ブログ・エッセイ


三遊亭圓生 (6代)、古今亭志ん生 (5代)、森繁久彌、大連、常盤座、連鎖街、逢坂町

昭和20年5月に、六代目三遊亭圓生(明治33年生)、五代目古今亭志ん生(明治23年生)が、慰問で満洲に渡り、終戦となって帰国できず大連でしばらく暮らしたという話は、井上ひさしの戯曲「円生と志ん生」「連鎖街のひとびと」の項で少し述べた。
そのひとり圓生の自伝『寄席育ち』(青蛙選書 昭和40年、みたのは平成11年の新版)に「満洲行き」の項があり、ここから二人の満洲での足取りが細かく読み取れるのでそれを少し書き抜いておきたいと思う。
というのも、いま教員時代に集めた満洲の写真絵葉書のリストを作成していて、大連の部をちょうど作り終えたところで、このなかに二人の足取りに関連する写真もすこしあることから、地図を参照しながらそれを追ってみたいと考えたからである。

この満洲行き、圓生の言によれば、もとは五代目古今亭今輔(明治31年生まれ)が行く予定だったという。しかしながら今輔の母親が亡くなったことからその代役で行くことになった。日本にいても落語の席はだんだん下火になって先行き不安な状態になってきており、満洲行きを決意をしたというわけだ。慰問や興行は二ヶ月の約束だった。同道したのは、古今亭志ん生のほか、講談師国井紫香(明治27年生)、夫婦漫才の坂野比呂志(明治44年生)・妻美津子らである。
出発は昭和20年3月だったものが延び延びになって5月6日に、新潟から船で羅津に向かい上陸、そこから列車で新京へ。ここを拠点に慰問と興行のため各地を回った。軍隊の駐屯地であれば、午前中に慰問、昼食後の午后1時から5時ぐらいまで興行、夜は夜でさらに興行を務めるというハードなものだった。約束だった二ヶ月の7月5日、新京にもどっていよいよ帰国という予定だったが、戦況が厳しく船が出る状況ではない。やむなく新京にとどまるものの、渡満の世話をしていた満芸との契約も切れて思案をしているところ、新京中央放送局から声がかかって放送局に引き取ってもらう。
新京放送局のしごとで奉天周辺まで出かけて仕事をした。この放送局には森繁久彌がアナウンサーとして入っていた。ある夜の料亭でのこと、放送局の上役の集まる宴席で、円生と志ん生それに森繁との三人が順番に話をする猥談会(小噺会)が開かれた。順番に話をするその小噺があまりに面白いので、次の宴席が待っている上役は一人も動こうとしない。聴衆は増えるばかりで他の宴席が大変なことになったと、いうようなこともあった。
8月になり、二人会と称して各地域を巡回した。当初は二ヶ月と言われたが、それは大変なので一ヶ月にしてもらって奉天・本渓湖などを回る。二人会といっても、初めに文化映画を上映し、そのあと円生と志ん生が落語をやるという会だった。興行先から奉天に戻り、巡回先でもらった酒を飲み、電灯を点けたまますっかりと寝込んでいた。ところが、夜中か朝方にドンドン戸をたたかれて、電気を消してくださいとしきりに言われる。うるせえなと電灯を消してまたそのまま寝入ってしまった。朝起きてみるとソ連軍が南下してきたことが判明したのだという。8月9日朝のことであろうか、この日のうちに大連に行くことになっていたのだが、ソ連軍の南下で列車は出ない。やむなくそのまま奉天ビルに滞在することとなった。しばらくして満芸の職員が、大連に行ってくれと切符を持ってきた。大連にいったってしょうがないと一旦は断ったが、志ん生が、「松っちゃん、なんだぜ、こりアそういう使いが来るってことア、これア大連に行けってえ辻占かもしれねえから、ここにいるより大連に行った方がよくアねえか」と言う。「うウんあたしアどっちでもかまわねえが」ということで、大連に向かうことになった。戦後からの回想ではあるが、まったく落語みたいな決断である。
大連では、日本館という宿屋に泊まっている。そして大連駅の南西に続く連鎖街の常盤座では、8月12日、13日と落語を演(や)っている。そのあと大石橋にいくという話だったが当地は危ないと強く止められて大連に留まり、沙河口で二日ほど興行した。
