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西谷喜太郎と王道書院
西谷喜太郎文庫
このブログでは、『月刊撫順』『月刊満洲』に執筆している人物を順次書き出して、その事績を記しているのだが、先般は、高山謙介という筆名も使っている「40 佐々木到一」のことを書いた。
この佐々木のことを書くために、佐々木到一『ある軍人の自伝』(中国新書 昭和38年)を図書館で借りて読んだ。その本は京都市立醍醐中央図書館の蔵書で、資料には「西谷喜太郎文庫」のラベルが貼ってあった。西谷喜太郎はあまり知らない人物だったので少し調べてみることとした。
この文庫については、平成13年5月に京都市立中央図書館から『西谷喜太郎文庫目録』が刊行されていることがわかった。先日、定期的に受診している東福寺の京都第一日赤病院眼科で診てもらった帰途、京都市立伏見中央図書館に寄ってこの目録を閲覧した。『目録』の「序」に西谷の簡単な履歴が載り、西谷は東京帝大文学部教育学科を卒業したのち渡満して熱河省職員を務めたこと、戦後は日本道路公団、高速道路計算センター社長、西日本ハイウエイパトロール社長などを歴任し、平成6年3月18日に死去したことが分かった。
『文庫目録』を刊行するのであれば、その文庫主事績について、もう少し詳しく調べて書くべきではないかと、図書館司書出身のわたしとしては不満な気持ちを持ちながら、ならば自分で西谷の事績を調べてみようと考えた。「調べる」といってもそんなに資料があるわけでもない。まずは西谷没後に編集刊行された『西谷喜太郎論集』をとりあえず読んでみることにした。
『西谷喜太郎論集』
この論集は、西谷没後に、西谷が書き溜めていた論考や講演などをまとめ、一周忌にあたる平成7年3月に刊行したものである。『論集』の「あとがき」によれば、西谷が亡くなったあと二つの課題が残ったという。ひとつは生前収集した2万冊におよぶ蔵書の処遇であり、もうひとつは西谷が生涯にわたって書き残した文章を集めて論文集を刊行することであった。
前者については、遺族の意志や友人らの尽力で幸い京都市立中央図書館に寄贈されることとなった。先に述べたように目録も刊行されている。蔵書は現在京都市立醍醐中央図書館に保存されてあるようだ。
後者については、西谷の没後「西谷喜太郎論集刊行委員会」が組織され、一周忌に合わせて出版の運びとなった。この刊行委員会の会長は元京都大学人文科学研究所教授河野健二が就いた。河野は西谷とは三高時代の同窓であった。題字は河野が書いた。そしてまた、巻頭に「友を喪う」と題した「書を愛でし不屈の男児惜しむ春」の句も掲げられてある。河野の想いのこもった句であると思う。
大部のこの『西谷喜太郎論集』を読んでみると、なるほど西谷は、文庫を形成できるほどに読書家で蒐集家、そしてその読みも深く、前田光嘉「序」に言う、「古今東西の文献を漁り、次から次へと思索を重ね、自分の知り得たことを文字に著す充足感に浸り」という評が実にぴったりな感じがする。そしてそれがまた面白いのだ。
初めに置かれた文章は「歴史編」。それらはたとえば、「大義の果に 明治維新史の一教訓」「人間観について 周恩来評に寄せて」「明治開国と禁教問題」などなど。これらが発表されたのが『社内誌』とある。それを知ってまた驚く。社内誌というのは、西谷が昭和55年3月に社長に就いた「西日本ハイウエイパトロール」であろうか。西谷はこの社内誌に、なんというか、内容的にもかなり硬派な文章、社内報にはいささか浮いた文章、つまり前田光嘉が「序」書いたように、文献を読み、思索を重ねてそれを文字に起こして社内誌に書いていったというものなのだろう。西谷はこのように文献・資料を集め、読書を重ね、文章を書きためていったというわけであった。西谷喜太郎は、まことに「ディレッタント」を絵にかいたような、そんな人物であった。
西谷喜太郎の履歴-渡満
『論集』には『西谷喜太郎文庫目録』の「序」よりも詳しい「略歴」が出ていた。この略歴と『論集』本文の記述をもとに、以下西谷の事績を記しておく。
