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NEW!! 建国大学戦闘隊大隊長に任命された安倍三郎

安倍三郎は心理学者。建国大学教授であった。すでに述べたように、終戦前の昭和20年8月9日、ソ連軍の参戦に対し建国大学では、11日に日系教職員だけで「秘密緊急教授会」が開催されている。そこで尾高亀蔵副総長は、ソ連軍の南下を少しでも食い止めるべく、建国大学の教職員・学生をもって戦闘隊の結成を通告した。ここで安倍はこの戦闘隊の大隊長兼第一中隊長に指名されている。総指揮の尾高を別にすれば、安倍の大隊長はいわば「最高位」の重責であった。この指名がどのようないきさつによるものであったのかを知りたく思い、満洲時期および終戦時の安倍三郎を中心に少し書いてみた。

略歴
安倍は明治21(1898)年、岩手県下閉伊郡山田町に島田茂太の三男として生まれた。1914(大正3)年4月に岩手県師範学校入学、卒業後は岩手県師範学校の訓導として小学教員を2年間務める。大正9(1920)年4月広島高等師範学校文科に入学している。広島高等師範には教授として西晋一郎・福島政雄が、同窓に森信三がいた。大正13(1924)年に師範学校を卒業し、池田師範学校に教諭兼舎監として赴任する。同年母方が廃家となることから安倍姓を名乗る。昭和元(1926)年には東北帝国大学に入学し心理学を専攻、千葉胤成に師事して勉学に励んだ。大学院を修了し副手・助手嘱託などを務め、その間に「時間心理学」について論文を発表。大学内の事情もあり千葉から吉林師範学校(のちの吉林師範大学)への赴任を勧められて渡満。康徳6(1939、昭和14)年には前年5月に開学した建国大学に移った。建国大学には渡満を薦めた千葉胤成も赴任して満洲の地で満洲心理学会が結成されるにいたる。千葉が会長、安倍が理事に就いている。この満洲心理学会は第一回全体発表会が昭和17(1942)年、第二回が昭和19(1944)年と開催されている。
安倍は建大教授として新京で終戦を迎えた。昭和21年8月家族で引き揚げることができたが頼る親族もなく、北海道の根釧原野の開拓地で暮らすこととなった。そんな時、東京の宝文館から、心理学の入門書の出版を依頼があり出版、さらには広島文理科大学から教授就任の依頼があり赴任する。ところがおりしも発表されたGHQ教員適格審査の適格資格に触れるとされ教授職の辞任を余儀なくされるに至った。その後拓文堂主人の小貫英に相談して会社の仕事を手伝い、糊口をしのいだ。そんな生活をみかねた友人が衆議院人事委員会専門員の職を紹介してくれ、定年まで勤めた。定年後の昭和40(1965)年には明星大学人文学部の新設にあわせて招聘され心理学研究室の基礎をつくった(「安倍三郎博士の略歴と研究業績」『現代心理学論集 安倍三郎先生古稀記念論文集』安倍三郎先生古稀記念論文集編集委員会 (明星大学心理学研究室内) 1968年)。なお安倍が亡くなったのは昭和49(1974)年5月7日のことである。
以下、安倍三郎の建国大学時代の活動を主に『建国大学年表』から、また戦後の安倍については『大彦族の研究』の「序章 報本反始の思想と奉謝の生活」(雑木雑草庵 1963年)から書き抜いて行く。

建国大学での活動
建国大学に赴任した康徳6(1939、昭和14)年6月の「研究院勤務ノ任命並ニ嘱託 研究実施ノ概要」によれば、安倍は民族研究班に属し「固有満洲族ノ研究」を担当したとある。
康徳7(1940、昭和15)年2月29日、作田研究院院長(建国大学副総長)の出席のもと基礎研究部会に出席。5月17日には各研究班が決められ安倍は基礎研究部の哲学班(班長森信三)、政治研究部の国民構成及編成班(班長宮川善造)に属した。またこの日から向井章教授とともに満洲研究に関する漢籍購入のために吉林に出張している。6月4日から28日まで蒙古民族の民族性の研究のため興安北省・東省・南省・西省に出張。7月15に付けで建国大学教授の発令、8月15日教務科長(康徳8年5月1日まで)。8月21日国民教育班研究会の「満洲国の学生について」に参加。後期第一学年の基礎科目として教育心理学を担当。10月25日『研究院月報 3号』に「歓喜嶺雑記」を寄稿。
