賀大学や金沢大学での経済史の講義録として昭和28年に刊行した『経済史原論』(時潮社 1953年)の「序」には、「思えば、今次の敗戦の結果、私はすべての蔵書と史料とを失ったばかりでなく、講義の草案までもなくしてしまった。従って、いわば呆然たる姿のままで、研究の本道に復帰することも出来ず今日に至っているが、本書はこの間におけるささやかな私の記念塔である机辺一冊の辞書すら持たず、乏しい参考書をたよりに講義をはじめた当時を回想して、感慨無量である」と書き、「金亀城下の僑居にて」と付記している。金亀城とは彦根城のことで、勤務校の滋賀大学経済学部は彦根にあった。
江頭は満洲で蔵書などを失ったと書くが、満洲からの引き揚げにあたっては誰しも所持品に厳しい制限があったから、蔵書も史料、講義の草案や研究メモすら持ち帰ることが出来なかったのはやむを得ないところであろう。それでも江頭は公職追放にもあたらず教職に就くことができている。そして資料も十分にない中でなんとか講義をこなし、ようやく、まずは「講義録」を刊行することができたのであった。感無量であったのであろう。これはそのことを感慨深く振り返った文章であった。
3.
先に江頭は建国大学についての回想文があまりないと書いたが、同僚大間知篤三への追悼文が『民間伝承』189号(1990年)に載っている。このことは大間知篤三の項目でも書いた。ここで江頭は、引き揚げ時に持ち帰った大間知の写った二枚の写真を取り上げて回想をしている。一枚は康徳8(1941)年6月15日のもので、建国大学の学生と出かけた高懐玉城子での現地調査、ここに写っているのは、教員側参加者大間知篤三・宮川善造・黒松巌・黄道淵と江頭恒治である。もう一枚は康徳10(1943、昭和18)年3月のもので新京郊外に建設中の民族博物館を背景にし、黒龍江省から老齢のアンバ・サマンを招いた時のものである。写真の得意な満日文化協会の三枝朝四郎が撮影したもので、建国大学同僚の黒松巌・井辺房夫・大間知篤三夫妻・大森志朗・宮川善造、それに建国大学の学生17名である。
この二枚の写真にことよせて大間知篤三の追悼文を綴っているのだが、ここには建国大学や満洲国についての立ち入った記述はない。大間知は石斛の栽培が趣味で、江頭が定年後に大津石山に引っ越した時、石斛を含めて「珍草佳木」を送ってもらったという。江頭は建国大学時代の康徳8(1941、昭和16)年度に研究院でいくつかの研究班に属して研究を進めたが、そのなかのひとつに、大間知篤三が班長を務めた「綜合研究部 一国民生活実態研究班」があった。そうした縁から、大間知とは戦後にも交友があったと思われる。いずれにしても建国大学は、満洲国の実状を知るためにフィールドワークというか実地探査を重視した実践的な教育が展開されており、教員も学生を連れて各地に出かけている。大間知の民俗学などは実地探査は研究上必須のものであろうが、江頭も同じように各地の実地探査に出かけていたのである。
4.
年代が前後するが、江頭は昭和36(1961)年刊行に刊行された『愛国心について (日本文化学術叢書)』(日本文化連合会)に「胸に火を点ぜよ」を寄せている。この発行元の「日本文化連合会」は戦前に国民精神文化研究所の運営にたずさわった藤澤親雄が、昭和33(1958)年に組織した団体である。保守・愛国など国家主義に立った団体で、京都学派の哲学者高山岩男(こうやまいわお)や東洋史の小竹文夫(おだけふみお)らも著書を出している。なお先の国民精神文化研究は、昭和7年に左傾学生対策として、国体や国民精神の発揚を目的に文部省が創設したもので、研究部の所員として、哲学科に西晋一郎や小糸夏次郎、経済科に作田荘一ら、のちの建国大学の教員となる研究者も属していた。
江頭が寄稿している『愛国心について (日本文化学術叢書)』には編者の記載がないのだが、フランス文学の辰野隆(ゆたか)が「本書のはじめに」を書いている。この「本書のはじめに」のなかで辰野は、「かねての宿望であった」相模半島周遊に出かけ、日露戦争日本海海戦で旗艦を務めた戦艦三笠が復元された姿をみて感激し、振り返って今の「若き人々」に対し、「君たちが、如何に戦争を呪おうとも憎もうとも、その呪詛憎悪には人間としての正しい理由があろう。しかし、只々、戦争を恐れるあまり、敵国の奴隷やスパイに甘んずるなら、君たちは、もはや日本人ではない、人間の屑だ」と激越な文章を綴っている。また本書には安岡正篤が「「愛国心について」を薦む」、高山岩男は「推薦のことば」と推薦文を寄せている。
さて江頭の「胸に火を点ぜよ」である。文章の構成は、一、愛国心をなぜ問題とせねばならぬのか、二、愛国心とは何か、三、なぜ愛国心を失ったのか、四、どうすれば愛国心を回復できるか、から成り立っている。
江頭はこの「三、なぜ愛国心を失ったのか」のなかで、その理由を内外の要因を整理して書いていく。内的な要因としては、日本の敗戦にともなう「一種の国家否定的ムード」であり、外的要因としては、占領軍による「日本弱体化政策である」と述べる。この弱体化政策とは具体的には、国家神道の廃止、政教分離などであり、また教育勅語に代わり日本国憲法や教育基本法を制定したことであるという。
この「弱体化政策」は朝鮮戦争を機に修正が加えられたが、これに代わって今度は、「世界赤化の国際的謀略」が登場してきたと続ける。そして「四、どうすれば愛国心を回復できるか」のなかでその対応について、第一には、国民生活を安定させ政治の姿勢を正すこと、第二に、この「弱体化政策」の影響を排除するため、「憲法・教育基本法・国民祝祭日」などを「国情に添うように訂正」すること、第三には、新たに登場してきた「世界赤化の謀略」に対し、「知識人に対する措置」「思想対策」を採るべきであると論じる。そうすることにより、「階級国家観」ではなく「正しい国家観」を持つことができるようになると説いているのである。最後には当時は大きな力を持っていた「日教組」への対策、つまり「偏向教育」の是正をあげている。
このように江頭は、「二千年来の道統」を守るべく「国民の胸に愛国の火を点ずることの急務」を声高に訴える。江頭のいう「二千年来の道統」というのは、この論の前段で述べているが、日本は「皇室を宗教と仰ぐ血縁国家」であり、天皇については象徴以上の「宗家」「本家」として敬愛する伝統を持つということである。
これは戦後15年ほど経過した昭和36(1961)年に書かれた文章である。こうした戦後の江頭の論から遡って考えてみると、戦前期の満洲国および建国大学の精神と共通するものを戦後も持ち続けてきたようにも思われる。康徳9(1942、昭和17)年12月に有斐閣から刊行した『日本荘園経済史論 (日本経済史研究所研究叢書 第16冊)』に、「2602・2・10・午前5時、新京至聖大路の僑居に於て擱筆」と書いた「皇紀」という表記も、「二千年来の道統」という表現に照らし合わせてみると、これは自らの思想の表明であったのかもしれない。
以上、建国大学閉学宣言起草者の一人として江頭恒治を取り上げてきたが、それは、『建国大学 研究期報』に「神命世界史論」を書いた、おなじく閉学宣言起草者の一人森信三の論に通じるところも感じられ、江頭が閉学宣言の起草者の一人として名を連ねたということも肯ける気がする。 2026年6月27日 記