西谷は大正6(1917)年京都府峰山町の生まれ。同志社中学、第三高等学校文化乙類から東京帝国大学文学部教育学科に進んだ。在学中は「アジア研究会」を結成して中国問題の研究を続け、大学3年の昭和15(1940)年夏、友人数名と橘樸(たちばなしらき)を訪問、また卒業論文の資料を集めるという目的もあって満洲国・蒙疆地区・華北を旅行している。この時華北では、大同の普北政庁最高顧問前島昇の官舎に居候し教育政策など教えを乞うた。前島昇は東北大学法文学部の卒業、長野県社会課のち渡満、阿城県副参事、大同学院教授をへて普北政庁最高顧問を務めた(「大地を踏み占む 晋北自治政府最高顧問」『大陸の顔』報知新聞政治部編 東海出版社 昭和13年)。ここで帰路には日高丙子郎に会ったらよいと薦められた。そこで、当初からの予定であった中江丑吉と北京で会った。そしてその帰路新京に立ち寄って王道書院副院長の日高丙子郎にも会ったのであった。
昭和16年3月に東京帝大を卒業、4月には満洲に渡っている。満洲国熱河省隆化県属経済股長、そして昭和17年3月には熱河省地方職員訓練所教官を務めた。このように西谷は大学卒業後すぐに渡満しているのだが、そのことについて西谷は、「祖国の不滅を信じ、満洲国の建設のために骨を埋める覚悟で、学窓をでるなり渡満して来た」と書いている。学生時代から中国事情に興味を持っており、卒業論文もそうした課題を選んだ。夏季休暇を利用しての中国・満洲旅行でいっそう渡満の意思を強く持ったのであろう(「日ソ戦勃発(新京にて)」。このように、西谷の渡満は、いわば「筋金入り」であった。
ただ西谷は、満洲および満洲国について、例えば石原莞爾の東亜聯盟については、「戦争が主で、思想、文化政策は一切從」という違和感から加わることはなかったとも言っている。当時は、「アジア諸民族をして、感奮興起せしめる高い世界史的理念と、同艱共苦の実際的施策が先だ」と考えていたのである(「地湧会もことなど」)。そんなことから在満東亜聯盟運動の指導的立場にあった伊東六十次郎も尊敬はしたが、そのまま同調することはなかった。満洲国の教育施策に関心を持っていたようで、いわば実践的で具体的な活動へと目が向いていたということになろうか。
昭和18年4月には新京の王道書院講師になった、翌年1月に教授兼総務科長となる。奇しくも大学在学中に面会した日高丙子郎が副院長に就いている王道書院で教鞭をとることとなったのであった。
王道書院のこと
西谷が務めた王道書院については、松浦嘉三郎「王道書院を紹介す」という記事が『大亞細亜』(5巻7号 昭和12年7月)載っている。この著者の松浦は明治29年の生まれ。東亜同文書院に進み、のち京都帝国大学文科大学史学科で学んだ。東方文化学院京都研究所の研究員などを経て満洲国の大同学院教授に就任している。
松浦の紹介記事によれば、元国務総理鄭孝胥(蘇戡(そかん)から王道書院設立の話を聞いたのは昭和11年春ぐらいのことであった。鄭孝胥は昭和10年5月まで国務総理を務めているので、書院を設立しようと考えたのは、総理を辞任してすぐのことであった。昭和12年春になりその設立は本格化する。設立資金については、鄭孝胥が「建国功労金」として政府から受け取っていた公債のうちの10万円が充てられた。松浦によれば、王道書院の設立については、蔡運升・馬冠標・曾恪・太田外世雄・金崎賢らと相談して設立にこぎつけたという。理事長には田辺治通が就いている。
昭和12年5月2日、新京の軍人会館で発会式、6月1日に東五馬路の鄭孝胥公館で開講の運びとなった。王道書院では「講書」が重んじられ、「大学」や「春秋」「孟子」などが講じられた。
西谷が王道書院の講師に就いたのは昭和18年4月、教授に昇進したのが昭和19年1月ということなので、開校してずいぶん後のことになる。王道学院の院長には、昭和15年5月まで経済部大臣を務めた蔡運升が就いていた。蔡は昭和9年間島省長、昭和11年満州中央銀行副総裁のち経済部大臣に就任し昭和17年に9月には参議府参議となっている。創設者の鄭孝胥は昭和13年3月に死去しているが、それ以降王道書院は日高が実質的に運営と教育を受け持った。日高については本庄繁大将や満洲拓殖公社総裁を務めた坪上貞二また張景恵総理らの認めるところであった。