康徳8(1941、昭和16)年4月1日常置研究班の「第一部基礎研究部 六、心理研究班(班長千葉胤成)」に所属、4月13日に研究会、5月28日には「さび体験の構造と感情の深さの日本的表現」と題し発表した。
康徳9(1942、昭和17)年2月28日付「満洲建国十年史編纂委員会」で安倍は「文教の部」の「学芸」の執筆担当となった。10月25日『研究期報 第4 輯』に「在満蒙古民族の民族性の研究(第1)」を寄稿。
康徳10(1943、昭和18)年1月、研究院の資料室委員となる。また「国民精神研究班」(班長千葉胤成)では、総力戦・興亜教育・固有工業についての新課題を加えて研究を開始したのだがその班員になっている。10月12日学内巡視補佐官の任命が行なわれ、前期3学年担当補佐官に大間知篤三教授・西元宗助助教授らとともに安倍教授も選ばれている。その学内巡視は尾高副総長を先頭に16日実施され、1 図書点検、2 校舎および塾舎外の整備整頓、3 ガラス窓その他の保管整備状況、の3点が点検されている。このうち主眼は、学生の趣味思想などをその蔵書により調査する「図書点検」で、これに任命された巡視補佐官の教員があたったわけである。この日から千葉・安倍両教授・薄田助教授は奉天で開催される満洲心理学会第2回全体研究発表会に出席のため4日間出張、発表会が17、18日に開催され、安倍は「民族性格研究の二つの道―可能性とその限界」と題して発表した。なお11月13日には広島高等師範学校の西晋一郎名誉教授が亡くなっている。
康徳11(1944、昭和19)年3月31日には後期第2学年生の学生読書指導委員となった。4月28日吉林八旗三代戸口冊の研究のため5月1日まで吉林に出張。5月5日には卒業証書授与式の役割が発表され安倍は接待主任を命じられている。7月30日吉林民生振興会から旗人戸数譲受のため松尾・山崎・李属官と8月1日まで出張した。

8月11日日系教職員の「秘密緊急教授会」
康徳12(1945)年になり、8月9日ソ連軍が参戦し南下する。それに対して建国大学では11日に日系教職員だけで「秘密緊急教授会」を開催する。ここで尾高亀蔵副総長は教職員の意向聴取を行ない、そのうえで、尾高の統率のもとに建国大学戦闘隊を結成しソ連軍の進撃を阻止することを決定した。そのうえで不同意の教職員の行動は自由とすると通告した。
戦闘隊では、尾高隊長の統率のもと、大隊長兼第一中隊長にこの安倍三郎が選ばれている。第二中隊長は西元宗助助教授、第三中隊長は寺田剛助教授である。この次第は尾高亀蔵の項でも少し書いた。また『建国大学年表』でも森信三らの回想として収められてある。だが先の安倍三郎の回想『大彦族の研究』雑木雑草庵 1963年)では、イニシアルながらも具体的に名前も挙げられており、また忘れられぬ記憶として高ぶった感情を抑えながら書いたようすが見て取れる。さらにまた、この回想に書かれてある安倍の「意向」が、秘密教授会における尾高副総長の決断に大きく影響したと考えられることから、安倍の回想に沿ってすこし詳しく述べておきたい。
昭和20年8月9日ソ連軍が参戦して南下する。10日昼には新京の市街にも空襲警報が鳴り響いた。建国大学では11日に日系教職員だけで「秘密緊急教授会」が研究院会議室で開催されている。そこで尾高亀蔵副総長は、
1、ソ連の参戦を報告、
2,関東軍は部隊の兵器を南方に移しておりソ連軍を迎撃はできないこと、そのため通化に後退しここでソ連軍に相対することとなったこと、
3,現在ソ連軍は佳木斯・愛琿・外蒙の三方から新京・奉天に向けて進軍中である、
4,このようすであれば明後日には新京に到着するであろう、