そして15日を迎えることになる。日本館からは出て行ってくれと言われる。敗戦となり、住宅の困窮者が出ることを見越して、闇の値段で貸そうという持主の魂胆だったようだ。用事で大連の観光協会に出向いたとき、森岡というひとから、困っているなら協会事務所の二階に置いてあげようといわれて、ここに逗留することとなった。18日か19日だったという。大連観光協会刊行の『大連』(昭和12年)の著作兼発行人の住所が「大連市近江町九十一番地」とあるからここが協会の所在地であるとすれば、西広場から南へ西本願寺につながる近江町の、広場から三筋目ほどの角にあったのかもしれない。いずれにしても大広場からもほど近い繁華な場所である。
大連では8月22日にソ連軍が進駐するということで、その前夜の21日に隣組の組合長の家で、お別れ会をすることになり、余興に来てくれと頼まれた。出かけて、演ろうとすると町会長さんが入ってきて、ちょっと待ってください、皆さんにお別れをと言って、明治天皇の写真を持ってきた。そして、ソ連軍が進駐してきてもしも陛下に不敬なことがあるといけないから焼き捨てることにすると言ってこう話しをした。「陛下のお顔もこれが見納め、どうか皆さんよく奉拝しておいてください。(涙声で)このお写真をやかなければならんという、なんたることで…」と泣き出したのである。隣組の一同もみなわっと泣きはじめた。そして町会長は圓生に向かって、「実にもったいないが焼き捨てます。さ、君、皆さんをわらわしてくれ」とうながす。圓生は「弱りましたねエ、これア。前でさんざん泣かしちゃって、すぐ笑わせろってね。… 焼き捨てる方はあとにしてくれりゃよかったのにって、志ん生と顔を見合わして、しょうがないから演るには演りましたが、あんな演りにくかったことは、あとにも先にもありませんでした」と書いている。
大連の街でも、ソ連兵の略奪や暴行がはびこり、どうしようもなく、商売もできない。そうしていると観光協会の森岡さんが、志ん生と圓生の二人会を協会でやったらどうかと話をもってきた。そこで協会に畳を入れて屏風や毛氈を借り二席ずつを三時間ほど、演った。この回を五日また一週間ずつ、二、三回ほどやったというから、15日から20日ほど約30の出し物で演じたことになる。咄のネタは十分に仕入れてあるから二人とも大丈夫だった。
しばらくして滞在していた観光協会も中国人に譲り渡されることとなり、出なければならなくなった。とはいえ行く当てもなく、帰国のための密航船が出ると聞きつけては金を払い込み、そしてだまされたりしながら過ごしていた。隣組に出かけては演じて少しの稼ぎを得るそんな毎日である。
別の密航船が出るという話をしてくれた知り合いが、自分も帰国するから、特段持ち帰る荷物がない圓生と志ん生に、荷物の名義を貸してくれ、っていう。それじゃと名前を貸して、そのかわりに、船が出るときに港まで駆けつけるのが大変だからここに泊めてくれと交渉して、観光協会をようやく出てこの知人宅に留まった。ところがまた船は出ないことになり、この家も出なければいけなくなる。やむなく二、三度顔を合わせたことのある長唄の杵屋佐一郎宅に行ったが家が狭くて泊めてもらえない。やむなく荷物だけを預かってもらって、大連の三越に務めていた山田さんという人に相談したところ、志ん生は泊めてもらい、圓生は川柳仲間を紹介してもらって、そこに逗留した。
いつまでも居候というわけにもいかず、方々頼んでみて、大阪町という遊廓、正確には逢坂町の遊廓であるが、そこの福助で六畳が空いていると、長唄の三味線弾きの六春雄が教えてくれて、そこに入った。
根っからの博打好きの志ん生は、佐一郎の家で博打をして三千五百円をすってきたり、また台湾人の持ち船で帰れるという話に騙されたりしながら過ごしていく。逢坂町の福助にも居られなくなり、大連の大野さんという人に頼み込んで屋根裏部屋のようなところに引っ越したり、志ん生とは別れて住んだりしていた。
そして昭和22年になり、ようやく引き上げることが決まった。今回は間違いない。1月には志ん生が先に帰えり、約一か月遅れで圓生が帰国の途に就いた。船への乗り込みに時間もなく、戦(いく)さみたいにしてようやく乗り込み、タラップがあがって、五分としない間に出航した。船が出てから圓生は、「大連の馬鹿野郎ツ」とどなり、「もう二度とふたたび来ねえ」と言い放ったのだという。
その圓生が諫早の港に着いたのは3月17日のことであった。こうして、昭和20年5月6日に渡満し、二ヶ月の予定だった慰問・興行は、終戦をはさんで一年と十か月に及んだ。まことに思いがけない満洲滞在となったのである。 (2020年10月9日 記)