書院は中国系の学校であったが事務員には朝鮮人も多く、朝鮮の子弟の訪問も絶えなかった(「日高丙子郎先生」)。間島省で朝鮮人教育に力を尽くした日高の人徳にも由ったのであろう。
王道学院は「満洲唯一の満系子弟養成の文科系も私立大学」、つまり中国人子弟の学校であった。そんなことから全満から中学を卒業した子弟がやってきた。一学年は50名ほどで、3学年構成、合計150名、女子学生は約30名いた。寄宿舎もありそこには50名ほどが起居していた。
「地湧会」
終戦の年の昭和20年になると、戦局の悪化にともない新京の地でもその善後策について、県の参事官や大同学院・協和会などで研究会と称した会合が持たれるようになった。伊東六十次郎をリーダーとする東亜聯盟も研究会を開いたりしていた。
5月の夜、西谷は協和会首都本部の関根青少年科長に招かれてその研究会に出席した。西谷は伊東に質問をしたりしたが、先に少し述べたように東亜聯盟の運動にはいささか違和感を持ちともに行動することはなかった。
そんななか6月になり、西谷のもとに大同書院訓練部長の中村寧から連絡があり、土地開発公社理事の岡田猛馬宅で会合があり西谷にも参加してほしいと言われて出むいた。中村は五高・京大・猶興学会出身で満鉄・県参事官、協和会中央本部審査役などを歴任した。岡田は哈爾浜陸軍特務機関嘱託時代に『北満の落花』( 哈爾賓陸軍特務機関 昭和8年)を書いている。
この会の参加者には、長春県の滝本副県長・農産公社青山管理課長らもいた。国家の危急存亡の時に在って座視して拱手傍観するのは男子の恥、衆智を結集して満洲の第二建国へと邁進する、という趣旨の会合であった。
この趣旨はいささか抽象的ではあったが「否やあろう筈もなく」しばらく参加する。会に名前を付ける段になり、「最も若輩」の西谷が提案した「地湧会」と決まった。西谷は幾度か会合にも出席し、会の「一大刷新体制案」も出来上がってきたのだったが、「間近に迫る大戦への臨戦体制へ、積極的に働きかけたい」という気持ちを持っていた西谷にとっては、この時点の案としては抽象的に過ぎてあまり意味がないと思い、「数回末席から国民組織について論じ建てたが」、それ以降は参加しなかったという。
城島英一との交友
西谷はふたたび城内の王道書院にこもる。ここで西谷は、「東大時代の先輩で敬愛する「満州の友」社長城島英一(旧姓斎藤)さん、興安病院の徳永博士、協和会本部の親友たち、それに関東軍第四課の青年将校、その他年代を同じくする諸友と情報の交換や研究を共にしたりしていた」という。そしてまた、王道書院の助教授兼庶務係の魏欽文の経営する私立小学堂にも出かけた。魏は東大橋附近の洋車夫や馬夫の私邸で学校に行けない子どもらを集めて学校を運営していた。魏は張学良軍の士官学校奉天講武堂の出身で馬占山の総務参謀をしていたという。
また新京大車組合専務理事の生田光義ともよく話をした。生田は、新京の大車(ターチョ)8千台のうちの6千台を掌握しその組合を運営していた。また新京駅の貨物助役斎村虎雄とも親しくした。斎村は福岡の出身で早大に進み剣道部主将を務め、沈着で豪胆な性格であった。終戦後には西谷とともに通化へと向かうが、その一瞬の判断には幾度か救われた。消息の途絶えていた三高時代の親友板倉又左ヱ門との親交も復活した。板倉は哈爾浜駅助役から新京本部の労務主任になっていた。
ちなみにこの城島英一は、大衆誌『月刊撫順』『月刊満洲』を刊行していた城島舟禮の娘詠子の婿である。斎藤(城島)英一は東京帝大経済科の卒業で、絵もうまく黄土坡美術グループの総帥でその命名者でもあった(北村謙次郎『北邊慕情記』大學書房 昭和35年)。『月刊満洲』の表紙絵や挿絵も描いている。義父城島舟禮は昭和19年3月に亡くなり、その後は英一が『月刊満洲』の発行を引き継いでいる。