5,満洲国政府も通化に移転する、政府要員も通化に移動せよとの命令が出ており、建国大学ではまず応召職員を優先的に退避させ、教職員の家族もこれに便乗して退避されたい、
6,そこで、建国大学教職員はいかに処すべきか諸君に意見を聞きたいので、手元の用紙に所見を書いてほしい、
7,約1時間を休憩とし、その間に尾高副総長が諸君の意見を読んだ上で決断する、
といった内容の発言をした。教授らはまったく「寝耳に水」の情報を聞かされ、しかも急にそれに対する自分の意見を述べないといけないことから顔面蒼白となった人もいた。安倍自身も事の重大性に驚きはしたが、「建国大学の教授をしておりかねて学生に建国精神を説いている自分としては、覚悟が一瞬に決まり」手元の用紙に次のように書いたという。その「覚悟」を次に引用してみる。

安倍三郎の覚悟
建国の精神に則り、日満学生を指導激励して、まず満系学生全部四平街の兵器製作所に応援に出かけさせ、日系学生と日系職員とは敢然ソ連戦軍部隊の進攻を阻止するよう戦闘体制をとり、少しでも通化の日本軍の攻撃準備の時をかせぎ、一方在満日系青年の奮起を促進せしめるよう努力し、われわれはその捨石となるべきだと思う。私の家族には通化への退避をすすめてみるが、おそらく私と共に建国大学に残ることと思う。その際決して戦闘の邪魔になるようなことはさせないつもりだから、私の塾頭室に入れてほしい。
安倍はこのように書いて提出したと述べる。五族協和の建国大学に勤務し、常日頃から建国精神を説いてきた立場からすれば、通化に移動したとされる関東軍の反撃体制が整うまでの時間稼ぎのため、ソ連軍の進撃をすこしでも遅らせるために戦闘体制をとるべきということは安倍にとっては当然の結論だったわけである。上司が元中将の軍人副総長であれば、おそらくソ連軍の南下事情や関東軍の動向については正確な情報を持っているであろうと考えたかもしれない。このように安倍は、建国大学の見学の精神に殉ずるという覚悟を一瞬のうちに定めて「意向」を提出した。
尾高副総長は一時間の休憩の間に教員の所見を熱心に読んだ。そして方針を出したのである。この方針については尾高亀蔵の項目で書いたものと同じ内容である。安倍の回想をもとにして改めて要約して書き出しておく。
1.建国大学教職員は尾高副総長の統率のもと一糸乱れずソ連軍の進撃阻止の行動をとる、ただしこの行動に不賛成の教職員の行動は自由とする。本日3時から開催する最後の教職員会議は全員参加とする。満系学生は四平街の兵器廠で勤労奉仕を行なっているがこの度は全員がこれに参加する。その最高統率者をM教授とする。日系学生については、応召に出ている者は別にして、在学の学生は専らソ連軍進撃阻止の戦闘体制に入る。戦闘部隊は三中隊に分け、第一中隊長は安倍三郎、第二中隊長はN(西元宗助)助教授、第三中隊長はT(寺田剛)助教授、なお安倍は大隊長を兼務する。参謀兼指揮者補佐として○○(小松茂久万か?)大佐(関東軍派遣将校)、△△大尉(我妻庄三郎か?)を任命する。
2.M教授は4時までに万端準備して満系学生を校庭に集合させ、日系学生と別れを告げさせ、徒歩で四平街へ向かうこと、途中の処置は隊長のM教授に一任。
3.給与は建国大学の残金全部を使い、教職員に半年分を支給する。
この尾高の決断は、先の安倍の「意向」つまり、建国大学の取るべき方針やその原則的立場と合致する。つまり尾高亀蔵副総長は安倍の「意向」に力を得て戦闘隊を組織することの決意を一層強く固めたのではないかと思う。戦闘隊への参加不参加は教職員の自由とあるが、これは、学内教員のなかで尾高副総長をよく思わないグループが存在していたこと、もし全員の参加を強制した場合、尾高の戦闘隊準備に反対する教職員が意見を表明するのではないか、そして芋づる式に不参加の教職員が出てくることを恐れたのではないかと思われる。安倍の手記には、第二中隊長はN助教授とあるが他の資料では名前が出ていて、西元宗助助教授(仏教学者、担当は教育学)である。第三中隊長のT助教授は寺田剛助教授(東洋史)である。

