ブログ・エッセイ


NEW!!玄田有史、『希望のつくり方』、基礎ゼミ、一回生ゼミ、

投稿:2020年8月21日

もう一〇年以上も前になるだろうか、京都ノートルダム女子大学で人間文化学科のカリキュラムを改編する仕事をしたことがある。その改編の中のひとつは、一回生から順次、基礎ゼミ(一回生ゼミ)・発展ゼミ(専門書購読)・専門演習・卒業研究と、少人数ゼミの積み重ね方式にし、卒業研究は、それまで論文だけだったものを、小説や詩、紙芝居や童話の創作プラスその関連の研究、図録や目録などの編纂なども可としたことだった。わたしのゼミの学生のひとりは小説を書き、また一人は神戸の歴史や町のPRパンフレット作成、もうひとりは京都市電に関する展覧会図録を作って提出した。これら卒業研究は、学生も楽しそうにやっていたし、それを指導するこちら側も楽しいものだった。
卒業研究も楽しかったが、この一回生ゼミというのもなかなか面白かった。ある年は、酒井順子『都と京』(新潮社 二〇〇六年)のなかから各学生に好きな章を選んでもらい、それを毎回レジュメにまとめたうえで発表し、残りの時間、みなで論評・議論という形式にした。また、新聞夕刊の文化欄の文章などからよさそうなものを選び、それをA3の用紙に貼り付けて配布、学生には、その文章に線を引いたり番号を付したりして読むこと、それをそのまま紙面でまとめて感想を提出させたりした。そのひとつに、玄田有史が、たしか朝日新聞夕刊の文化欄に書いた文章がある。壁にぶつかったとき、その前でちゃんとウロウロしてみること、といった文章だった。
この文章をもう一度読んでみたいと思い、近くの図書館で玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』を借りて読んでみたが、このなかになかった。次に、岩波新書の『希望のつくり方』を借りて読んでみたところ、この本の最後のところに「大きな壁」という項目で載っていた。ただ、第四章の一項になってしまっていて、これが新聞の記事のままの文章かどうかの記憶は定かではない。
この玄田の新聞記事を読んだとき、なるほどと感銘を受けて、大学に入ったばかりの一回生ゼミで使わせてもらおうと思ったのだった。こうした考えを持っている玄田という人は、なんというか、僭越な言い方だが、信頼してもよいのではないかと思ったりもした。
じつはこの玄田の「大きな壁」論文、学生に配布した残りが一枚あったので、家に持ち帰り、娘に読んでみるか、いって渡したことがある。大学の四回生だったかと思う。その娘はその後卒業して就職し、一度転職して結婚した。
式場を予約した結婚式はちょうど東日本大震災のあとの四月だった。式のその日がちょうど大学の入学式で、入学式の後の保護者との懇談会を欠席したから、よく覚えている。
この東日本大震災のとき、わたしの長男は、仙台にいて震災に遭い、幸い家族はみな無事だったが、本人はしばらく車上生活を強いられ、また仕事では、各避難所などをまわって社員の被災状況や亡くなった人などを調べたりしてたいへんな時だった。交通機関もまだ復旧せず、そんなことから、妹が京都で結婚式を挙げても式には参加できない。娘は、式をやるかどうかひどく迷ったのだが、結局、仙台の兄夫婦は参加しないままに挙行したのだった。
そしてその結婚式、式は大詰めを迎え、お定まりの、娘から両親へのお礼の言葉の時間となった。わたしたち夫婦は起立させられ、そのお礼を拝聴することになったのだが、もしかして、「おとうさん、おかあさん、ありがとう」と、泣かれでもしたら、どんな顔をしたらいいか、きっと鼻白んだ顔をするだろうなと、かわいくないことを考え考え、緊張して立っていた。
娘はメモを読みながら、自分の就職活動がうまくいかなかった四回生の時、父がくれた、玄田有史の「大きな壁」の文章を何度何度も読み返し、それに力づけられた、と述べた。そして母に対しては、自分が落ち込んで自律神経失調気味のとき、隣の駅のスーパーまで歩いて行くのに誘ってくれ、往復とも、何も話さず、ただただ黙って一緒に歩いてくれた、といった意味のことをしゃべった。
両親へのお礼の言葉なるものに緊張し、起立させられ恐れおののいていたわたしたちは、ほっとして着席できることとなったのであった。しかしそれにしても、この玄田教材、余ったものを一枚、ただ渡しただけだったのに、こんなところで再び耳にすることになろうとは、まことに思ってもみないことだった。
そして、一回生ゼミでこの文章を読ませてまとめる方法を身につけさせようと試みたわたしの教材選びもまんざらではないなと、すこしだけ自分を誉めてやりたいと思ったのだったが、まあ大したもの、なのは実は玄田有史であったわけだった。 (2020年8月21日 記)