西谷は「「満州の友」社長城島英一(旧姓斎藤)と書いているがこれは『月刊満洲』のことか。ちなみに『月刊満洲』は、康徳12(1945)年5月10日発行の第18巻5号まで確認できている。その奥付をみると、発行人は、新京特別市崇智胡同六〇一の城島英一である。なお、『月刊撫順』『月刊満洲』や城島舟禮、城島英一については『満洲出版史』に詳述した 。
西谷喜太郎の終戦
終戦時のソ連南下については「日ソ戦勃発(新京にて)」に書かれてある。8日の夜、西谷は、前職の熱河省から友人と酒を飲んでいた。帰宅し、寝苦しい夜に、警戒警報とも空襲警報ともわからないサイレンが鳴る。ラジオを聴いてみると米軍のB29が哈爾浜方面から南下していると伝える。米軍機は通常南から飛来するはずなのに変だと思いソ連機ではないかと疑った。夜が明けて勤務先だった王道書院に急いだ。王道書院は城内東五馬路の旧国務院跡にあった栗原仲道『新京の地図』(経済往来社 昭和57年)に「王道書院」の項目があり、地図も掲げられているが、その場所は四馬路の鄭孝胥前国務総理公館(私邸)にあったと出ている。
場所のことはさておき、まもなくここで西谷はソ連の参戦を知る。満洲では関東軍はもはや戦える状態ではなかった。王道書院の同僚金原教授は6月に応召、錦州に配属となったが半月ほどして戻ってきた。事情を聞くと、武器が不足しているため日本刀を調達するために戻ってきたのだという。西谷はいよいよ満洲国も「破滅の断崖に直面した」と感じた。ちなみにこの金原教授は副院長日高丙子郎の娘婿である
西谷たちはこのソ連襲来に備えて防空壕を掘ることとなった。鄭孝胥旧宅でいまは書院本館にあたる日高丙子郎邸の庭に掘った。建物の正面に孟子の言葉「養夜気」と彫られた扁額がかかっていた。本校の運動場にも防空壕が掘られた。
9日にソ連が南下し10日未明には関東軍司令部の高級幹部の家族から通化への疎開が開始された11日になり夜明け前から書院の家族も疎開することになった。家族は新京駅に集合し列車を待って疎先に向かった。この通化疎開も軍関係の家族ばかりで、王道書院の家族もこの中に混じって乗り込んだということになる。
11日午後には書院の無期休学の式典、つまり王道学院の解散式が講堂で行なわれた。日高副院長が訓示を与える。訓示が終わった後、西谷は学生にこまごまとした注意事項を」述べて式典は終わった。西谷はここまで日高の片腕になって書院の運営に力を尽くしてきた。これで王道書院はこれで解散となったわけである。
西谷の協和会とのかかわりについていえば、西谷は昭和19年末ごろから、幾人かの同志とともに協和会の刷新に取り掛かっていた。事務長に建国大学の石中広次教授を押していたが昭和20年2月になり、事務長には中村亨現錬成所所長が就任、石中は中央錬成所所長となった。西谷らは首都本部の強化をはかるため刷新案を策定して中村事務長に迫った。協和会の科長は全員更迭して西谷らの同志たちを就任させるというものだった。中村事務長は中央の了解を得たうえで、刷新案を認め、総務科長門野、指導科長津田有信、青少年科長関根らが就任し、具体的な活動も5月末になって動き始めた。「当時の首都本部は、私共の同志で完全に牛耳っていた」という状況であった。
西谷は書院解散式後の事、処理もあらかた終えたことから、活動拠点をこの協和会首都本部に移した。協和会首都本部員兼務というわけである。協和会本部は大同広場の少し南の東側にあった。城内の王道書院からもそんなに遠くはない。
8月14日、日高が国務院訪問のあと書院に寄った。日高は明治9(1876)年の生まれだからこの時69歳、老齢の身である。この時西谷は日高に、東辺道方面への後退を進言した。しかしながら日高は、「ここの所ですぞ。電光影裏斬春風という境地はここの所ですぞ」と、いま後退など考えるべき時ではないと一喝した。斬る太刀も空、切られる自分も空、切るといっても光る稲妻が春風を斬るようなものだ、泰然自若、いま動く時ではない、とそう喝破したのであった。