教員の対応
尾高副総長の重大かつ緊迫した決断に教員はみな緊張の面持ちであったと安倍は書いている。それはそうであろう。突然のことであり、しか重大な決意も迫られたわけであるから。
そして安倍の回想によれば一番狼狽していたのは四平街に向かうように指示されたM教授だったという。「この大役はどうしても主席教授のT先生に行っていただきたいが」と安倍に相談したという。安倍は、T先生は65歳にもなっているから無理なことで、ここはあなたのような若い方でないと、と相手にしなかったという。M教授はそれでも「それに自分は跛(びっこ)なのだから」とT教授に哀願していた。T教授は「人がいい」ものだから「副総長の命令であれば」とか答えたといい、その後M教授は副総長に会って、主席教授のT先生に命令して自分の替わりに四平街にやってくれと頼み込んだ。しかしながら、副総長からはこっぴどく叱られたという。ここに言うT教授とは千葉胤成であろう。千葉は作田副学長の辞任後は筆頭教授であった。終戦時の年齢は61歳である。
満系学生を四平街まで引率するよう指示されたM教授というのは宮沢恵理子『建国大学と民族協和』には前田鷹衞と出ている。また前田鷹衛『社会存在の論理』(前田鷹衛先生遺稿集刊行委員会 1978年)におさめられた「前田鷹衞―その人と思想(座談会)」でも、建国大学の教え子長野宏太郎は、前田が建大の学生を引率して四平街の勤労奉仕にでかけたこと、その時に護身用としてピストルを持たされていたと回想している。先の安倍の回想では前田のことをいささか悪い印象をもって書かれてあるのだが、この座談会では前田が暖かく思いやりのある人物であったと語られる。建国大学は戦闘態勢を取るべきと「覚悟」を決めていた主戦論の安倍にしてみれば、身体面を含めておそらく事情もあったであろう前田の逡巡が、往生際の悪いものにみえたのであろう。前田は41歳であった。
安倍はこのあと塾頭室に向かい、塾頭を集めて秘密教授会での副総長の命令を伝達、午後4時には残存の学生および教職員を集合させるようにと指示を与えた。そして午後3時の最終教職員会議の開始時間までに、戦闘隊三部隊の編成や遊撃方法を確認しておこうと参謀兼補佐官の大佐の官舎を訪ねた。すると大佐の家では関東軍の兵隊を動員し、家財の荷造り梱包に余念がなかったという。本人は不在でただ兵隊のみが黙々と働いている。大尉の官舎に行っても同様の有様であった。教職員の家族は事情も分からず家で待っているばかりである。それにもかかわらず、建大に派遣されている関東軍大佐らのこうした態度に安倍は怒り心頭に達した。大佐が不在でどうしようもなく安倍は大学に戻り、午後3時からの最終教職員会に出席した。

最終教職員会
会議室には予想通りだったが、満系の教職員は集まっておらず、また日系教授に在っても、「日頃威勢のいい国本主義を唱えて学生を陶酔させていた連中に限って出席していない」という。老教授はT教授(千葉胤成)だけ、若手勅任教授では先のM教授(前田鷹衞)と安倍三郎、中堅ではS教授・Mi(宮川善造か)教授・Mo教授(森下辰夫か)・N助教授・Sa助教授(佐藤喜代治か)・Te助教授(寺田剛か)の顔が見えたという。ただ東北大学から赴任した先生ではT(千葉胤成か)老教授以下全員が出席していた。
午後3時からの最終教職員会で尾高副総長は午前中に開かれた教授会での決定事項を報告した。次いで四平街に引率するM(前田鷹衞)教授が悲壮な挨拶を述べた。続いて安倍が戦闘隊隊長として「不肖私が戦闘部隊の隊長を拝命しましたが、戦車一個師団という大軍の前に立ちふさがる小部隊のことですから、われわれ日系のものはまず全員戦死の覚悟をお互いに持たなくてはならないでしょう。皆さんと手に手をとって仲良くあの世へまいりましょう」と挨拶した。戦後からの回想ではあるが、安倍にとってみれば、自身の「意向聴取」が建大戦闘隊結成として取り入れられたこともあったのであろう、覚悟の決まった挨拶であった。
