ブログ・エッセイ


新藤正雄、黙魯庵、黙魯庵漫録、(奈良市)金鐘中学、天理中学校

退職してから週に一コマだけ、司書課程科目の非常勤に出かけている。奈良方面の大学で、文学部を設置していて、ここに国史・国文学、東洋史・東洋文学などの専攻があるので、今自分がやっている作業の調べものにもちょうどいい。授業をすませて図書館に寄って、コピーをしたり本を借りたりするのが楽しみで、また有難くもある。
授業は一時間半だが、おおむね半分のところで、3-4分、トイレ休憩また学生のスマホタイムをとっている。
先般の授業でこの休憩の時間に学生の席をぐるぐる回っていると、一人の学生がガリ版刷のゆかしい資料を見ていた。「ちょっとスマン、見せてもらってもよいか」といって拝見してみた。するとそれは、『黙魯庵漫録 第四(六奈良木辻遊廓の文献)』というもので、新藤正雄の編著、昭和初期の刊行、発行元は「新藤地学文庫」、つまり新藤正雄が著述・編集、そして印刷・発行までもおこなった完全自費刊行の雑誌だ。おもしろそうだったのでこの日の授業がすんだ後、図書館に新藤正雄の本があるかと思い出かけてみて借りてきた。学生が借りていた資料は、彼女が返却した後にまた楽しみにみることにした。
この大学に所蔵の『黙魯庵漫録』は、3-8,10,13号のようだ。13号巻末の一覧などをもとに、その内容を書き出してみると次の通りである。なお内容についている通し番号は新藤が付したものである。
***
『黙魯庵漫録 第一』(一水谷神社と陰陽石 二若草山山麓の陰陽石)
『黙魯庵漫録 第二』(三観阿道人と其の墓石 四水谷騒動の記)
『黙魯庵漫録 第三』(五興福寺の絵馬目録) 新藤正雄著 新藤正雄
『黙魯庵漫録 第四』(六奈良木辻遊廓の文献)
『黙魯庵漫録 第五』(七奈良奉行所 同心仲ケ間被召出候年月覚書 八末尾に津のつく地名調 九「時事笑話」八拾五歳で姙娠)
『黙魯庵漫録 第六』(十奈良の方言)
『黙魯庵漫録 第七』 (十一吉野山地を語る 十二大和の山嶽一覧表 十三荒神嶽のお辰墓(伝説) 十四登山随想)
『黙魯庵漫録 第八』 (十五新薬師寺の印と福岡隆聖師 十六壱銭九厘屋のこと 十七だぐりひとつ 十八浮世絵について 十九看板文字のこと 二十草津と木津 二十一アイヌ語彙に就いて)
『黙魯庵漫録 第九』 (二十二奈良木辻藝娼妓霊名記 其の他未詳)
『黙魯庵漫録 第十』 (二十三お亀ケ池の伝説 二十四お産の軽くなる禁圧 二十五奈良市多門町の事ども 二十六歌川国芳の插絵本目録 二十七奈良の小唄)
『黙魯庵漫録 第十一』(二十八ジャンジャン火の傳説 二十九大阪の手鞠唄 三十名古屋の手鞠歌 三十一安産の祈願 三十二二月堂の扁額に就て 其の他未詳)
『黙魯庵漫録 第十二』(三十三續奈良の方言)
『黙魯庵漫録 第十三』(三十四奈良の童謡)昭和8年8月
***
著者で編者で印刷人で刊行人で頒布元の新藤正雄、號は黙魯庵。新藤にはこの『黙魯庵漫録』以外にもいくつか著述があるようだ。金鐘中学の教員をしていたみたいで、この中学の後身が大学近くにあるので一度新藤の事績を調べてみたいものだと思う。
また、神保町オタオタ氏が見事200円で入手したという「新藤正雄宛柳宗悦講演会の案内葉書」には、「天理中学校新藤正雄宛葉書」であるそうだから、天理中学にもつとめていたのであろう。これも調べてみたいと思う。
***
ところでこの『黙魯庵漫録』を手にとってながめ、また後記などを読んでみると、なんだか共鳴することも多く、どうしても書き抜かないわけにはいかないという気持ちが募って、いくつか書き抜いたものをここに掲出することとした。
***
『黙魯庵漫録 第三』(五興福寺の繪馬目録) 新藤正雄著 新藤正雄
(後記)「・目録作成に着手したのは発見後間もないことで、調査も早く片づいたが色々な事項で出版が遅れて二年越しの今日に及んだ。・讀むべきものでないだけに甚だ興味の薄い物かも知れないが特種研究に従事される人にとっては好い材料たり得るだろう。・此の出現した繪馬は小繪馬研究の資料として尤も有力な物だと自信する所だが現在では現品の散逸が著しいらしいから充分なる研究は至難な事だろう。本當に惜しい事だ。・誌代は七色摺を入れたり少しこり過ぎたので割合に高くついた。御希望の方は実費として四十銭御拂ひ込みください。奈良市東笹鉾町三二 新藤正雄 振替口座大阪三四九一八」