「日本人相談所」のこと
8月15日、終戦の放送を協和会首都本部の中村事務長室に集まり幹部全員で聴いた。このあと西谷は、「我々は文字通りこの戦争がアジアの解放戦争だと思って働いてきた。この戦争が真に世界歴史の必然性にもとづくならば、ここで一度挫折しても、必ず数十年して再現せられるものと信ずる。(略)ただ日本民族は、今後一致団結して、敗戦の根源を究明して邪悪を切り捨てて再び立ち上がらねばならぬ、徹底的に反省すべきものが多いと思う」と述べたのだという。これが西谷の満洲での活動の原点、中核をなす思想であったということになる。
この日も日高は、文教部の帰りに協和会に寄った。そして西谷は、信玄袋を手にして寂しげに歩いていく日高の後ろ姿を見送ったのだった。これが日高との最後となる。王道書院の北にあたる総領事館付近で騒ぎが起こり、たまたま領事館前を歩いていた日高はその騒ぎに巻き込まれて行方不明となってしまったのである。西谷らは書院の同僚と城内を捜索したがついに見つけることができなかった。この時、王道書院も満軍兵士らの強襲を受け強奪の限りを尽くされた。
その後西谷らは、中村亨宅と伊東六十次郎宅に分宿して暮らした。この伊東宅を西谷らは「梁山泊」と称したのだという。
新京では20日ごろ、副市長の大迫らが中心になり日本人会が組織された。事務所は三中井百貨店の3,4階に置かれ、西谷らはここに附設の「日本人相談所」を開設することとした。その最初の仕事は、終戦前後に行方不明となった家族・知人の動静を調べることであった。会ではまず名簿を作ることから取り掛かったのだが、それは膨大な量に登った。それでもこの名簿から、当時行方不明だった人たちの動静を知ることもでき、役に立った。相談所の訪問者は引きもきらなかった。
相談所仲間の日蓮宗僧侶田代寛諦は興亜街付近の空いている寺を借りて孤児たちを収容した。首都本部の門野総務科長と交渉して孤児院運営資金として1万円を融通してもらって活動した。
地方から新京に避難してくる人たちの惨状は言うに余りあるものであったが、その反面、西谷はもうひとつ「奇妙な生活の場が交錯」して出現したという感じを持ったという。それは、官吏も会社員も疎開民も、日々の糧を得るために、前職や身分などとは無関係に、ひとしみな失業し、みながみな、てんでに商売を始めるという奇妙さであった。一杯飲み屋・菓子屋・下駄屋・煙草の立ち売りなど考えられるあらゆる商売が現れたという。
20日ごろからソ連軍が新京に進駐して来る。このソ連軍はいわゆる囚人部隊で、かれらは強奪の限りを尽くした。9月に入り西谷は、興安大路を歩いていて満系の公安巡警に逮捕され、ロシア兵の駐屯する家屋に連れていかれた。ここで家の掃除や料理の下ごしらえなどにこき使われたという。夕方になりようやく解放された。
日本人会の事務所は、二中井百貨店から満洲重工業、中央銀行裏の満洲生命ビルへと転々とした。そしてここは国民軍が入城して来るとこの事務所も明け渡しとなり、興安大路の電車道角に移った。それにあわせて相談所もここに移動した。
総務庁の鶴永次が日本人会を訪ねてきた。鶴は三江省警務科長、熱河省赤崎県副県長、治安部警務司特務科長から総務庁に移った人物で、ずいぶんの読書家であった。鶴は昭和21年4月下旬、共産軍が進駐してきた時、部下の身代わりとなって自首をしたとという。
ソ連の進駐により、検挙の矛先が、各官庁首脳・大臣次長級から、徐々に西谷もかかわった協和会に移っていった。石原莞爾の時代には、協和会は満洲国の建設に向けての指導機関とされていたが、幾年かが過ぎてこの協和会は、「官僚機構の民衆動員機関、公式の宣伝機関」「行事遂行機関」「劣弱な団体」に堕してしまったというのが西谷の認識であった。