続けて安倍は、「戦闘員の志気に関する遺憾なこと」として、先ほど戦闘部隊の参謀兼補佐官である大佐宅に作戦をうかがうべく参上したところ、家族は退避準備、大佐も所用で不在、ただただ関東軍の若い兵隊が暗い表情で大佐宅の家財を梱包していた、非戦闘員をいち早く安全に避難させるべきところを、自分の家財を優先し、しかも部下の兵卒に荷造りさせるとはどういうことか、いやしくも建国大学の指導教員ではないか、と、会議に出席している大佐を睨みつけて言いつのったという。大佐ら将校は赤面し顔を伏せていた。教職員会は1時間ほどで終わったが、「軍人や教授連がだらしない」ことを見て取った事務職員たちが会議終了後に寄って来て、「よく大佐を叱ってくださいました」と大いに喜んだと書いている。
午後4時になり、満系学生を四平街に送るため校庭に教職員と学生が集合した。ソ連軍の南下という重大事を前にして、明日の命も知れぬ日系学生と、四平街に向かう満系学生とのいわば別離の式であり、「五族協和」を掲げる建国大学としては、これが事実上の解散となったといってよいだろう。

その後の建国大学
安倍は皆と作業計画を立て、作戦の要領を検討して帰宅する。午後11時を過ぎていた。ソ連南下の情報は隣近所から伝わっており、昨夜のうちに通化に移動した関東軍将校とその家族らに続こうと一般民衆も停車場に殺到したものの、列車に乗り切れず家の戻ったというありさまであった。安倍は夫人と子どもたちにその決心を伝え、みなはどうしたいかと問うと、夫人は、自分たちの力だけでは日本に帰ることも困難であり「死ぬなら家族が一緒に死ぬことこそ本望だから、建大のお父様の室に連れて行って下さい」と答えたという。
12日朝、家族と建大に行ってみると、満系の徴発人夫らでごった返していた。軍の徴発命令がまだ取り消されていなかったのであった。安倍は尾高副総長と会って、この人夫たちに建国大学周辺に塹壕を掘ってもらうこととし、ソ連戦車が来ったときに応戦するという計画を立てた。この塹壕を掘る作業の指揮は三人の戦闘隊隊長があたった。とはいえ日本の敗戦必至であることを満人人夫たちは知っており、隊長の命令など早や聞く耳持たずというありさまであった。塾に戻ってみると、連日の関東軍の応召により日系学生は70名ほどに減ってしまっていた。
夜になり、満軍の反乱軍が建国大学北の忠霊塔付近に集結しているという情報があり、戦闘隊70名の学生の一部を警戒に当たらせた。また建国大学に集まってきた家族たちの保護のため、他の一隊を当てて、兵器庫や被服庫をねらう強盗団に対して夜通しの歩哨をたてた。建大学生の戦闘員といっても20歳前後の若者であり、雨の中の歩哨に立たせるのも忍びなく、安倍は15歳・13歳の自分の子どもも歩哨に立たせたのだという。
13日になり建国大学の前の道路には、列車に乗車できなかった日本人が行列をつくっている。徒歩で南下しようしていたのである。あてもなく南下する日本人の姿をみて安倍は暗澹たる気分になった。
午後4時ごろ、歩哨に立っていた学生が、満軍の反乱軍が大学前を行進中であると報告してきた。安倍は「二発の銃声の合図と共に突撃せよ」と命令を伝えて校門に行ってみたところ、150人ほどの満軍部隊が安倍大隊長の前で止まり、頭右と敬礼の挨拶をする。兵隊たちの背中には強奪品とみられる物品があり、戦闘態勢にあるようには見えない。安倍はわざとニコニコして部隊を迎え、敬礼をして返した。その時の安倍の観測では、反乱軍は建大学生が平時から訓練をしていることを知っており、また応召で今や70名ほどの年若い学生しか残っていない状況なども知らず、戦闘を避けて通り過ぎようとしたのではないかということであった。
