2022年4月19日火曜日、頭痛がひどい、肩が詰まってしんどいとしきりにいう奥方を家に置いて、早朝にもよりのJR大住駅から参宮線の田丸まで出かけた。その目的は、戦前期に田丸城址にあったという昭徳園の旧址を確認すること、ここに山口玄洞が阿弥陀仏を寄進したというその仏像の行方について手がかりがないかと、調査に出向いたのだった。「調査」といっても、その実、目的の半分は、ディーゼル列車に乗ってのんびりするということにあったわけで、調査・巡覧というのは、いわば言い訳的大義ではある。 山口玄洞というひとは、大正後期昭和前期に、大阪の地で洋反物の商売をして成功し莫大な富を成した人物である。それが58歳の大正7(1918)年7月、病を得て会社を引退し梶井町の屋敷で静養に努めることとなった。梶井町の屋敷は、京都府立医大の北、御車通にあり、戦後は聖トマス学院となっている。この時期から玄洞は自らの資産を投げうって、 維新期に荒れてしまった寺院の堂塔の修復や建立、病院や大学研究所を建設して寄進をさかんに行うようになる。玄洞の生い立ちや事績を少し調べて書いたことのあるわたしは、この玄洞が寄進した寺社や施設・機関を巡覧し、その現況や玄洞寄進の旨がどこかに表記されているかといったことを確認したいと考え、寄進先の寺社や機関をまわっていて、今回の巡覧もその一環であった。 さてこの田丸城址にあった昭徳園の仏像については、玄洞死後一周忌の昭和13年に刊行された『仰景帖』に少し書かれてある。それによると、四日市からこの田丸城址に移ってきた三重感化院が昭和9年に昭徳園と改称し、この時期に弥陀立像一体を寄進したという。そしてそこには仏像とともに玄洞揮毫の「諄信」の額の写真も載せられてある。 この三重感化院というのは、明治30年に山岡作蔵が四日市市に創設した施設で、昭和2年12月に火事で焼失した。たまたま田丸町の城址跡の三分の一が払い下げられると聞き及んで山岡はこれに申請、認可を受けて、昭和3年5月に三重感化院を田丸町に移転させた。払い下げの土地は1万4千坪ほどもあったが、感化院の建物は152坪ほどである。昭和9年1月に三重感化院は三重昭徳園と改称しているから、玄洞はこの時期に阿弥陀立像一体を昭徳園に寄進したのであろう。 この三重感化院に玄洞がなぜ仏像の寄進をしたのかは不明であるが、玄洞が山岡をどこかで見知っていたか、山岡の個人による矯正事業に共感したか、ということなのであろう。また山岡自身が感化院の事業を開始しようとするその動機として、なにか仏教的信仰を持っていたのかもしれない。そんなところに玄洞は共鳴したのではないだろうか。 『三重県玉城町史 下巻』の記述によれば、昭徳園は旧田丸城の富士見門裏手の玉石垣のところに建っていたという。JRの田丸駅から10分ほど歩いて実際に田丸城跡の現場に立ってみると、確かに富士見門からの登り口の右方に、ちょうどそれくらいの広さの平坦地がある。おそらくこれが、三重昭徳園の旧址であったろう。 この昭徳園も、昭和17年に山岡が亡くなってしまうと事業も中断されてしまう。そして翌年それは、軍人援護会三重支部が運営する身体虚弱の子どもたちのための施設「勢南勲児寮」となる。山岡の事業が、公的なものではなく、個人の慈善事業の形であったからそれが引き継がれなかったということなのであろうか。この勢南勲児寮はその後に幾度かの変遷があって現在は場所を変えて玉城町国民健康保険玉城病院として引き継がれる。 わたしが知りたいと思っていた玄洞寄進の仏像だが、おそらくそれは、昭和17年に山岡が亡くなった時点で、山岡家に引き取られたか、どこかのお寺に納められたのであろう。勢南勲児寮や城山病院、山城病院に仏像が祀られることは考えにくいからである。 昭徳園の旧址をゆっくりとみて回り、城山に登ったあと、田丸城の麓の村山龍平記念館に行ってみた。この記念館の二階が村山の事績を展示する部屋で、建物の一階には図書館や教育委員会がはいっている。文化財担当の方であったろうか、ちょうど在席されていて、いろいろとご教示をいただいた。そしてあわせてこの三重昭徳園に仏像を寄進した山口玄洞のこともお伝えしておいた。 ところでこの田丸城の城郭などの建造物であるが、これは明治4年2月8日に競売にかけられたうえ、ことごとく破壊され、城跡は元の田丸山の雑木林にもどり御料林となったという。それにしても、この田丸城に限らず明治維新期の城郭破壊はすざましく苛烈なものであったと実感する。後世からあれこれと言っても詮ないことであるが、神仏分離にともなう廃仏毀釈もふくめて、徳川封建制の遺物とみなされた城郭の破壊や、寺院・仏像破壊は、見るに堪えないものがある。歴史的に見れば、理不尽でもったいない行為であり、それを実行また黙認した維新政府の想像力の欠如であったと言わねばならない。宗教や思想の違いで建造物や経典・典籍の破壊に及ぶというのは、世の習いであるとはいえ、今一度反省を込めて、我が国にあってもその実態を明らかにして世に問われるべき事がらであろう。玄洞が寺院の堂塔の修理や再建に向かったというのも、その寺院が戦乱・戦争や火災で焼失したという場合もあったが、明治維新期の神仏分離令にともなう廃仏毀釈によって荒れ果てた堂塔の再建というものも数多くあった。 玄洞はそれらの幾つかを再建し寄進したわけなのだが、そんな玄洞のもとには、各地の寺社から寄進の願いが数多く寄せられた。だが玄洞は、その寄進の対象を厳選している。その寄進の基準としては、寺に由緒が備わっていること、景勝の地にあること、住職の人格が優れていること、この三つを満たすことを条件とし厳しく選定をした。そしてこれらの条件が整った寺院には、玄洞の方から進んで寄進をしたとされる。この三重昭徳園に仏像を寄進するというケースは、他の寺社へのそれとは大きく性格を異にしているものの、田丸城という景勝の地、山岡作蔵の慈善事業といった点に共鳴したということによるのであろう。 そんなことを考えながら、田丸駅から予定の時間のディーゼル列車に乗り込んだ。日帰りのコースとしては、距離的にもまた調査の内容としても程よく格好の巡覧の場所であった。「調査」という大義を掲げた、楽しいディーゼル列車の旅程となった。 2022年4月23日 記