昭和19年ぐらいから西谷ら若手がその改革に着手したものの、大きな変化があったわけではなかった。この協和会会員の検挙も、一年ほど前の会員名簿をもとにし、検挙者の陳述によって補足されたものであった。中村亨事務長も逮捕された。ソ連軍の摘発はますます激しくなり、めぼしい日本人は地下に潜った。このころ西谷らは「雀のお宿」と称す焼き鳥によく出かけた。これは雀捕りが上手な満洲新聞社発送課長の浦山隆行が経営する飲み屋で、ここには、大陸経論社社主宮下為友、山内建国大学教授、協和会参事田川博明らとよく話をした。
通化へ向かう
引き揚げにはあらかじめ大連付近に移動しておくのがよいだろうと考えて南下する居留民も多くなる。西谷と論争して、「精鋭分子」のみの南下を主張した旧東亜聯盟系の友人関根・渡辺両氏もそうした意見であった。
12月末になり西谷は満鉄の斎村虎雄と通化にむかうことを決意した。出発は12月27日の朝と決めた。通化では、共産軍・国民軍そして日本軍が交錯していて様子がよくわからない。ちなみに西谷の妻子や日高先生の静夫人・四男大三夫妻とその子などの家族も通化に疎開し、文教部体育科長の千葉幸雄も通化から動けない状態だった。
列車に乗車し四平を経て梅河口から柳河へ、そして年明けの昭和21年早々、ようやく通化の少し手前で列車を降りた。中共少年兵がここで降りろといったのである。どうも通化では、尋問や氏名の確認などが厳しいということのようだった。そこから歩いて通化の街に入る。町に入ったのは昭和21年1月4日のことである。通化は共産軍の支配下にあった。
妻子を探して歩き、ようやく再会。幾人かの知人とも会った。しかしながら話をしてみるもいささか不穏な気配がする。裏に何かあるという感じだった。通化での宿舎を用意してくれた小向井が訪ねてきて、蜂起の概要を西谷に教えた。125団を中心に通化にいる日本人が決起して共産軍を攻撃し、国民党中央軍の援護を待つこと、成功した暁には東辺道地区に日本人自治区を作り「安居楽業」を図るというものだった。小向井は連絡参謀の役を担っていた。西谷はこのクーデターについて斎村とよくよく検討をしてみたが、賛成することはできないという結論になった。ただクーデターには反対ではあっても、その顛末を見届けようと話を決めた。
しばらくして125師団の藤田実彦大佐が龍泉ホテルから脱出する。そして河内亮通化県副県長らが処刑されるなど、緊迫の度合いを深めていった。西谷は、自身のことを、私立順天国民学校事務員で通化の妻子を連れ戻しにやってきた人物と自称することとした。そして同道した斎村は満鉄新京駅の下級職員で姉を疎開先の通化に探しに来たと口裏をそろえることとした。街には角々に密偵が立っていて油断もすきもない。こうして西谷たちは息をひそめてつうかで過ごしたのである。
通化事件
2月3日ついに藤田大佐らは武装蜂起。送電所、共産軍司令所などを急襲して国民党中央軍の通化突入を待った。しかしながら中央軍の援軍はなく、事は予定通りには運ばず武装蜂起は失敗、多くの死傷者を出した。ずさんな計画でもあり、西谷らは、これは共産軍の謀略ではないかとまで考えたりしたという。
西谷は翌3日の朝、宿舎で拘束され、元龍泉ホテルの軍司令部に連行された。そこからさらに歩かされて満系官吏の宿舎らしき赤煉瓦の家に連行される。この6坪ほどの部屋で100名ほどが立ちっぱなしのまま収容された。銃弾を撃ち込まれて3人が死亡した。翌朝龍泉ホテルの入り口で取り調べを受けたが再び入牢。入牢後8日目の朝、整列させられて、「老齢の者」「無難な顔をしたもの」の幾人かが釈放となった。ここで、体の悪いものはいるかと問われ、西谷が挙手をすると、重労働から免れる「弱体組」に入れられた。ここで握り飯一個を与えられ、龍泉ホテル前で旅団長の訓示を聴いて釈放となった。
いっしょに拘束された斎村もすぐに無事帰ってきた。留守中に共産軍の家宅捜査があった模様だが、金品や婦女子には手を付けられていなかった。ただ、共産軍の手先と称する不逞の輩が強奪や暴行を行なっていた。
帰宅した西谷は、共産軍の日僑辨事処に出頭して身分証明書の発行手続きを行なった。通化事件の余燼も冷めやらず、町では特務や巡邏兵が多く立っていて身分証明書の提示を要請されていたからである。通化から出る列車は遮断されていて、しばらくは様子見であった。