こうした状況を目の当たりにして建大戦闘隊はいっそうの緊迫感を持ち、学生たちは先に掘った塹壕から焼夷弾を背負ってソ連の戦車に飛び移る訓練などに励んだ。一方建大に残った教職員の家族たちは、警報が鳴ると食堂横の会議室に立てこもり、女・子ども・老人は射撃訓練にいそしんだ。だが13日14日とソ連軍は侵入して来なかった。ただ、もしも安倍大隊長率いる戦闘部隊が全滅し、婦女子が凌辱されるようなことになれば、A庶務部長(青本俊彦理事官・庶務科長か?)らの手で銃殺する手はずになっていたのだという。状況は悪化し、混とんとした事態に、戦闘隊や建大にこもる家族らは、行きつくところまで来ていたわけである。

玉音放送、終戦
そして15日を迎えた。関東軍から、正午に重大放送があるから聞くようにとの命令が伝わってきた。安倍はこの放送を聴き、呆然となり皆の前で泣き崩れた。安倍は心から、満洲国や建国大学の理念を信奉していたのである。周囲の者もみなすすり泣いた。安倍を含めた建大の居残り組は、ソ連軍の進駐など、さまざまな事態に備えて、それも極限状況を想定していくつも段取りを定めてきたから、この御前放送の終戦の詔を聴いて一気に緊張の糸が切れたわけである。
終戦の詔を聴いた後、尾高副総長は建国大学教職員の取るべき態度を決定する教職員会議を開催した。ここではいろいろな意見が出たが、安倍は、終戦勅語は出た以上はこれ以上がんばっても無意味であること、父兄から預かった学生を無事に日本に帰すことこそが責任であると意見を述べたという。そして副総長はおおむねこの線に沿って次のような命令を出した。
1 本日をもって建国大学は解散する。各人は家庭に戻り、運あれば日本に無事帰還するように。
2 日系学生については教職員が2,3名ずつ預かって帰還まで行動を共にすること。その割り当ては塾務科長が担当する。
3 教職員には半年分の給料を支給する。満洲国政府は崩壊したので今後は各自の努力により自活すること
4 北朝鮮に避難している家族には中国語の出来るI助教授を派遣しあわせて2か月分を支給する。
そして尾高副総長は、T(千葉胤成)主席教授を総長代理に任命し、A庶務部長(青本敏彦庶務科長か)に建大の残務処理を依頼したうえで、自身は家族とともにゲリラ戦を展開すべく吉林方面に向かったのであった。
建国大学の残金や、尾高副総長がゲリラ戦のために持って行った資金について、副総長や当時の建大幹部・教員らが関与して、持ち逃げしたとか、自分たちの事業のために使ったなどといったあらぬ噂が飛び交った。建大での会議の席上でその出所を明示しておけばそんなことにもならなかったであろうにと、「わが愛する建国大学の精神を踏みにじられたように腹が立つ」と安倍は書いている。この手記にはイニシアルながら安倍の見聞したところを記しているのだが、安倍の憤懣やる方ない様子がよくうかがい知れるところだ。そして安倍が、満洲国の建国精神および建国大学建学精神を深く信奉していたこともよく見てとれようか。
終戦となったもののまだまだ建国大学教職員およびその家族の試練は続く。安倍はいく度か危ない目に遭いながらも応召職員の家族の負債問題などに奔走した。
通化に避難した家族の多くも、通化の町が過剰な避難民で混乱していて、新京に再び帰りたいとの要望が多く寄せられていた。ソ連将校に60万円の賄賂を渡し、満洲航空会社の幹部のあっせんで特別列車を仕立てた。この列車に乗車したのは建大の関係家族や三中井百貨店職員・家族らであったが、満航本社にはソ連軍に強奪されて資金は残っておらず、満航側はこの60万円をなんとか回収しようとする。建大の応召家族を引率したO教授(大間知篤三)もなかに入ったが立ち往生してしまう。応召家族へ半年間の月俸を渡すという使命を帯びて通化に赴いたI助教授と事務職員も、その公金についての使途があいまいでどうしようもない。尾高副総長は戦犯の恐れがあり身を隠し、代理副総長のT(千葉)教授は悪性下痢で伏臥中、庶務部長(青本敏彦庶務科長?)もソ連兵や満系職員の脅迫や談判に耐えられず行方不明、主要教授も四散してしまっている。満航側の請求も厳しくO(大間知)教授はやむなく安倍を訪ねて解決に力を貸してくれという。いく度か交渉するがらちもあかず、危険な夜間通行で命を落としそうにもなったという。