『黙魯庵漫録 第四』(六奈良木辻遊廓の文献)
「雑記 ・此の冊子は百五十部作りました。・納本及び発行の日を記入するのが煩雑に思われ中止しました ・非売品ですが実費として三十銭でおわかち致しませう。・編著印刷発行総て自分一箇でやりました。・是は不定期の刊行物ですが相当に継続してやりたい念願で居ります。」

『黙魯庵漫録 第六』(十奈良の方言)
「ラクガキ ・お正月早々から左の前膊に悪性な腫物が出来て二度切開して貰った 最初十日間は絶体安静にせよとの事でも有るし三十八九度の熱で有った爲め全く寝床生活に日を消して終った -夫れから後約一ヶ月半は傷口の癒着が思わしくないので腕を繃帯で吊した、未だに机上に肘をつくのが苦しいので漫録も非常に遅れて終った 皆様に申し譯がない、これからはそうした事の無い限りは勤めませう。・刊行は不定期ですが毎月一冊はこんなつまらぬ物でも全く自分一個でやる事は過去の経験上出来難い事を知りました。夫れで二月か三月に一冊出す事にしたいと思って居ります、夫れ以上に出し得らるれば喜ばしい事です。・本号は例により非賣品ですが三十銭を実費としていただきたいと思います。印刷及発行者 新藤正雄 発行所 新藤地学文庫 奈良市東笹鉾町三二」

『黙魯庵漫録 第七』 (十一吉野山地を語る 十二大和の山嶽一覧表 十三荒神嶽のお辰墓(伝説) 十四登山随想)
「落書 何時もながら何でもない、こんなつまらない、ちっぽけな冊子はどんどんと作り上げる事が出来ると思ひつつ、さて取りかかってみればそうはいかない。少し趣きは違ふが三度たくめしさへこわしやわらかし思ふままにはなかなかならない。何もせくことは無いのだからぼつりぼつりとやって見よう。昭和七年一月四日夜 奈良市東笹鉾町三二 新藤正雄 振替口座大阪三四九一八 実費三拾銭として」

『黙魯庵漫録 第十三』(三十四奈良の童謡)
(巻頭)「新藤和夫 徳誠院和譽心経居士 明治三十一年一月一日生 昭和三年二月十七日死 新藤幽香里 蓮月幽香童女 大正十一年九月十八日生 大正十二年七月六日死 此の冊子を作り終り弟と長女の事がしきりに思い浮かんで来る。両人の霊前に此の冊子をさゝぐ。」
「楽苦我記 ・こんな採るに足らぬ冊子一つを作るに一年以上も日時を要した。顧みて自分の努力の足らなかった事をしみじみと味った。たとへ此の冊子にのみ力を注いでみたとしたところで私の性分としてはそんなに捗りもしない事だろうが。まあ隙々には。もっと續けてやってみよう。・此の冊子は後援して下さる意味で八拾銭戴きたい。・昭和八年八月廿六日作りあげた。・奈良市東笹鉾町三二 新藤正雄・振替口座は大阪三四九一八番
(2019年7月11日記)