時間もあることから、斎村や隣家の和田らから勉強会の希望が出た。そこで西谷が講師となり、三人で共産党の成立や中国革命史、さらに経学やまた日本の明治維新史などを学習した。さらに読本により中国語の勉強も行った。
2月15日すぎになり長春(新京)に戻るため、斎村と交代で通化駅に出向き、列車の運行状況を調べた。だが列車の運行はまだまだない模様であった。日僑辨事処に移動許可を出して欲しいと出願してみても、生命財産の安全は保障しないという返答で、事実上通化からの移動は禁止に等しい対応であった。ただ長春への移動にそなえて、日本人の隣保長や班長に居住証明書を発行してもらうこととした。これが移動時には大いに役立った。
通過駅からの列車は3月6日に第一便が出ることが分かった。2日に1便、午前6時半発である。日高丙子郎の静夫人にも脱出を薦めたがなかなか決心がつかず、あげく「こっくりさん」をやってみて、「日高丙子郎は生きている、3月15日に通化にやってくる」との「お告げ」が出て、残留すると決めた。西谷が通化から移動すると聞いて、同道を希望してきた人もいた。西谷たちは予定通り8日の便に乗りこんだ。
車内では尋問もあったが、日本人の隣保長が発行してくれた証明書を提示するとそれで事なきを得た。列車は梅河口駅止まりだったので駅前の旅館に泊まろうとするが、巡察兵にあれこれと取り調べられる。ようやく旅館に入いることができ、いそいで夕食をとった。すると宿屋の主人が、西安行きの列車がまもなく出ると教えてくれて、いそいで乗車した。西安に着いた。ここからはソ連の石炭車である。ここで斎村が乗務員と交渉してくれて乗車でき、さらには女と子どもは車掌室に来てもよいと親切に言われ、こうして無事長春に戻ることができたのであった。
引き揚げ後
西谷はその後日本に引き揚げることができた。『論集』の「略歴」によれば、 昭和22年6月には峰山高等女学校の講師嘱託、23年6月京都府、26年2月大阪府に勤務した。昭和32年7月大阪府地方労働委員会事務局調整第一課長心得を経て同年9月には日本道路公団に移り京阪調査事務所調査役などを歴任。昭和48年理事となり昭和51年6月に退職。その後昭和51年7月高速道路計算センター社長、昭和55年3月 西日本ハイウエイパトロール社長、退任後は会長、顧問を務めた。
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図書館で借りて読んだ佐々木到一の自伝『ある軍人の自伝』(中国新書 昭和38年)がたまたま「西谷喜一郎文庫」のものであったことから、西谷のことをもう少し知りたいと思い、『西谷喜一郎文庫目録』や『西谷喜一郎論集』などにより知り得たことをここまで書いてきた。
西谷が通化で体験した通化事件については別に研究もあることから、ここでは現地で事件を体験した西谷の動向を中心に、西谷の文章から抜き出して記してきた。新京や通化でともに動いた人たちの氏名も、あとで調べられるように、西谷が書いたものを書き記した。
『論集』は大部なものであったが、興味を切らさず読むことができた。西谷が関心を持って論じている人物論も面白かったが、やはり注意深く読んだのは、西谷の満洲での仕事、王道書院のこと、そして戦後の通化事件のことなどであった。
なかでも、西谷が、『月刊撫順』『月刊満洲』を編集刊行した城島舟禮の娘婿斎藤(城島)英一と親しかったということは初めて知った。さらには王道書院、これについてはあまり資料もないので、西谷のこの記述は貴重である。
また、西谷が敬愛していた王道書院副院長の日高丙子郎が、間島省在住の時期に、朝鮮人の永新学校をカナダ長老会から引き継ぐことになったとき、その母体が山崎弁栄の光明会であったこと、この日高が光明会に属していたことも今回新たに知ることができた。光明会および弁栄は、今わたしは本にしようと考えている山口玄洞も信奉し敬慕しており、寄附・寄進も行っている。この日高丙子郎のことなど、引き続き調べてまいりたいと思う。 2024年8月3日 記