引き揚げて根釧原野の開拓地に入植
こうした苦難に遭いながら安倍およびその家族はなんとか耐え抜いた。そしてようやく引き揚げの時が来たのである。昭和21年8月のことであった。ただ帰国したものの頼るべき親族はいない。やむなく北海道の根釧原野の開拓地に向かった。そしてここで安倍の家族は赤貧の暮らしを余儀なくされる。もうどうしようもなくなって一家心中かと思案していた矢先に娘が急性盲腸炎になり、一晩苦しんでつぎの朝、なんとかそりを隣の開拓民に頼み村の病院まで運んだ。手術も無事に終わったが治療費がない。ここで安倍は、これまでの事情を打ち明けていた標茶村(しべちゃ)の小学校校長(のちに町長)高島幸次氏に相談をした。すると高島氏は役場や病院と掛け合ってくれ、また見舞いとして食料も運んでくれたという。
そんなことがあったあと、安倍には「不思議な運命の転換」がおとずれる。東京の版元の宝文館から、専門分野の心理学について『心理学の話』といったタイトルの「平易にして深い」入門書を出したいという依頼であった。この依頼書は迷走したうえで標茶村の安倍のもとに配達された。文面には、引き揚げ後で生活にもお困りであろうから出版に際しては前金で5000円を送る、というものであった。安倍は「天の助け」と思い、承諾して原稿を書き上げる。終戦後間もない時期でもありこれがよく売れて印税も入った。この『心理学の話』は昭和23年4月13日の刊行であったが、「序」の日付は昭和22年4月20日になっている。そしてそこには、「標茶村の方々の一方ならぬ御芳情と寶文館の御好意による」と感謝の言葉が添えられてある。

教授に就任するもGHQの教員適格審査指令により辞任
先の宝文館の依頼があった1週間余りたったころのこと、「また別な幸運」が舞い込んでくる。北海道大学と広島文理科大学の二大学からの教授就任依頼であった。安倍はこのうち、縁の深い広島文理科大学に承諾の返事を書いた。そして昭和22年5月上旬、安倍は広島に向かった。
ところが授業を始めて3か月ほど経ったときのこと、文部省から召喚状が送られてきた。それは安倍にとって「どんでん返えしの運命」とでもいうべきものであった。GHQからの教員適格審査についての指令で、「建国大学の教授にして責任の地位にありし者は教員適格審査を取消して追放に処する」というものであったという。文部省で安倍の履歴書を確認してみると、1 建国大学の勅任教授で大学評議員である、2 教務部長に就任した、3 塾頭をした、4 終戦直前に文教学部長、前期(予科)教育主任に就いた、とある。これが先の適格審査に抵触するというものであった。このような教員適格審査であれば、建国大学の教員のなかでも該当する教員はほかにも存在したことであろう。
文部省の言い分は、このままだと追放処分を受けることになるからひとまず文理科大の教授職を辞任して新制大学への再編を待つことようにというものであった。そしてあと一年辛抱してくれたら再就職の世話もする、という。こうした文部省の、なんというか「温情」のある対応も、この教員適格審査の指令がGHQから出たものであり、当時の日本政府はいわばそうした「審査」をする権限と言うか「資格」というものを持ち得なかったからであった。
安倍は思案する。教職を辞任すれば家族が再び路頭に迷うことになる。そうかといってこのまま公職を追放になってしまえば何年も教職にはつけなくなる。考慮の結果、文部省に対し、教授の就任を撤回すると約して広島に戻った。広島文理大学の長田新(おさだあらた)学長に事情を説明するとひどく同情をされた。そして長田学長は、事務嘱託の名義で授業を続け、これで問題になったら撤回することにしたらかいかがかと申し出てくれる。しかしながら安倍は、これ以上大学に迷惑はかけられまいと考えて広島を去ることを決意した。ちなみに広島文理科大学では、昭和21年5月に教員適格審査委員会を設置し12月中旬に不適格教員3名を発表している。安倍の資格審査の一件は、折しもこうした時期にあたっていたわけである。
こうなったら職にも就かず著述で生活の糧を稼ぎ出そうかと考え、拓文堂主人の小貫英に相談した。小貫は小さな書籍取次店をやっていたが取引先の売掛金の回収がうまくいかず倒産寸前であったところを安倍の『心理学の話』のヒットのおかげで、ふたたび配給会社を始めようとしていたところであった。小貫は、大学での収入ぐらいは支給できると思うし会社の4畳半の宿直室でがまんして貰えれば使ってくれてもいいと申し出た。安倍一家は翌23年の2月に上京、「この4畳半の宿直室」に寝泊まりし、安倍は会社の帳簿作りを手伝いまた夜には著述に励む。安倍夫人は炊事婦、娘は社員として働いた。ちなみに小貫英は協和出版販売会社を起して成功し、「小貫英教育学研究助成 記念基金」を創設している。

附註;小貫英
小貫は明治37年茨城県東茨城郡長岡村の生まれ。六合館で13年勤め、昭和5年に独立して出版および取次店の拓文堂を起した。昭和16年には日配に整理統合され昭和20年春に退社。戦後の昭和21年に拓文堂を再興し雑誌取次業を行なった。22年3月柳澤盛平と図書雑誌の取次店 協同書籍を創立したが昭和23年1月袂を分かち、雑誌取次の店 協同書籍(株)を経営した(帆刈芳之助著 金沢文圃閣編集部 編『出版書籍商人物事典』金沢文圃閣 2010年) 。

衆議院人事委員会専門員
こうした苦しい暮らしをしていると、衆議院議員や官僚をしている友人たちがそんな安倍のことを心配し、衆議院人事委員会の専門員に推薦してくれるという話が持ち掛けられた。安倍は小貫の会社の仕事に満足もしていたし、専門員の仕事への期待にこたえられるかも不安であったが、このことを小貫に相談してみたところ、たいそう喜んでくれ、この仕事を受けることにした。そしてこの仕事を定年まで勤めあげた。退職した後には「雑木雑草庵」と称する家を建ててここで暮らした。この安倍の建国大学の終戦時の混乱などを書いた『大彦族の研究』もこの「雑木雑草庵」から刊行されたのである。奥付の住所には、日野市平山とある。
安倍は定年後の昭和40(1965)年、明星大学から人文学部を新設にあたり心理学研究室の整備を頼まれ、教授に就任することとなった。教職に就くまでに長い道のりであった(「安倍三郎博士の略歴と研究業績」『現代心理学論集 安倍三郎先生古稀記念論文集』安倍三郎先生古稀記念論文集編集委員会 (明星大学心理学研究室内) 1968年)。安倍が亡くなったのは昭和49(1974)年5月7日のことである。
なお衆議院専門員在職中のことだが、昭和28(1953)年8月1日、建国大学の副総長だった尾高亀蔵が亡くなった。尾高の葬儀は高円寺の自宅で執り行われたが、このとき安倍三郎はこの葬儀に参列して追悼の歌を霊前に呈したと尾高の回想記には出ている。さらにまた、この葬儀には建国大学の関係者も参列したとも書かれてある。ただわたしは、この葬儀に建国大学のだれが参列したか、そしてまたこの安倍が手向けたという追悼の歌というのもまだ見ることができないでいる。
このような尾高元副総長の葬儀への参列も、建国大学戦闘隊大隊長の役を引き受けたときからずっと一貫した安倍の「覚悟」によるものであったであろう。
安倍は昭和37(1962)年に衆議院の専門員を定年で退職したあと、東北のある大学の学長候補にも推されている。ただ心臓病のためにこれを辞退した。その後は政府の「連合軍被害者給付金審査会」の会長に就任した。先に述べたように昭和40年には明星大学の教授に就任、さらには昭和43(1968)年に勲三等旭日中授章を受けている(明星大学心理学研究室調「安倍三郎博士の略歴と研究業績」『現代心理学論集 安倍三郎先生古稀記念論文集』安倍三郎先生古稀記念論文集編集委員会 (明星大学心理学研究室内) 1968年)。 2026年6月17日 記